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1-1【強制運搬】

 世界が滅んでからどれだけが経ったのか、エレンは知らない。

 やたらと博識だった妹のアンならば分かったかもしれないが、訊いたためしはない。それが五十年前だろうと百年前だろうと、もしかすると千年前なのだとしたって、今を生きる自分には関係のないことだからだ。

 人は現在から未来へと進む。過去はあくまでも足跡でしかない。

「……綺麗な空だな。今日はライトベルトもよく見える」

 エレンがついと見上げた空には、一片の曇りもない眩い星空が広がっていた。丸い月と、地平から地平を真っ直ぐ貫くライトベルトも。

 光化学ガスだとか、粉塵による大気汚染だとか、それらもまた過去の話である。人間がすっかり少なくなったこの世界で、空というのはよく澄んでいるものなのだ。

 しみじみと降り注ぐ光を見つめるエレンを、アデルはじっと見つめて。

「進言。現実逃避に走る精神状態も理解できるが、それで現状が打開できるわけではない」

 ぐ。

 エレンの喉から、呻くような音が洩れる。

「いや……別に逃避してるわけじゃ……」

「現在、手持ちの食料は蛇型変異生物より採取した肉塊のみ。最長でも二日しかもたないと推測。そもそも、夜間は活動が推奨されない」

「……そうなんだけどさ」

 そうなのだ。

 アルカからは一切の補給ができずに追い出され、どころか脅しによって都市に帰ることもできない。

 二人の前に広がるのは見果てぬ荒野で、このままでは旅立ちから数日の内に力尽きてしまうことだろう。エレンの目には、『ほれ見ろガキのお散歩じゃねえか』いかにも人を小馬鹿にした老人の笑い顔が浮かぶようだった。不安からくる幻覚である。

 手を伸ばしてぶんぶんと虚空を混ぜ、エレンはそれをかき消した。こほんと咳払いをひとつ。

「一応……ここから三日くらいの距離に、集落があるはずなんだよ。少なくとも、俺がキャラバンと一緒にいた頃にはあった」

 少しだけ――エレンの見間違いの可能性もあるくらいにほんの少しだけ、アデルの眉に皺が寄る。

「それは、あのアルカなる愚者の集いに類似した場所のことか」

「愚者って……。いや、アルカとは違って生きた旧文明施設なんてない、もっと素朴なところだよ。ただ、広い水場があるんだ」

「水場? 地形データからして、川のたぐいはないと推測される」

「旧文明遺跡が――アルカなんかと違ってもっと遺跡っぽい遺跡があって、そこに泉がいくつか湧いてるんだ。冷たいのも熱いのもあるから重宝してた」

 綺麗な水というものは、時に食料以上の価値を持つものである。それが浴びるほどあるのだから、自然と人も集まってくる。

「質問。そこに辿り着けば補給が可能なのか」

「多分な。……なあアデル。さっき、食料が二日しかもたないって言ってたよな」

 エレンはずっしりと重い自身のバックパックを背負い直す。中身はナイフやら光子銃用のバッテリーやらロープやらこまごました装備に、残りはすべて狩りたての肉である。アデルも大きな鞄を持っており、こちらの中身に至っては水と肉塊だけだ。

 保存食のたぐいとは違い、ただの肉……脂とタンパク質の塊だ。栄養価が偏るだろうことは間違いないが、それでもつなぎの食料としては十分以上である。

砂呑蛇アンフィスから剥いだ肉、結構あるように見えるんだけどさ。本当に二日で食いきるのか? 俺一人なら一週間はいけるんだが……」

「肯定。二日で消費しきる」

 きっぱりとした断言だった。

「……そっか。あれだな、食べ盛りだもんな。きっと背が伸びる」

 こてん、とアデルの首が傾げられる。

「? 否定。レイヴンは成長しない。そもそも当機は稼働開始から一万時間程度しか経過していない」

「一万時間? ええと、一日が二十四時間で……四日で百時間弱だから……」

 読み書きは苦手だが、計算はある程度できる。

 エレンは指折り数え、桁を間違えたのではないかと何度か確認して、それから恐る恐る声を震わせ尋ねる。

「……なあ。つまり、アデルって……一歳なのか?」

「肯定。人間と同じよわいの表現をするのであれば、そうなる」

 エレンは沈黙した。

 正しくは、驚愕のあまり絶句した。

 夜に覆われた中でも闇に沈むことのない真っ白なその姿は、エレンとそう歳の変わらない少女のものだ。背はさして高くないものの、落ち着いた雰囲気があるし、体のラインは子供にはない曲線で構成されている。何歳に見えるかと誰に訊いたとしても、だいたいが十六、七辺りだと答えるだろう。

「……それにしては、普通に話せるけど」

「設計段階で、さまざまなデータ及びシステムがインプットされている」

「はあ……凄いんだな、天の技術っつうのは」

「肯定。当機含むレイヴンは、技術の粋により生産されている」

 数日前……まだレイヴンをただの自立型兵器だと思っていた頃であれば、ここまで驚きもしなかっただろう。しかし今のエレンは、彼女に人間と同じような情緒が――いくらかぎこちないとはいえ――存在することを知ってしまっている。

 そんな思考を振り払うために、エレンは大きく首を振った。

(別に、アデルはアデルだろ。一歳だろうが百歳だろうが、どうだっていいじゃないか)

 だというのに、どうしてこう複雑な気分になるのだろうか。

 自分自身の思考を不可解に思いながら、エレンは意識を切り替えようと他の話題を考える。

「ともかく、なんとか集落に辿り着くとして……今日はもう休んだほうがいいな。砂呑蛇と戦ったってだけでも疲労困憊モノなのに、そっから随分歩いちまった」

 アルカに近い場所だと襲われかねないと判断していくらか移動したものの、本来であれば夜間の行動など御法度も御法度である。人間は夜目が効かないし、危険な変異生物がうろついていないとも限らない。

