8歳のあの日から始まった、死と隣り合わせな日々。
心を殺して心臓は動かして、これで生きていると言えるのだろうか。
光1つない真っ暗な世界で蹲り、呼吸を止めて死んでいる。
そんな私の前に突然現れたのは、眩しいくらい金色に輝く……小指へ絡んでくる糸だった。
第18話『ほころび』
「お……?おお?!久しぶりだなあ!!おじさんのこと覚えてるか?!」
障子を開けて部屋へ入って来た人物を見て、眉根を寄せながら警戒する。
どんなに人の好さそうな声音で話しかけてきても、絶対に安心なんて出来ない。
私のような13歳になったばかりの子どもを指名して、良い人なわけがないのだから……
8歳の時からここへ来て、約5年の月日が過ぎていた。
幼い私が見てきたのは、それはそれは真っ黒で希望の見い出せない世界だった。
査定で『優』と評価された女の子は高額商品として扱われ、芸事まで仕込まれる。
食事を与えられてはいるが、それも下流階級にしては良い待遇だと言える程度のものだった。
『良』の私に至っては、芸事の代わりにひたすら遊郭内の清掃をさせられる。
まともな食事など与えられず、客の食べ終わった残飯を探しては隙を見て食らい、常に汗と埃塗れで汚かった。
意外だったのは、『可』と評価された一番低い価格で買い取られた女の子たちの待遇だ。
『優』や『良』よりも派手やかな着物を身に纏い、稽古でもなく雑用でもない場所へと連れていかれる。
また『可』の女の子たちは他に比べて数が多く、入れ替わり立ち代わりで遊郭を転々としているように見えた。
買われた当時の私は、それが何を意味しているのかも知らず、ただただ悔しい羨ましいと思っていた。
間違いだと気づいたのは、遊郭に来てから数ヵ月経った春のこと……
『おい!今回で何人目だあの客!いい加減にしろ!』
『なんだー?またあいつか?8歳ばっか指名するやつ』
『チッ……毎度毎度裂いて殺しやがって。こっちの身にもなれよ。買い取ってすぐに破棄じゃ店回んねェだろーが』
『あいつだけ料金上乗せで払ってもらうしかねェだろうな……楼主はなんて?』
『出禁にはしねェんだとよ。他店からでも可の子ども買い取り続けろってさ』
『げ、めんどくせー』
トイレの個室で、扉を閉めて掃除をしていた時だった。
入って来た若い衆たちが話している内容を聞いて、1人で声も出せずに震え上がる。
客、8歳、指名、殺す、買い取り、破棄、可の子ども。
理解できる単語を頭の中で組み合わせて、遊郭内で起こっている現状をおおよそ把握する。
あの綺麗な着物を身に纏って、連れていかれた『可』の子どもたちは……
「おーい!大丈夫か?おじさんのこと覚えてないか?」
「ッ……」
ここに来て、15歳以下の遊女を指名する奴らに碌な男などいない。
8歳当時ですら同じ年の子を指名する客が存在して、査定で『可』と評価された者から使い捨てのように店へ出されていた。
「おーい、聞こえてるか―?あれー?……うーん、おじさんの勘違いだったか」
「……。」
13歳になった今、同い年で『可』と評価された子たちがうちの店から居なくなり、急遽『良』である私に指名が回って来た。
あれほど着たいと思っていた華やかな着物を、こんなにも着たくなかったと思うなんて……ここに来た当初の私は、思いもしていなかっただろう。
どんなに嫌で辛くても、お客様には嫌な顔ひとつせず……笑顔で、愛想よくしなくてはならない。
心の底から湧き上がる嫌悪感をひたすら抑えつけて、『仕事』として、行為を受け入れなければならない。
そうでなければ、生きていくことすら出来ないのだから。
私たち下流階級の遊女は、これしか生きていく方法がないのだから。
引き攣る頬に両手を当てて、何とか誤魔化しながら頭を下げて挨拶をする。
この部屋へ来る前に説明された、『客の喜ばせ方について』が脳裏を過ぎり、吐き気がするのを必死で堪えた。
「うーん、ああー……これならどうだ?」
「……?」
