『早く…迎えに来てくれるって……言った』
『そうだね。本当にすまない。……ああ、そうだ。それならこれはどうだろう?』
『……?』
優しく涙を拭ってくれる手に縋りついて、少しだけ首を傾げる。
早く身請け出来る良い方法を思いついたと、そう表情で示す彼を見て、また私の中で希望が湧き始めた。
どんなことでも、身請けの時期が早まるのなら協力したい。
たった1人で私を救い出そうとしてくれている彼の力になれるなら、何だって頑張りたい。
そう思って、溢れてくる涙をもう一度自分で拭い、真っすぐに彼の目を見つめた時だった。
『身請け金を貯めるために、ここへ来る回数を減らすのはどうかな』
『……え?』
『今日で丸8年、支払った分は終わってしまっただろう…?つまり次からは、ここへ通うのに新しくお金がかかってくる。毎日通うとその分支払いが生じて、八の身請けはどんどん遅くなってしまうだろうから…』
『ッ……でも、それは!』
『わかってる…毎日来なくなったら、俺以外の客から指名が入るかもしれない。でもな、八…このまま通い続けたら、いつまで経っても身請け金は貯められない』
何とか…これからの未来のために、堪えてくれないか?
そう苦し気に伝えられた途端……悲しさで身体が震えだして、また堪えていた涙が両頬を伝い始める。
他の男から指名が入っても何とか堪えてくれ、そう切なげにお願いされた瞬間……切れやすい刃物で、ズタズタに傷つけられたような気分になった。
ジュンイチさんは、それで平気なのか。
一瞬開いた口から出て行きそうになった言葉を、何とか歯を食いしばって飲み込む。
飲み込んだ言葉が胃の中でひどく暴れ出して、彼と出会った時のように吐いてしまいそうになった。
口元に両手を当てて吐き気を抑え込み、必死に頭の中で考えを巡らせる。
彼の言ったことは理に適っている。
いつまでもこんな生活を続けていてはお金なんて貯められない。一緒に自由になる未来なんて中々手に入らない。
どんなに辛いことでも、堪えなくちゃいけないことはある。
幼い時から守ってもらって、ジュンイチさんには負担ばかりかけさせてきた。
2人の未来なんだから、2人共が頑張って堪えて、乗り越えていかなくちゃいけない。
理性ではわかっているはずなのに、どうしても感情ばかりが先行して…苦しくなってしまう。
どうして他の男性に抱かれるのが平気なのかと、思い切り……早く身請け金を貯めるために必死な彼を責めてしまいそうだった。
私の身体よりも身内の治療を優先した彼を、怒鳴りつけてしまいそうだった。
『八……本当にすまない。少しの間、頑張れるかい?』
『……。』
『必ず…必ず迎えにくる』
『ッ…!』
『だからそれまでは、俺を信じて待っていてほしい』
ぎゅっと抱きしめられて、あの安心出来る声で囁かれた途端、震えて強張ていた身体の力が抜けていく。
やり場のない怒りも共に私から抜けていって、最後に残ったのは、彼が愛しいと想う感情だけだった。
『…ッ、わか……た』
信じて…待ってる。
ぐっと目を瞑りながら、強く心に誓った2週間前の出来事を思い出す。
あれから彼は宣言通りにここへ来る回数が減り、毎日会えることはなくなってしまった。
最初は2日に1回だった逢瀬が3日に1回へ変わり、そして今日に至っては5日ぶりの夜だった。
会いたかったと泣く私に対して、彼が困ったように眉尻を下げる。
最初の彼は待たせてすまないと謝罪をしては、泣かないでくれと背中を擦って慰めてくれていた。
けど最近に至っては、そんな泣き言ばかり言う私に呆れたような溜息をつき、慰めてなどくれなくなった。
吐いていることをアピールだと捉えるくらいには、彼の反応は冷たく、寂しいものになっていた。
「八……俺だって泣いてばかりいられると頑張れなくなる」
「ッ…!」
「会えない間頑張っているのは俺も同じだ。身請け金を稼ぐために必死で働いて、だが八に会えば泣いて責めるようなアピールをされる……辛さしかないよ」
「ごめ…なさ……ッ」
ぎゅっと抱えていたゴミ箱を無理に手放して、彼の方へと身体を向ける。
もうどんなに苦しくても吐いたりしない。そう心の中で誓いながら、ボロボロと零れてしまう涙を思い切り拭った。
「……八が辛いのはよくわかる。だが俺だって辛いんだ……なあ八、もう泣くな」
笑って待っててくれ。
そう辛そうに、悲しげな表情でお願いされた内容に……ひどく胸が苦しくなった。
「ッ…うん、わか…た」
「……。」
笑って、待つ。信じて、待つ。
それは彼を愛していれば簡単なようでいて、彼を愛しているからこそ難しい約束でもあった。
「絶対…ッ、絶対…信じて待ってる……笑って、ッ…待ってるから!」
無理に笑顔を作って、ゴミ箱の代わりに布団を握り締める。
決して誓った約束を違えないように、奥歯を噛みしめて、不安も全て押さえこんで、あなたを愛していると笑って見せる。
「ジュンイチさんが来れない日でも、ッ…私、笑って……待ってられるから…」
…大好きだよ、ジュンイチさん。愛してる。
そう笑顔で愛を伝えた私に対して、彼が少し驚いたような顔を見せる。
けれどそれも一瞬の間で、すぐに穏やかな笑みを浮かべてこう答えられた。
「ああ……俺もだよ、八…」
久しぶりに腕を引かれ、彼に強く抱きしめられる。
優しく背中を撫でられて安心し、必死で涙を堪えながら笑顔を作った。
愛してる、愛してる…と何度も呟く私とは対照的に、彼が一言だけ小さく声を発する。
その時の私は彼へ愛を伝えることに必死で…彼が何を言っていたのか、はっきりと聞き取れていなかった。
「……そろそろ頃合いか」
その夜を最後に、彼が私を指名することは二度となかった。