『おにーちゃん』
声に、はっと顔を上げた。
灰色の壁に囲まれたそこは、遺跡の一角にしつらえた部屋。
眼前、穏やかな顔立ちをした黒髪の少女の姿がある。
「……アン?」
『はいはい、アンだよ。寝ぼけてるの? まったくもう、また銃の点検だとかで夜更かししたんでしょう』
話しながら、少女は——エレンの妹たるアンは、火の元から何かを取り出し、エレンの方へと差し出した。
『お昼ごはん。促成栽培芋の試験がうまくいったから、今日はコロッケね』
「ころっけ?」
『お芋とかお豆とかを潰して揚げたやつ。……本当は、卵とかパン粉もいるんだけど』
ほかほかと湯気をあげるそれはまだ熱く、エレンは摘み上げられる温度に冷めるまで待つことにする。
「卵なら、今度採ってきてやろうか。確か、野生の
『ええー……トカゲの卵ぉ……』
アンは嫌そうに顔を顰めた。彼女はなぜだか、爬虫類やら虫やらを食べるのを嫌がるのだ。
多くの集落で家畜として育てられている岩蜥蜴なんかも嫌がるから、エレンは買い物に頼ることなく、いつも狩りで肉を獲得しなければならない。
しかし、アンの頭が良いおかげで何やら色々——それこそ旧文明の芋だとか、集落に持ち込めば値千金の果物すらも手に入るので、文句を言おうという気持ちにはまったくならなかった。
「これでまだ十二歳……将来どれだけ頭が良くなっちゃうんだ……俺の妹が天才すぎる件……」
『おにーちゃん、気持ち悪い独り言洩れてるよ』
「気持ち悪いとは失礼な。兄妹愛と言ってくれ」
『開き直るんだ……』
アンはくつくつと笑いながら、分厚い本を開き始めた。最近遺跡から発掘したもので、“ミクロテキサイシンキカイコーガク”なるものが書かれているらしい。もちろん、エレンにはちんぷんかんぷんである。
「……そういえば、アンってどこで読み書きを覚えたんだ? 俺の
『んー、昔はおにーちゃんも読めてたんだけどね。記憶と一緒に忘れちゃったっぽい?』
「マジか、もったいないな……いや、こうして言葉が話せてるだけマシなのか……?」
『ま、元からわたしの方が頭は良かったけどね』
「へえ。ならいいか」
こんな他愛もないことを話している穏やかな時間が、エレンは何より好きだった。
時間は緩やかに、しかし着実に流れていく。
そうだ、“ころっけ”があったな、とエレンはふと思い出した。
もうすっかり冷め切ってしまったそれを、ひょいと指で摘み上げる。香ばしい匂いがふわりと漂った。
それを口に入れ——首を傾げる。
「……あれ? 何の味もしない……?」
塩を入れ忘れた、という話ではない。“ころっけ”には舌触りすらなく、エレンは空気を噛んでいた。
それに気づいた途端、他の変化が訪れた。
アンが、目の前にいたはずの彼女が、忽然と消えたのだ。
「アン⁉︎」
エレンが慌てて立ち上がると、ふっと部屋の光が消えた。というよりも、視覚がなくなったかのようだった。完全な闇が、エレンの周囲すべてを覆い尽くしていた。
まるで、自分の輪郭すら闇へと溶けていくようだった。エレンは言いようのない不安に駆られる。このまま、自分自身が何であるかすら、闇に混じり切って忘れてしまうのではないか。
だから、ひたすらに名前を呼ぶ。
「アン! アン、どこにいるんだ! おーいッ! 返事をしてくれよ、アン!」
叫んで、叫んで、叫んで——。
†
「……アンッ!」
エレンは、がばりと跳び起き——られなかった。
それもそのはず、背中と足をがっしりとホールドされている。つまり、エレンは未だいわゆる“お姫様抱っこ”の状態で運ばれている真っ最中で、今のは【
「アデル……えっと、おはよう」
目の前にあるアデルの赤い瞳が、ほんの一瞬だけ前方ではなくエレンの顔へと向けられた。
