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No.38 第15話『彼女の願い』-2



「あ゛ッ!」

「わあ!大丈夫?」


地面へ落ちると思っていた身体が、ふわっと人の腕のようなものに受け止められる。

何が起こったのか確認しようと勢いよく目を見開けば…


「ッ…?!」


この世の者ではないような、美しい美しい女性が私の顔を覗き込んでいた。


「あらあらあら…血まみれね」


もしかして、こんな綺麗な女性が反射で受け止めてくれたのか?

私が小さいとはいえ、2階から急に降って来たんだ。かなりの衝撃だったはず…


一緒に倒れ込むどころか、着物で姿勢を正したまま横抱きをされている状況が信じられなかった。


今起こった出来事への脳処理が追い付かない。

急にズキッと痛んだ後頭部が、更に追い打ちをかけるように思考を邪魔してくる。


「あらま、ごめんね。頭怪我してたんだ?大丈夫?」


私を地面へ下ろす動作の時に、ほんの少し頭へ触れたことを謝罪される。

あたしが触れた所為で痛かったね…と優しく囁かれて、驚きと動揺が隠せなかった。


そんなことはない、私の方こそすみませんでした、お怪我はありませんでしたか?

そう言おうとした口は、パクパクと開くだけではっきりとした声にはならなかった。


グラッと揺れる視界。せっかく立たせてもらった両足がガクガクと震えだす。

後頭部を殴られた時の衝撃が、まだ尾を引いて身体に影響を出し始めていた。


「ぁ…ぅ」

「あー、やっぱりー。声聞いてわかった。血まみれちゃん女の子だね。このまま助けてあげたいんだけど……」


そうも言ってられないから、1人で走れそう?


そう彼女が優しく微笑んだのとほぼ同時に、上から笛の音が鳴り響く。

視線を上げれば、2階の手すりから覗き込んでいる妓夫が、首から下げている笛を咥えこんでいた。


「遊女を逃がした罪人が遊郭から逃走した!!罪人は血まみれの女だ!!花街出る前に捕まえろ!!」


よく通る声で叫ばれた内容を耳にして、サーッと血の気が引いていく。

妓夫の声を聞きつけた警備たちが至るところから顔を出して、私の姿を目で捉えていた。


2階の障子扉を開けて顔を出したのが複数人。

1階の窓からも3人ほど目が合った。


まずい。逃げなきゃ…!

そう思って1歩を踏み出したけど、ガクガクと震える足の所為で絡まって転倒する。


こんな身体の状態で、こんな大人数に追われて、まだまだ遠い花街の門まで逃げ切れるのか…

限りなく不可能な状況に、打つ手無く諦めかけた時だった。


「なるほどねー。遊女を逃がしたのかぁ」


能天気な明るい声が聞こえてきて、前からスッと手が伸ばされる。

反射でその手に捕まった途端、グイッと力強く引っ張られて、また両足で立てるように支えられた。


「仕方ないなー、今回だけだよ?少しの間だけ、あたしが時間稼いであげる」

「ぇ…あ……」

「だいぶ意識朦朧としてんねー。…こりゃ助けても無理かな?まあいいや。とりあえず逃げれるとこまで走んなよ」

「ッ…ぁ、ありが」

「ほらほら、早く。追って来た。礼なんていいから……ほら早く」


がんばれ!


トン、と…軽く背中を押されながら言われた応援に、ぶわっと涙が溢れ出す。

どんな感情から来るものなのか、その時は意識が曖昧で自分でもわからなかったけど、とにかく溢れてくる涙が止まらなかった。


「ぁ、なた…が、危な……」

「ああ、あたしは絶対平気!危ない目になんかぜーったい合わないから!ほら…!行って!なんか事情があるんでしょう?」


挫けちゃだめだよ!ほら、がんばれ!


そう綺麗な笑顔でもう一度応援された瞬間、ぐっと歯を食いしばって足に力を入れて走り出す。

グラついていた足が不思議と元気になったような気がして、地面をしっかり蹴り上げながら前へと進むことが出来た。


後ろから、待て!!と叫ぶ警備たちの声が聞こえてくる中、一心不乱に路地裏の方へと駆け出す。

方法はどうやったのかわからないけど、私を助けてくれた彼女が足止めを成功させたのか、警備の男たちの声はどんどんと遠退いていった。




はあはあと荒くなる自分の呼吸音が、周りで響くどの音よりも大きく聞こえる。

変わりゆく景色がまたスローモーションに感じ始めた刹那、限界が来た足がもつれてズルッと滑り、上半身から地面へと倒れ込んでいた。


「はあ…はあ…はあ…」


私は、どうやって……ここまで逃げてきた?

一瞬また記憶が曖昧になって、置かれている状況がしっかりと把握出来なくなる。


冷静に、ここまで至った経緯を思い返そうとすればするほど、何故か八さんのことばかりが頭の中に浮かんで離れなくなった。

また徐々に意識が遠のいていく薄暗い視界の中で、彼女の声がはっきりと頭の中へと響いてくる。


『下流階級の遊女に名前がある奴なんていないんだよ』


そう切なそうに呟いた後、何も言葉が浮かばなかった私へ、彼女が何でもないことのように微笑んでいたことを思い出す。

決して笑い話なんかに出来ることではないのに、ショックを受ける私のことを想って、無理に笑顔を作ってくれていたことを思い出す。


彼女のその優しさに、今になって深く気がついて、再び私の涙腺が緩み始める。

どんどん溢れて止まらなくなった想いが、両目から涙となって流れ出し、ボタボタと地面にも流れ落ちていく。

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