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No.49 第18話『ほころび』-3



「八……朝だ。そろそろ起きれるか?」

「……?」


翌日、目覚めた私の前にあったのは、あのジュンイチという客の優し気な笑顔だった。


寝起きとは思えない早さで飛び起きて、彼から一気に距離をとる。

そんな失礼な反応をしたにもかかわらず、彼は怒ることなく少し寂し気な様子で呟いていた。


「そりゃ警戒して当然だよな。遊郭だからな……ここは」


後頭部を掻きながら、決して私と距離を詰めずに観察してくる。

水桶でタオルを濡らして絞り、一定の距離を保ったまま緩やかな動きでそれを私の近くまで投げてくれた。


「体調は大丈夫かい?……落ち着いたかな?」


畳に転がったタオルを恐る恐る手に取り、ゆっくりと広げて、顔へと持っていく。

決して彼から目を逸らさないように注意しながら、頬と鼻と口だけを拭った。


「ん……昨日より顔色は良さそうだな。吐き気はまだあるか?」

「……。」


何も言葉は返さず、首を軽く横に振る。

その様子を見た彼が安心したように少し息を吐き出して、良かった…と聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。


「……おそらく、しばらくは胃が食べ物を受け付けにくくなる。今晩また来るから、その時に食べやすい物を持ってくるよ。それまでは我慢出来るかい?」

「……。」

「妓夫にはあれだけ釘を刺したからね…身の危険はないはずだ。客として8年私が時間を独占するから、他の客から乱暴に扱われることもない。夜も安心するといい」

「ッ……」


本当は、昨日あった出来事は夢なんじゃないかと思っていた。

私が作り出した都合の良い幻。まるで絵本に出てくるかのような夢物語。


こんなことが有り得るわけがない。

そう内心否定していたにもかかわらず、再度目を見開いて驚いてしまう。


改めて言葉で伝えられた瞬間、反射的に恐れもなく口から本音が飛び出していた。


「何、が…目的、ですか……」

「……?」


目覚めてからの第一声。

介抱してくれたことへのお礼や、妓夫から危ないところを助けてもらった感謝ではなく、真っ先に出てきたのは疑いの言葉だった。


どう考えてもおかしい。

何も取柄のない汚かった私を8年間指名。


いくら良心的な中流階級の人間が存在するとしても、ここまでするなんてあり得ない。

絶対に何か理由があって、企みがあるはず……安心なんて出来るわけがなかった。


「私を8年も指名して…あなたは何がしたいんですか?他の子をキャンセルしてまで私を選んだ理由もわからない……それに」


遊郭まで来てお金を支払っておいて、手を出さない理由はなに……?


そう震える声で発した質問に、ジュンイチと呼ばれた彼が眉尻を下げて微笑む。

簡単に信用してもらえないことを悲しむかのように、少し切なげに呟かれた。


「あなたじゃない……ジュンイチだ。これからはそう呼んでくれ」

「……。」


私の必死で投げかけた質問には答えず、要望だけを伝えられる。

怯え半分、不快感半分で、自然と眉間に皺が寄った。


私の表情を見た彼が、困ったような顔をして再び後頭部を掻く。

んーー……と小さく悩ましい声を発した直後、意を決したように顔を上げて真っ直ぐ視線を向けられた。


「八が疑う気持ちもよくわかる。ただ……今ここで俺が説明したところで、八はそれを信じる気になるかい?」

「ッ……!」

「……そうだろう?信頼関係もなく、昨日会っただけの俺の言葉なんて信じられるわけがない。言葉ならいくらでも偽れるからね。だから……これから毎日、俺が行動で示そう」


八が俺を信用出来ると思った時に、もう一度問うてくれ。その時は……嘘偽りなく理由も含めて全てを話そう。


そう満面の笑顔で言い放たれて、思わずポカーンと口が開く。

動揺と混乱で彼から目を離すと、八……とまたあの優しい声で呼びかけられた。


「約束だ。昨日のように、これからは俺が君を守る」

「……?!」

「今日からは毎晩、安心して眠ったらいい。大丈夫だ。君が触れてほしいと言うまで、俺は絶対に触れたりはしない」

「本、当……に?」

「ああ……」


本当だ。


そう温かく包み込むように囁かれて、じわじわと両目から涙が溢れ出す。

緊張していた身体がふっと軽くなり、その場へ小さく蹲って畳に額を擦り付けた。


もしかしたら本当に、これから安心できる生活が送れるのかもしれない。

夢にも見なかった…殴られず、身体を売らなくていい生活が送れるのかもしれない。


そんな期待がいっぱいの中で、言い辛そうに呟かれる。

その温かい一言は、私の中へすんなりと入り込み、瞬く間に拒絶反応を見せず広がっていった。


「あー、……そうだな。言った傍からですまないが……泣いている子を慰めるために、頭へ触れたいとは思うよ」


困ったようにまた後頭部を掻いて、眉尻を下げながら優しく微笑まれる。

まるで私の承諾を得るまで触れられないと示すかのように、左手が宙を彷徨っては力なく垂れ下がり、また持ち上がっては膝へと戻っていった。


それを見た私が発した返事は、今までの自分からは信じられないような警戒心のない言葉だった。


「触れ…て、……です…」

「……!」

「あた、ま…触れて…ッ、……大、丈夫…です」


ジュンイチさんなら……


そう震える声で小さく発しながら、涙でグシャグシャの顔を持ち上げる。

私の声を聞いたジュンイチさんが驚いた様子からすぐさま笑顔になり、ゆっくりとした動作で近づいてきた。


温かくて大きな手が、私の後頭部を優しく撫でる。

生まれてから一度も、こんなことをしてくれる人などいなかった。


私が泣いているのを気にかけて、慰めてくれる人などいなかった。

私が殴られているのを気にかけて、守ってくれる人などいなかった。


「八は……リンゴは好きかい?」

「りん、ご……?」

「擦り下ろしたリンゴだ。まだ食べたことはないか……よし、今晩持ってこよう」


私の体調を心配して、食べ物をくれる人などいなかった。

私の身体を心配して、欲を一切出さず傍にいてくれる人などいなかった。


「……ゆっくりでいい。ゆっくりでいいからな」


優しくて落ち着く声に涙が溢れ続けて、頭へ伸ばしてくれてる腕へと縋りつく。

背中をゆっくり撫でてほしいとお願いすれば、わかったとすぐさま癒してくれる。


出会ってすぐのこの日から、私は毎晩彼に縋りついて眠るようになった。

まるで母親を求めるかのごとく癒しを欲して……私は彼の腕の中で、眠るようになった。

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