「昔々あるところに、それはそれは可愛い赤ん坊と優しい母親がおりました」
「……!」
聞き覚えのある台詞。穏やかで親しみすら感じるような、懐かしい声。
記憶を辿って何年も前の幼少期に遡ると、淡い色で描かれた絵本の映像が蘇って来た。
「施設で、優しく、してくれた……」
「そう!やっとわかったか!いやー懐かしいなあ!乳幼児施設の監視員だよ、お前に絵本読んでやった」
豪快に笑いながら、目の前に座られて反射で一歩後ずさる。
座り込んだ場所が真っ白な布団の上で、色んな感情が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
中流階級の中にも、優しい人はいるのだと思っていた。
幼い頃のほんの少しの記憶だったけど、それでも微かに残っていた良心的な部分がこの監視員だったんだ。
「元気にやってたかあ?お前は小さい時から賢かったし可愛かったからなあ!また会えたら良いなあって楽しみにしてたんだ!」
「ッ……たの、しみ」
「思った通り美人になってー」
伸ばされた腕が、昔絵本を読んでくれた時に頭を撫でてくれたものと重なって見える。
『いやあ、これからは俺が世話になるからなあ!ハハ!仕事一生懸命頑張れよ!』
大型車に乗り込む時の……言われた内容がフラッシュバックして、グッと胃の中の物が暴れ出す。
グチャグチャになった中身が逆流してきて、車内で見たあの子たちの遺体映像までもが脳裏を駆け巡った。
気持ち悪い。
「おいおいおい、大丈夫かー?これからもつかー?こんな状態で」
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いッ!!!
「げえッ!!う゛ぇッ!!」
「げー!!吐いちゃったか!あー、こりゃ駄目だな……おーい!!警備してるやついるかー?!若い衆でも何でも良いから来てくれー!!」
大声を聞きつけた妓夫が、勢いよく障子扉を開けて乗り込んでくる。
この遊郭内で一番気の荒い人として有名な妓夫が、嘔吐する私を一目見て髪を鷲掴んできた。
「お客様、大変申し訳ございません。すぐに代わりの者と別の部屋をご用意致します」
「いやー!ハハ!悪いねえ!馴染みのある子だったから楽しみだと思ったんだけどなあ!これじゃあなあ…!」
「……本日のお代は返金させていただき、無料で『優』をお連れ致します」
「おお?!そりゃ本当か?!いやー悪いねー!そこまでしてもらっちゃって!」
胃の気持ち悪さと妓夫に掴まれている髪の痛さで、目の前が霞んで見える。
それなのに頭上で繰り広げられる客と妓夫の会話はハッキリと聞こえていて、これから自分がどんな目に合うのかまでも想像がついてしまった。
客が全くこちらを気にする様子もなく、上機嫌で鼻歌を歌いながらスタスタと部屋から出て行く。
その様子を見送った妓夫が、青筋を立てながら私を引き摺って部屋から出そうと歩き出した。
「ごめんなさい!!!痛ッい!!ごめんなさ!!い゛ッ!!」
髪を掴んだまま引き摺られて激痛が走る。
ひたすら謝ることしか出来なくて、でもそれで許されるとは到底思えなくて、これからどう自分の身を守れば良いのかもわからなかった。
このキレやすくて暴力的な妓夫の収め方なんて、いくら機嫌取りが上手い私でも何一つ思いつかない。
もしかしたらこのまま…殴り殺されることだってあり得るかもしれない。
私たち下流階級の命など、中流階級の人からすれば、その辺にある消耗品と同じくらいの価値しかないのだから。
自由に捨ておいたところでいくらでも生産されてくる。私にしかない特別な価値など、無いに等しいのだから。
「ひッ…う゛……いや゛、だ……助、け……てッ」
何とか両足で身体を支えるも、髪は引っ張られる所為で惨めな姿勢のまま連行される。
ボタボタと涙が溢れ出して廊下に水滴を落としていると、後ろから若い男の人の声が聞こえてきた。
「ちょっと……良いですか?そちらの女の子……拝見しても」