 日が暮れる前に野営の準備をして、夜の間は火を焚くなり獣避けの装置を作動させるなりして早く寝てしまうに限るのだ。

 しかし、アデルはふるふるとかぶりを振った。

「先ほどの話からして、なるべく早期の補給が推奨される。夜間も移動は続けるべき」

「休まないと、逆に怪我なりなんなりで遅れかねないだろ? こういう時こそメリハリが大事なんだよ」

「肯定……否定。人間たるあなたは休むべきだが、当機はスリープモードよりも移動し続けたほうが効率がいい」

 まさか、とエレンは眉根を寄せる。

「別行動、ってことか? また合流できる保証もないのに」

「否定……協力関係にある以上、当機のみでの行動はしない。そもそも、補給の重要度が高いのは当機のエネルギー必要量が高いため、すなわち責は当機にある。であるならば、当機のスペックを活かしたほうがいい」

「……? 悪い、ちょっと分からん。つまり?」

 難解な物言いを噛み砕こうとするエレンに、アデルがずいっと近寄ってきた。

 何かと思えば、細い腕を素早く腰と膝に手を回して、そのままぐいっと力を込める。完全に不意を突かれたエレンは、あっけなく持ち上げられてしまった。

「夜間は当機が移動を担当する。エレンは休むことを推奨」

「この態勢で休めってことか⁉︎ ちょ、下ろしてくれ!」

「……なぜ?」

「だってこれ……その、あれじゃねえか! あの、男が女子にやるやつ! 昔、アンの読んでた空想文章に出てきた!」

 ああ、とアデルが軽く頷いた。

「過去、この形式の横抱きは俗に“お姫様抱っこ”とも呼称されていたとデータベースに——」

「下ろせエッ‼︎」

 類を見ないほど強い口調で、エレンが吼えるように叫んだ。彼にもプライドというものはある。

 しかしアデルは下ろさない。レイヴンなので非常に腕力が強く、か弱い人間のエレンがいくら暴れてようが解放されそうになかった。

「当機が運搬したほうが移動速度も向上する。二日以内に集落へ辿り着くことも可能と推測」

「だからって、逆だろ! 俺がアデルを運ぶならまだしも……!」

 無論、誰に見られるでもないだろう。集落でもない場所で暮らす人間など、そうそういるものではない。

 しかし、他ならぬエレン本人がこの状況を許容できなかった。純粋に恥ずかしすぎるのもあるが、他にも重要な理由がある。

 つまり、アデルのことだ。

 自身の体を支える二本の腕は細いし、その割に滑らかで柔らかい。ナノマシンとは思えない温もりがある。なぜだかすうっと甘いような匂いもする気すらする。兵器ならば、油や錆やエーテル焼けの臭いであるべきではないのか。

 果たして、天がどういう理由でレイヴンをそう設計したのかは分からないが、長らく一人で……せいぜいあの老人と軽く話すくらいの関わりの中で生きてきたエレンに、その刺激は少しばかり強烈すぎた。

 ここまで密着すると、どうにも意識をしてしまう。サガである。

 しかし、それはアデルに対してあまりにも不義理だろう。許されていい話ではない。

 ……ということを、もう少しぼやかして伝えたのだが。

「レイヴンが雌性体らしき特徴を持つのは見た目だけ。ゆえに、その主張は成立しない」

 当のアデルにそう突っぱねられてしまっては、それ以上言葉を重ねるのも難しく。

「でも一歳なんだろ……俺のほうが歳上っていうかさ……こう、倫理……倫理が……」

「疑問。あなたは製造から一年の車に乗るのを躊躇うのか」

「それとこれとは話が別だろ!?」

 エレンにとっては別である。なぜなら、アデルは人間と遜色ない意思のあるものだと思っているからだ。

 しかしアデル自身は己を兵器であると定めており、つまり彼女にとってのこの状況は、エレンが旧文明の軍用機に乗り込んでいるのとそう変わらないのである。

「説得のため語彙を模倣……完了。“大人しくしていろ”。バベルに辿り着くのが最優先」

「ぐっ……」

 実際、ここまま進めば飢えるのは目に見えている。命をないがしろにしてまで体裁を気にするなど、まったくもって愚かなことだ。

 悲しいかな、こと運動能力という点においてエレンがアデルに勝てる道理はないのだ。運んでもらったほうがいい、それはエレンにも分かっている。分かっている、その上で。

 嫌すぎる。男としても、歳上としても。

「せめて背負うとか……」

「却下。背には荷物が積載されている」

「じゃあ、肩に担ぐとか……」

「却下。体格が違う。安定しない」

 往生際悪くいくつかの提案をしたものの、真っ当な理由ですげなく断られる。もはや逃げ道はないようだった。

 それでも尚、他の説得方法を探すエレン——その首筋に、なにやらヒヤリとした感覚。

「あなたが疲労で行動不能になれば、それは当機にとっても不利益にあたる……ゆえに」

 キュイン、と何かが稼働する音を、エレンはアデルに密着した耳にてしっかりと受け取った。その赤い瞳に、一筋の白い光が走ったのも。

「あの……何を? なんか、砂呑蛇をすげー勢いでブン殴ったときみたいな感じになってるけど……アデル? アデルさん?」

「少々のエネルギーは損耗するが、必要経費と判断。コマンド:【電撃スティング】」

 ばちり。

 首元で何らかが爆ぜるような音が鳴り響く。

 間違いなく、アデルの持つ兵器としての機能——あの【加速ブースト】や【熱線レイ】と同じような、何かだ。

 ……そこまで考えたのを最後にして、エレンの意識は闇へと沈んだ。


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