「現在時刻は午前四時十二分二十七秒。起床には適さない。もう数時間の睡眠を推奨」
「いや、この状況で寝るのはちょっと……」
抱えられ方が、という話ではない。ここまで運ばれたのだから、もう諦めもついている。
「……その、揺れがひどくてさ」
遺跡ですらない荒野には舗装された道などなく、アデルは跳躍によって転がる岩やら窪みやらを避けている。走る速度はエレンの全速力よりなお速く、それによって発生する振動はサスペンションのいかれた蜥蜴車よりも酷かった。
「ム……確かに、睡眠には適さない環境……しかしこれ以上【
「それは多分、睡眠じゃなくて永眠だな」
「……肯定。データベースを参照したところ、重度の後遺症ないし死亡の危険性があると判明……発言を撤回する」
つまり、このまま起きてしまうに他ならないということである。
エレンとしては自分の足で歩きたかったのだが、アデルが『許容できない。せめて夜が明けるまで体を休めるべき』とそれを拒否した。
仕方なくそのまま揺られること、十数分。
「……アン、というのは」
ぼそり、とアデルが切り出した。
「エレン、あなたの妹の登録名……訂正。名前、だった。相違ない?」
「ああ、さっきのか……ちょっと、妹の夢を見ててな。寝ぼけてたんだ、悪い」
「否定、責める意ではない。日の出まではまだ時間があり、情報交換の場として適切だと判断……疑問。アンは、どのような人物だった?」
それは要するに、とエレンは少し黙ってアデルの発言を整理する。
「……暇だから、アンの話が聞きたいってことか?」
「否定、当機に“暇”という概念はない。これは情報交換の要求」
「ああ、はいはい。話すよ……っつっても、頭が良くて料理がうまかった、くらいしかとっさに思いつかないが……あと可愛くて器量よしで愛嬌があって天才で……」
世間知らずのレイヴンに対して、一体何を話せば『情報』とやらになるのだろうか。
「料理、とは、あのペーストを油脂で揚げたもの……“コロッケ”のたぐいの話か」
思案していると、なんとアデルのほうから話の深掘りがあった。
都市遺跡から出発したばかりの気まずい沈黙を思い出し、エレンは内心いくらか驚きつつ、「ああ」と軽く頷いた。
「あれもアンの教えてくれたレシピでな……まあ、本当はフル・ペーストなんかじゃなくて、きちんと芋を使ってたんだけどさ。やっぱ完全食で代用すると微妙にマズいんだよなあ……苦いし、ざらっとするし」
「……移動中、当機に搭載されたデータベースを検索した。“コロッケ”は、黄昏より前——即ち、旧文明の時代に食されていた料理」
へえ、とエレンは相槌を打った。
「そんなレシピ、どこの本から見つけてきたんだか」
「肯定。それほど古いかつ重要度の低い情報が戦火を潜り抜ける確率は非常に低い……天では未だ食されているようだが」
「ふーん。美味いもんな、あれ。アンが知ってたのはラッキーだったんだなぁ」
エレンがそう言ったのを最後に、奇妙な沈黙が訪れた。
しばらくの間、アデルが地を蹴る鈍い音と、耳元で風が唸る音だけがその場を支配する。
「……疑問。
「うん? ……古くて珍しいレシピなんだろ? ラッキーじゃねえか」
「肯定……否定……肯定。推測。仮定。それが幸運でないとして——否」
ぴたり、とアデルが話すのを止めた。
「何だよ、何が言いたいんだ?」
「撤回。重要度の低い、かつ正確性に欠ける曖昧な情報を渡すべきではない」
「だからって、そこで止められると気になるんだが……」
「情報伝達に適したと判断したタイミングで共有する」
「……分かったよ」
そろそろ空が白んできたのもあって、エレンは追求するのをやめた。揺さぶられすぎて乗り物酔い、もといアデル酔いをしてきたというのもあった。