あの奇妙な客が来店し始めたのは、彼から会う回数を減らそうと提案された5日後のことだった。
声を発することが出来ない病の客だと受付から耳打ちされたけど、そんなことは私にとってどうでもいいことだった。
「ご来店ありがとうございます。本日はよろしくお願い致します」
「……。」
あの人以外の男を相手することに何の変わりもない。
嫌で嫌で仕方のない、苦痛を伴う最悪な時間が訪れるのだとばかり思っていた。
「…失礼ながら、声は聞こえているのだとお聞きしました。何か困ったことやご要望などあれば、良ければこちらの紙で筆談を……私自身が文字を書くことは出来ませんが、簡単な文字なら読むことは可能です」
「……。」
ジュンイチさんに遊びで教えてもらった文字の読み方を、こんな形で使う羽目になるとは思いもしていなかった。
小さく頷いた客が、障子扉の入り口付近から遠ざかり、白い布団の上へと一直線に歩みを進める。
事だけ済ませてさっさと帰りたい客か……そう判断して、こちらも後を追って機嫌を損ねないように行動を合わせた。
男性にしてはかなり小柄な体型に、サイズの少し大きい袴を身に纏っている姿。
……若い客だ。おそらくジュンイチさんと初めて会った時と同じくらいの年齢だろう。
身体つきだけじゃなく顏もどちらかと言えば女に近い造形で、目の前のやつがそうだったらどれだけ良かっただろうにと…現実逃避をしながら着物に手をかけた時だった。
「私は女です」
何故か正座をしている目の前の客が、信じられないような言葉を放つ。
一瞬だけ目を見開いて固まり、何が起こっているのかを冷静に考えようと試みる。
それでもあり得ないという言葉だけが頭の中を駆け巡って、正常な判断なんて一切出来なかった。
今度こそ……私にとって都合の良い夢を見てるんじゃないか?
女であれば良かったのにと想像してしまったことで…現実と夢の境がわからなくなり、幻聴が聞こえたのではないかと思った。
けれど、相手に可愛く小首を傾げられたことで、女にしか見えない仕草に正気が戻ってくる。
「……は?」
「声が出ない病気だと示したことも、女だとバレないようにするための嘘です。今まで会話も成り立たず、すみませんでした」
もう一度女の声でスラスラと話しかけられて、幻聴ではないことを証明される。
もし今聞こえた声が現実で、目の前の出来事が実際に起こっていることなんだとしたら、じゃあ…どうやって……この女はこんな所まで忍び込めたんだ?
「あ、あり得ない…でしょう。だって…身分証明は」
「この花街内の楼主の息子だと証明した手形も偽物です。私はこの花街の人間ではありません」
……そんな、ことが…あり得るわけがない。
だって…だってそんなことが、出来てしまうのなら……
「何、言って…」
こいつを利用して、私の身分証を手に入れることだって出来てしまうかもしれない。
そうすれば……ジュンイチさんに身請け金を負担してもらわなくても、私たちは一緒になれるんじゃ……
来るのを控えると約束したあの日からも、2日おきで会いに来てくれているジュンイチさんを思い浮かべる。
バクバクとうるさい心臓の音が、耳の中でも大きく木霊して一向に鳴りやまなかった。
混乱している所為で、相手が私の首元近くへ手を伸ばしていることに気付くのが遅れる。
私の着物を触り、何がしたいのかわからない動きをされてすぐその手を振り払った。
「何が目的なの?……内容に因っては妓夫に突き出すから」
「よかった…話を聞いて下さって助かります」
「……。」
相手の目的次第では利用出来るかもしれない。
そう思って脅し付きで問いかけたにもかかわらず、平然とした態度でほっと息を吐かれる。
罪を犯して潜入している身にしてはあまりにも危機感のない様子から、これは罠なんじゃないかと思った。
最初から店側の人間と結託している可能性だってあり得ないわけじゃない。
すぐさま部屋の出入り口付近に移動して、障子扉の前に立つ。
私がいつでも外へ報告出来るように場所を変えても、相手の落ち着き払った反応はあまり変わらなかった。
通報されたとしても策があるのか…それとも端から店側とは協力関係にあるのか…
どちらにしても、私にとっては命に係わるかなり危険な綱渡りだった。
「私に良いことなかったら、あんたの肩持つ理由なんてない。犯罪に巻き込まれるのなんてごめんだね」
相手が早々に目的と理由を開示しないのであれば、すぐにでも通報した方がいい。
偽の身分証に関しての情報は欲しいけど、命には代えられない。
そう…覚悟を決めて、鋭い視線で相手を睨みつけた時だった。
「あなたを含め、下流階級の遊女たちを…花街から全員逃がします」
相手の返答を聞いてまず第一に思ったのが……なんて非情な嘘をつくんだろう、という怒りだった。
私たち下流階級の遊女が、どれだけそれを求めているかを知っていて、そんなことを言うのだから。
どれだけ切望して、苦しんで生きているのかを知っていて、そんな嘘を平気でつけてしまうのだから……
「馬鹿にしてんの?」
目の前にいる女は、あまりにも非情過ぎる…