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No.37 第15話『彼女の願い』-1



気絶している間、夢を見ていた。

今まで出会った大事な人たちが、私の名前を呼んで、がんばれって言ってくれる夢。


『……お前の叶えたい夢、最高やな』


一番最後に響いてきたのは、夢を叶えようと決心させてくれた彼の声だ。

温かくて大きな手が私の頭へ触れて、雑にワシャワシャと撫でられる。


『…こんなとこで腹出して寝てんなや。……ほら、はよ起き』


がんばれ。


そう最後にやさしく囁かれた瞬間、真っ暗だった視界がほんの少しだけ明るくなる。

起き上がりにくかった背中を誰かが支えてくれたような気がして……ぼんやりする視界の中、無意識に涙が流れ落ちていた。




第15話『彼女の願い』




「ッ…!」


意識がはっきりしてきたのと同時に、自分の身体へ覆い被さっていた掛け布団を蹴り飛ばす。

気絶していたことはすぐに認識出来て、状況を把握するためにバッと辺りを見回した。


あれからどのくらい時間が経った…?彼女はどこへ行った?


考えを巡らせながら立ち上がろうとした途端、ズキンッと後頭部が痛んで足がふらつく。

反射で頭部に手を伸ばせば、自分の血なのか血のりなのかがわからない赤の液体が付着していた。


素足の方にかかっている血のりを確認して、まだ乾ききっていない様子を見てほっとする。

あれからさほど時間は経っていないんだろう。


おそらく、気絶をしていたのはほんの数分だ。

その証拠に、まだ警備の人たちが私たちの異変に気づいていない。


頭の赤い液体はきっと血のりだと自分に言い聞かせて、持ってきた鞄を拾い上げる。

鞄の中から取り出した走りやすい靴を履き、続いて大きなフック付きのロープを取り出した。


気絶している間の彼女の動向が把握出来ない以上、私が安置所から脱出するのは避けた方がいい。

彼女が安置所から出て行こうとしているのだとしたら、脱出の邪魔になる可能性がある。


万が一のことがあったら使えるようにと、緊急脱出準備も整えておいて正解だった。

障子扉を開いて駆け出せば、廊下を挟んだすぐ向かいは2階だけど外だ。


木材の手すりに素早くフックを引っ掛けて、ロープを握って飛び降りる。

私1人だけの身ならこの方法で、警備に見つからず遊郭の外へ出られるかもしれない。


でもやっぱり……まだ遊郭内にいるかもしれない彼女のことを探すべきか…

いや、この血だらけの状態で彷徨うのは絶対に得策じゃないだろう。


もしも人に出くわしてしまったら、良い言い訳なんて思いつかない。

その点彼女は着物の状態で出て行った。


まだ遊郭内にいるのなら、人と出くわしたとしても誤魔化すことは可能だろう。

むしろフラフラの状態の私が追いかけたら、お荷物になる可能性の方が高い。


やっぱり彼女のことが気になっても…ここは大人しく引くべきだ。

彼女がこの部屋から出て行ってしまった今、もう私に出来ることは限られている。


彼女の作戦の邪魔にならないよう、出来るだけ見つからずにここから出て身を隠す。

ここで悩み続けていれば警備に見つかるのも時間の問題だ。早急に出て行かなければ…!


心の中で葛藤していた迷いを振り払って、落ちていた偽装の身分証明書を手に取り、男性用の浴衣を拾い上げる。

彼女が私の通行手形を使って花街を出るのだとしたら、私はこちらを使って出るしかない。


血のりでベタついたが、急いで着付けをしようと浴衣に片腕を通す。

その直後……


「…お客様、少々お時間よろしいでしょうか」


……恐れていたことが、起こってしまった。


「ッ…!」


障子扉の外に、薄っすらと人影が見える。

おそらくは妓夫。何かしらの異変を察知して訪問して来たんだろうが、まだ疑いがある段階なだけなんだろう。


その証拠に、まだ客扱いをする丁寧な問いかけと、正座している影が見える。

それでも、状況的にはかなりまずい。


床にいる客の邪魔をするような行為。

それを行ってまで問いかけるということは、つまり…限りなく黒だと思いながら、接しているということだ。


「先ほど隣のお客様が帰られましてね?そのお客様が、妙なことを仰ったんですよ」


隣から、女同士で言い争っているような声が聞こえたと…


そう呟いた妓夫の声が、低く低く地を這うように響いてくる。

その後嘲笑うように続けられた話で、額から汗が流れ落ちた。


「遊女を2人同時に抱けるのか、次来た時は3人用意しろと仰られまして……いやはや、困りましてね。うちにはそんな制度ないもんで…」


返事は、出来ない。声を出してしまえば、男と偽って入店したことがバレてしまう。

言い訳や誤魔化すことすら出来ないこの状況に、心臓の音が激しく鳴り響く。


どうする…どうすればいい…

再度辺りを見回して、回避方法を考える。


ふと目についた大きな柱へ手を伸ばして、ロープの端に付けていたフックを突き刺す。

手すりに掛けるのとは違う。どう考えても引っ掛かりがあまい。

このまま突っ走って飛び降りても、無事に降りれるとは思えない。


ロープの長さだって、ここからだときっと足りない。地面までなんて届かない。

それでも、もうこの方法以外思いつかなかった。


「そういうわけで勝手ながら入店名簿を確認させていただきましてね?……まあ驚きましたよ。入店の際、身分証で示されたそうで…なんと病で声が出ないんだとか」


鞄を背負い、着付けしようとしていた浴衣と袴を抱えて息を殺す。

飛び出すならタイミングは一度しかない。


妓夫が中の様子を確認するために障子扉を開ける…その一瞬だけだ。


「お客様が声を出せないのなら仕方ない。なあ八…?代わりに説明をお願い出来るか?……さもないと」


ブッ殺すぞ。


そう妓夫が低く呟いた数秒後、バシンッと勢いよく障子扉が開け放たれる。

殺す、という言葉を耳にしたのとほぼ同時に駆け出したお陰で、タイミングは完璧だった。


相手の顔が障子扉から見えた瞬間、顔面に目掛けて持っていた袴と浴衣を投げつける。

視界を広く覆い隠せるような物がこれしか思いつかず苦肉の策だった。


血のりを顔面へ投げて外れた場合のことを考えると、確実に視界を遮るのはこれしかない。

花街から出るための道具を犠牲にして、妓夫の視界を塞いでいる間に真横を走り抜ける。

ロープを握ったまま勢いよく手すりに足をかけて、2階から飛び降りようとした時だった。


「お客さん…ここの遊女、どこへやった?」


ぐんッとロープが引っ張られた拍子に、辛うじて引っ掛かっていた柱からフックが離れる。

妓夫がそのままロープを持っていてくれるわけもなく、すぐに離されたことでガクンッと身体に衝撃を食らった。


身体のバランスが崩れたことで、足から飛び降りようとしていた姿勢が前に傾き頭が真下を向く。

命綱だったはずのロープと一緒に手すりから落ちていく刹那、スローモーションのようにゆっくりと景色が動いて見えた。


後頭部からそのまま地面に向かって落ちていく感覚。

意地の悪そうな妓夫がニヤッと笑って見下ろす顔が視界に入り、最悪だ…と内心毒づいて目を瞑った。


2階からの高さだとしても、こんな受け身もとれない姿勢で頭から落ちていくのだとしたら…


きっと、無事になんて済まない。

そう自分の先を悟ってしまった次の瞬間…

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