『私はもうあの人に約束してもらってるんだよね。身請けして、ここから出してもらえる約束してんの!』
そう嬉しそうに笑う彼女の言葉を、なぜ真っ向から否定してしまったのか。
可能性がないとわかっていたことでも、もっと希望が持てるような、優しい伝え方はなかったのか。
『ね、ねえ、でも!その話だけで私が身請けされないって決まったわけじゃないだろ?』
必死に希望を見い出そうとした彼女を否定して、私は…一体何がしたかったんだろう。
ぎゅっと握られた両手に身体を震わせただけで……何も希望を持たせてなんかあげられなかった。
あの時の彼女の表情が……
今にも壊れそうな、あの悲しい表情が……
今になっても、忘れられない。
『下流階級になってでも、私と結婚したいって思って、それで、身請けするって言ったんだよ、きっと』
絶望しているような表情で、ボソボソと口だけを動かして呟く。
あの時の段階で、もう彼女の心を壊してしまっていたんだ。
私が言った言葉ひとつひとつで深く傷つけて、彼女の精神を、心を、壊してしまっていたんだ。
『…彼、はきっと…このことを、知らなかったんだ』
彼女は、ひたすら私の言葉を否定していたのに……
防衛本能で、ひたすら受け入れないようにと抗っていたのに……
そんな彼女へ投げかけた、私の言葉はこうだ。
『データが流出する恐れのあるこの世の中で、彼はあなたの裸を撮った。そいつがあなたを愛していない証拠です』
私が言い放ったその一言で、我慢していた彼女が両目から大量の涙を流していた。
ずっと我慢していたものが溢れ出すように、一晩中嗚咽を漏らしながら涙を流し続けていた。
『う゛…ッ、毎日…毎日だよ?あの人が私に、会いに来てくれたのは…』
どうしてあの日、私は彼女の愛した人を否定してしまったんだろう。
『毎晩一緒にいて、愛してるって言ってくれたんだ。私が体調悪い時は抱きしめて寝てくれて、翌日にはこうやってあんたと同じように食べやすい物を持って来てくれたんだ』
彼女の大切な思い出を聞いて、どうして私が悪かったと謝らなかったのか。
『怪我をしたって言ったら、薬だって走って買いに行ってくれて…団子が好きだって言ったら、食べきれないほど買って来てくれて、2人で、仕方ないなって、ッ…笑い、ながら…食べたんだ』
彼女の楽しかった幸せな思い出を、どうして全て悪いものだと決めつけて、最初に伝えてしまったんだろうか。
『ッ…8年、なんだよ!私と、あの人が…ッ、毎日、一緒にいたのは…!!』
彼女の生きてきて嬉しかった日々を、反論しようがない正論で傷つけて、一体……私は、何がしたかったんだろう。
彼女の両目からボロボロと列を作って流れていく涙が、布団や着物や手へ、雨のようになって落ちていく姿を思い出す。
止むことのない雫を拭いもせずに、彼女が八の字に眉を寄せて思い切り泣き崩れていた表情を思い出す。
『…その方は、あなたを愛してなどいません』
彼女の優しさが垣間見えた、最初の微笑んだ表情を思い浮かべて…
彼女の悲しみが溢れ出した、最後の嘆き絶望する表情を思い浮かべて…
『…あなたが、この花街から出て幸せになる、1人目の遊女です』
「ッ…何を、やってるんだッ!!私は…ッ!!」
幸せにするどころか、不幸のどん底へ突き落としておいて!!
命を救うどころか、命の危険に晒しておいて!!
こんな危ない場所で、独りで…誰からの協力も得ずに、脱出させてるような状況で…!!
