ジュンイチさんに対して、一切疑問に思わなかったわけではない。
私を8年指名したことや、未だに手を出さず寝てくれることへ…疑問に思わなかったわけではないんだ。
ただどうしても、これを知ってしまったら彼は居なくなってしまうんじゃないかと不安が過ぎった。
万が一そんなことがあったら、私はきっともう立ち直れない。
それほどに彼の存在は、私の中で大きく大きくなってしまっていた。
「八…!薬だ!!早く傷口を見せなさい!早くッ」
「……ジュンイチさん」
「ほら!買ってきたからな!消毒液だこれはッ!」
「わかってるよもう……」
ほんの少し切った指先の傷へ、大量に消毒液をかけられる。
私が昼間に軽く怪我をしたと報告した途端、血相を変えて走り出したかと思えば、一旦外へ出て薬を買って来たらしい。
息を荒げながら必死に手当てをしようとする彼を見て、プッと吹き出しケラケラと笑う。
そんな私の様子を見たジュンイチさんが、少し気恥ずかしそうに咳払いをして目線を向けてきた。
「……八は、大きくなったな」
「……?」
「出会った頃は泣いてばかりいたが…今では俺を小馬鹿にして笑えるくらいになった」
「フッ……クク、ごめんね」
たった少しの怪我で大慌てして、私のために薬を買いに行ってくれる姿。
それを見て笑みを堪えるなんて私には出来なかった。
ありがとうと、愛しいと……そんな気持ちが溢れ出して、微笑まずにはいられなかった。
「手も大きくなってるな……綺麗な指だ」
「ッ……!」
ぎゅっと握られた手に思わず顔が熱くなる。
不意打ちでされた行動に、反射で顔を俯けていると、私の様子を察したのかすぐさま手を離された。
「ああ…すまない。許可を得てなかったね」
「ッ…違う。別に、嫌がったわけじゃないよ。それにもう私だって16だ。そんなことで怯えたりなんてしない」
「フッ…そうか。……あれからもう3年も経ったのか」
懐かしむように微笑まれて、余計に頬が熱くなっていく。
出会った頃の情けない自分を思い出されているのかと思うと、居てもたってもいられず誤魔化すように大きく声を発した。
「ゆ、指が綺麗だとか手が大きくなったとか!そんな程度の褒め言葉じゃ、ジュンイチさんモテないよ!もう21でしょ?!」
「フッ…ク、はは!……そうだね、八の言う通りだ」
……綺麗になったね、八。本当に綺麗だ。
そう優しく、微笑みながら呟かれた一言に、体中の血が沸騰したかのように熱くなる。
もう誤魔化しようがないほどに赤面した顔を俯せて、両手で出来る限り頬を冷やした。
煽っておいて、私の方が返り討ちに合っている。
まだまだ私は子どもだと悔しい反面、大人で器の大きい彼に心酔した。
彼の全てを知りたい。
私の知らない彼を全て理解して、その上で、この愛しい気持ちを伝えたい。
助けてくれたあの日から親愛だと思っていた気持ちは、とっくに姿を変えて恋慕になっていた。
「……ジュンイチ、さん」
彼が私を8年指名した理由も知らず、なぜ手を出さないのに遊郭へ通っているのかも知らず、この想いを伝えるのは逃げだ。
彼の事情を何一つ理解しようとせず気持ちだけを押し付けるなんて……そんなのは絶対に、本当の愛なんかじゃない。
「ジュンイチさん……私ッ」
意を決して、俯けていた顔を勢いよく上げた時だった。
あの日あの時の…私を助けてくれた瞬間以上の衝撃を受ける。
8年間毎日指名すると宣言してくれた…あの時よりも遥かに上の、感動が押し寄せてくる。
「……好きだ、八。俺と結婚してくれ」
「……へ?」
理由を…聞きたいと思っていた。
彼に対して愛しい気持ちを伝えられるのは…全てを知ってからだと思っていた。
「…初めて会った時から、君だと思ったんだ。君を守って俺が幸せにしてやりたいって…心の底から思ったんだ」
なのに先行して出てくるのは、決して理由を知りたいという欲求じゃない。
「好きだ……八、愛してる」
「わ、私ッ……わたし…も!…ッ」
今すぐに彼からの申し出を受け入れたいという……馬鹿で、考えなしで、愛を伝えたいという我が儘な欲だけだった。
「良かった……俺の想いが伝わって。信用してもらえて良かった……」
「ッ……!」
3年という月日は、言葉で表せば短いようで、実際にはとても長かった。
毎晩毎晩、変わらず優しい笑顔で訪れては、八…と愛しさを含んだ声で私を呼んでくれる。
あの日地獄の環境から救い出してくれただけじゃない。
その後も継続して支えてくれて、それどころか、私のことが愛しいと行動全てで示してくれていた。
好きだと告げてくれたのは、3年経った今日が初めてだ。
愛していると、結婚してほしいと……言葉で表現してくれたのは今日が初めてだ。
3年間休むことなく通い続けてくれた彼の行動で…
「身請けして、必ず君を自由にする」
……信じるには、十分だと思えた。
「ここから出て、必ず結婚しよう。だが身請け金が貯まるまでの間…あと5年は、すまないが我慢してほしい」
いくら疑問があったとしても、それはひたすらに見ないふりをした。
「身請け出来るようになるまで、今まで通り毎日ここへ通うよ。八も知っているだろうけど、先払いで予約は済んでるからね。安心して、待っていてほしい」
こんなにも優しくて純粋な人が、嘘をつくわけがない。
心の底から私が愛しいと、表情や行動で示してくれるこの人が、悪い人なわけがない。
だから私は……
「ッ…待ってる……う゛ぅ…ずっと…ッ、ずっと、待ってる」
温かくて、大好きで大好きで仕方のない…彼の全てを受け入れた。