鬼の形相で振り向いた妓夫が、声の主を見た途端、慌てた様子で笑顔を作り始める。
金払いの良い客だったのかはわからないが、あの妓夫が声色を変えて言葉を返していた。
「ああ、ジュンイチさん、本日もご来店ありがとうございます」
「いえ……それより、その子のことだが……」
「あー、こいつは客の前で盛大に粗相しちまいまして」
「……少し良いかい?」
私と同じ目線になるように、若い男性客が屈んで覗いてくる。
涙でグチャグチャになっている顔をじっと凝視されて、訳も分からず困惑した。
逃げないように妓夫が髪を掴んだまま、私の顎を掴んで持ち上げてくる。
その反動で胃の気持ち悪さが再発して、必死に吐瀉物を外へ出さないように耐えた。
「……大丈夫か?」
「ッ……う゛……」
「おら!!ちゃんと答えねェか!!」
「う゛ぅッ……ダイ、じょうぶ…です……ッ!」
「……。」
しばらく真剣な表情で黙り込んだジュンイチという客が、徐に立ち上がって妓夫へと身体を向け直す。
その直後、意を決したようにハッキリとした声で宣言された。
「この子は今から俺が指名する」
「……は?」
あまりにも信じられなかったのか、妓夫が作り笑顔を崩して眉間に皺を寄せる。
掴んでいた髪を乱暴に離され、勢いよく背中を叩かれたことで、我慢していた吐瀉物が少し口から伝い落ちた。
「いやいやジュンイチさん!こんなゲロ臭ェ子わざわざ選ばなくとも!いくらでも小綺麗な子はおりますから!」
「いーや、この子にする。今すぐ部屋を用意してくれ。それから清潔なタオルと水も欲しい」
「……わ、わかりました」
「ああ、あと、先ほど指名した部屋で待ってる子は、すまないがキャンセルしたい。出来るか?」
「はい……その子は下流階級の『良』で?」
「いや、『可』だな」
「……こちらの汚ェ子は『良』ですが、料金は上乗せでもよろしいのでしょうか」
もう一度、客に斜め上から視線を向けられて、ビクッと身体が反応する。
こんな状態の私を指名して何の得があるのか……
わざわざ指名していた相手をキャンセルして、私を選ぶ意味が全くわからない。
もしかしたら、この客は加虐趣味のある人間で、私が妓夫から乱暴に扱われているのを見て楽しくなったのかもしれない。
自分も殴りたい。傷つけて遊びたい。そしてそれをやってもいい相手なのだと、私の状態を見て判断してしまったのかもしれない。
それ以外のことで私を選ぶ理由なんて……見当たらなかった。
「ッ…う゛、ぅ……」
でももし、このまま妓夫に連れて行かれたら、ひどい目に合わされるのは目に見えている。
気が済むまで殴られて折檻部屋で放置される上、商品としての価値はないと店側に判断されれば捨てられるかもしれない。
この客に乱暴に扱われたとしても、気に入られて……商品としての価値があると店側に示せれば、まだ待遇はマシになるのかもしれない。
究極の選択を迫られているが、それを選ぶ決定権も私にはなく、目の前の客に託されてしまっている。
どうか見捨てないでと両目を強く瞑って、身体を震わせていた時だった。
「……ああ、もちろん。上乗せでいい。なんなら8年ほど、この子の指名で料金を前払いしよう」
「……?!」
今度は妓夫だけでなく、私まで目を見開いて驚く。
ただただ口を開いたまま固まって、今言われた内容をしっかりと理解するのに数秒かかった。
8年も指名する意味がどこにあるのかはわからなかったが、とんでもない年月を共にしたいと言われているのは確かだ。
妓夫に至っては、私よりも理解が遅く反応を返すことすら出来ずにしばらく立ち尽くしていた。
「は……?8年??」
「ああ、8年分。毎日通ってこの子を指名したとして、いくらかな?今日支払って帰ろう。それでこの子を8年独占して予約したい」
「ど、どく……は、え…あ……う、上に聞いて参ります。お帰りの際に、改めて交渉でもよろしいでしょうか」
「もちろん、構わない」
腰を抜かしそうなほど驚いている妓夫が、放心状態でお辞儀をして、たどたどしく部屋へと案内し始める。
その時にぐいっと左腕を引っ張られ転倒しかけたが、何とかバランスを立て直して妓夫の後をついていった。
自分の身に、今何が起こっているのか……冷静に判断出来ない。