「何を…えらそうに……幸せに、するって……ッ、馬鹿に、してるのか…ッ!!」
自分への罵倒を口にしながら、必死に震える両腕で地面に手をついて起き上がる。
溢れてくる涙が止まらなくて、勢いよく腕で目元を拭ったけど、それでも、一向に止まってくれる気配はなかった。
「どうやったらッ…幸せに゛!出来たの?!どうすればッ…あなたを!救えたの?!」
何度も何度も頭の中に響いてくるのは、彼女が何回も口にしていた『馬鹿にしているのか』という叫び。
救いたい、助けたいと…確かにそう思っていたはずなのに、私がしていた行動は全部真逆のことだった。
彼女の望んでいることを、何一つ叶えてなんかいない……
薄っぺらい正義感で、押しつけがましい親切で、相手の心を何一つわかってなんかいない……
本当に、馬鹿にしているような、彼女の想いを見下しているような、そんな行為だった。
どうすれば、本当に……彼女の手助けになるのだろう。
今からでも彼女を助けてあげられるようなことは、本当にないのか。
ガクガクと震える足でもう一度立ち上がり、斜めに歪んで見える視界の中で考える。
今にも意識が飛んでしまいそうな、暗くなっていく視界の中で考える。
本当に彼女が望んでいたことは……
はっきりと彼女の口から発せられた、彼女が望んでいた願いは……
『お前が囮になればいい!!』
一際大きく聞こえてきた彼女の声が、脳内で木霊して響き渡る。
それと同時に、ツーと頬を伝っていた涙が、顎を伝って地面へと降り注いだ。
「……ごめん、なさい」
あなたの心を、深く傷つけて、
あなたの声に、耳を傾けなくて、
「……本当に本当に、ごめんなさい」
涙で見え辛くなっている視界をクリアにするために、もう一度勢いよく腕で拭って深呼吸をする。
落ちていた鞄を拾い上げて中の物を取り出し、そのうちの1つを緩んだサラシの中へと慎重に入れ込んだ。
残りの2つを震える手で包み込むように持って、この場にいない彼女へ伝わるように、深く願いながら呟く。
「どうか……ッ、どうか…無事で、逃げ延びて」
とっくに乾いてしまった自分の服を確認して、新たに赤を広げるために小さく屈む。
1つは屈んだ状態で頭から叩き割り、もう1つは出来るだけ地面へ痕跡が残るように、膝から下の周辺で叩き割った。
持ってきた鞄も、出来るだけ警備の目を引くような場所に置いておく。
十字路になっている視界の開けたところに鞄を投げ込み、ふらつく足で再び歩き出した。
「出来るだ、け……ながく、囮……に」
ポタポタと髪から滴る血のりと、身体を支えるために壁へ触れて付いた手形。
引き摺るような足取りを表す跡に、逃げ出す時目撃されていた大きな鞄。
必ず、大勢の警備が、私の方を追ってくるはずだ。
どんどん力が入り辛くなる足の、身体の悲鳴を聞いても、歩みを止めるわけにはいかなかった。
私がどれだけ長く逃げられるかによって、彼女の生存率が変わってくる。
私がどれだけ長く囮になれるかで、彼女のこれから先の未来が、決まってくるんだ。
「ッ…はあ…はあ…う゛うッ」
だから泣いてる場合なんかじゃない。
弱音を吐いて、挫けている場合なんかじゃない。
眩暈で視界がおかしくなっても、気絶しそうで視界が暗くなっても、動き続けて、逃げ続けなきゃ…
そう、思って…数分間移動し続けた後のことだった。
「ッ…あ゛!!」
血のりの痕跡が残りにくくなってきたと判断して、服の中に入れた残りを出そうとした時だった。
朦朧とする意識の中で古い建物を曲がった瞬間、石に躓いて地面へと横向きに倒れ込む。
その衝撃でただでも薄れそうになっていた意識が遠退いて、心の中で悪態をつく。
失敗した。このマヌケめ。囮すらまともに出来ないのか。
軒下で蹲り、いくら立とうとしても力の入らない身体へ絶望する。
もう本当に、ここまでなのか…
完全に暗くなっていく視界の中で思うのは、薄情にも、自分のこれから先の、未来のことだった。
拘束されて、おそらく私は、刑務所の中に入れられる。
そしたらきっと、もう二度と、彼には会えなくなってしまう…
何度も心の支えになってくれた、大切で大切で仕方ない、大好きなあの人に…
そう思ったのを最後に、私の意識は、完全に途切れてしまった。