予想すら出来ない状況で……再び震えが止まらなくなって、胃の不快感に右手を口へ当てひどく嘔吐いた。
正気を取り戻したようにチッと舌打ちをした妓夫が、私の左腕を力の限り強く握る。
痛みに耐えられず声を出して呻いた瞬間、後ろから優しく右腕を握られ囁かれた。
「8年間、私のお相手をしてくれる子だ……すまないが、もう少し大切に扱ってもらいたい」
スッと後ろへ引っ張られて、すんなりと妓夫が掴んでいた左腕を離す。
右腕で彼の手の温度を感じた直後、汚れた口元を何かの布で拭われた。
「ッ…申し訳ございません。機転が利かずお見苦しいものを見せたままで……そちらのハンカチは弁償致します」
「いや、いい。それよりも、この子を乱暴に扱っていることの方を詫びてもらいたい」
「は……?え、は……?」
左手で、優しく頭を撫でられる。
初めてのその感覚に、身体が石のように固まって動けなくなった。
頭と、右腕から感じる彼の手が、やんわりと離れていって……慈しむように微笑まれる。
「いや……それすらも煩わしいか」
再び優しく背中に触れられて、慣れていない身体が怖がりビクッと反応する。
吐き気を落ちつかせるように擦られた背中が、信じられないほど熱をもって、温かく……心地良かった。
「もう謝罪もいい。部屋の場所を口頭で教えてくれないか?自分で向かう」
「いやあの、ジュンイチさ……」
「君は受付に行って、別の若い衆に水桶とタオルを持って来てくれと伝えてくれ。もうそれだけでいい」
「ッ……はい。承知しました」
妓夫の震える握り拳が、私の目線から真っすぐ見える。
あまりの恐ろしさに身震いすると、ジュンイチと呼ばれていた彼が念を押すように呟いた。
「今後も……私に許可なくこの子へ手を上げるのはやめてくれ。わかったか?」
「ッ……はい。……お約束、致します」
……信じられない。
本当に、目の前で起こったこのやり取りは、現実のものなんだろうか。
本当の私は、まだ乳幼児施設の警備員を相手させられていて、これは……私が作り出した夢なんじゃないだろうか。
1人のお客が、私を8年も指名することで店側に価値があると示して、更に乱暴をしないようにと妓夫へ諭している。
そんなこと……本当に、あり得るのだろうか……
自分の腕に手を持っていって爪を立てる。
微かに走る痛みに夢じゃないと確信した瞬間、更に動揺が隠せなくなった。
おろおろと目線を泳がせながら、妓夫が部屋の場所を説明している声を聞く。
妓夫が話し終えた後、さあ行こうか……と優しく男の人に手を引かれて、再び廊下を歩きだした。
真っ直ぐ進んだ場所。突き当りにある部屋の障子扉を開けて、敷かれている白い布団に誘導される。
これから何が起こるのかを考えた途端、またあの気持ち悪さが蘇って来て、口元を両手で抑えた。
「大丈夫だ。……大丈夫」
「う゛……うぇッ」
「落ち着け。横になれ。……そうだ。大丈夫。吐きたければここに」
部屋に備え付けられていたゴミ箱を手渡されて、勢いよく胃の中のものを吐く。
我慢の限界を迎えていた分、一気に吐き出して、体内で消化しようとしていたものが全て無くなった。
「はあ……はあ、う゛…ッ…はあ……う゛えッ……ごめ、なさ」
「大丈夫だ。安心しろ……大丈夫」
……何もしない。
そう、優しく呟かれた一言に、ピタッと身体が制止する。
ずっと、恐れていたことを見透かされたようだった。
「大丈夫だ、何もしない。大丈夫だ」
ゆっくりと背中に手を当てながら、労わるように撫でられる。
決してそこには欲などなく、ただただ癒すためだけの温もりがあった。
「う゛え……ヒック……うう゛…」
気持ち悪さなど驚くほど消え失せて、代わりに涙が次々と溢れてくる。
安心して身体の力が抜ける私を支えながら、彼が優しく微笑んで囁いた。
「もうわかってるとは思うが……俺の名はジュンイチだ。えーっと妓夫から聞いたのは『873157番』だったから……」
……よろしくな、八。
最後にそう呼ばれた瞬間、意識が朦朧として、視界が真っ暗になっていく。
布団に背中を預けたその瞬間……
「安心して寝なさい。約束だ。何もしない」
彼の小指と、私の小指に、金色の糸が見えたような気がした。