「あんたが死体のフリして桶に入ったらいいんじゃん!安全に出れたら良いねー!」
「は、八…さん?」
動揺して、思考回路が鈍くなる。
無意味に両腕を持ち上げたが、宙を彷徨うだけで何も捉えることはなく、フラフラとそのまま頭へ移動した。
大量の血のり。
今遊郭の人間に見つかれば、もう誤魔化しようがないほどのべっとりとした赤。
どうする。どう対処する。
ぐるぐる思考を巡らせていると、私が持ってきた鞄に腕を伸ばして中を物色している彼女が視界に入った。
「八さん、あの…私が桶に入っても意味がないんです。ここに客として入店してしまってますから、私が桶で逃げたところで問題になって、あなたを助けられなくな…」
「チッ、やっぱここには入れてないか」
鞄から離れた両腕が、今度は私の襟元を掴んで引っ張る。
抵抗する暇もないほど素早い手つきで袴と浴衣を脱がされて、その下に来ていたTシャツの胸ポケットに手を突っ込まれた。
「え、あ…八さん?!それは…ッ!」
「花街入った時の通行手形はこれか……ハッ、一般女性の中流階級…ね」
こっちの男用はいらないよ。
そう言いながら投げ返された偽造の身分証明書が、私の頬へと当たって床へ落ちる。
彼女の欲していた物がわかったのと同時に、何をするつもりなのかも察しがついてしまった。
「む、無理です!それを使って出ようとしたって!花街の門まであなた1人では辿り着けません!異変に気付いた警備が追いかけてきたらすぐに捕まります!!私の作戦の場合、桶に入るのは回収直前で、異変に気付かれた時には花街の外!状況が全然違うんです!安置所に人気がない時間帯だって、あと少しで終わってしまいますから…」
「へえ、そりゃ大変だ。じゃあこうしよう!」
お前が囮になればいい!!
そう楽しそうに叫びながら、もう一度鞄へと手を伸ばし、取り出した血のりをもう一度私へ投げようとする。
かわそうとして一歩下がった途端、先ほど脱がされた袴で足が滑って転び、白地の短パンとTシャツが真っ赤に染まった。
「は、八さん待って下さ…!なんでこんな…」
「馬鹿にしやがってッ!!!」
鼓膜に響いてきた彼女の声が、また私の呼吸を止めさせる。
悲痛な叫びが私の心臓を締め付けてきて、今度は両手の震えが止まらなくなった。
「中流階級の女がッ!恵まれて生まれてきた女がッ!クソったれ!!馬鹿にしやがって!!」
「は、ち…さ」
「番号で呼ぶなッ!!お前なんかに!お前なんかに!!誰が騙されてやるもんか!!」
バチンッ、と…響いてきた左頬からの音と衝撃に、反射で目を見開いて固まる。
右に向かされた首を元の位置に戻した時には、頬の痛みよりも、胸の痛みの方が苦しくて仕方なかった。
「下流階級の遊女を逃がして働かせる?!字も書けないような私らに中流階級の仕事を?!馬鹿にしてんのかッ!!」
「それは…!」
「外へ出た私らが危険な仕事で死のうが殺されようが!お前は誰にも知られることなく罪にも問われず、やりたい放題出来るってことだろ!!お前ら上の階級は私たちの命を何だと思ってるんだ!ふざけんなッ!!」
「待って!落ち着いてください!!助けたいと思っているのは本当なんです!!」
興奮状態で、何の手筈も整えずに出て行こうとする彼女へ必死にしがみつく。
部屋の外に出してしまったら終わりだ。
こんな冷静じゃない彼女を逃がしてしまったら、取り返しのつかないことになってしまう。
何としてでも説得しようと縋りついていた状態から真上を向いた瞬間、突然だった。
後頭部に、とんでもない衝撃と、激痛が走る。
「ッ…?!ぁ…な、に」
「あんたには感謝してるんだよ?こうやって私に通行手形くれたんだもん。だからあんたはさ、あんたの馬鹿みたいな作戦で桶に入って帰んなよ」
自力でそこまで歩けたらの話だけど!
そう満面の笑みで言い放った彼女が、私の肩を押して床へ転がす。
頭の痛みと急に力が入りにくくなった身体の所為で、少し声が出し辛くなる。
それでも、どんなに辛い状態でも…こんなところで諦めるわけにはいかなかった。
「……たい」
「は?なに?聞こえない」
「あ…た、を……たすけ、たい」
行って、は…だめ。
そう途切れ途切れに声を発した瞬間、ゴトッと、畳に何かが落ちた音が響く。
床に伏せたまま視線を音の方へ動かせば、彼女が私の頭を殴ったであろう灰皿が転がっていた。
私の声がちゃんと伝わっていたのかは正直わからない。
でも彼女の両目から溢れ出る涙が、出てくる言葉とは違う、どうしようもなく矛盾した感情を表していた。
「ッ…どうだって良いんだ。あんたが嘘ついてるかとか、本当に私のこと助けようとしてんのかとか…そんなの、どうだって良いんだよ…」
「どう…し、て」
「……あんたに正体明かされた時からこうするつもりだった。一般女性の通行手形見せられた時から…奪ってやるって、ずっと思ってた」
だから私のことなんか、助けなくていい…
そう呟いた彼女の声が、何かを必死に堪えるように震えている。
その直後、私へ背中を向けて障子扉の方へと1歩踏み出した。
私といえば、意識が朦朧として両腕で這いつくばることしか出来ない。
引き摺ることでしか身体を動かせないということは、もうこれ以上、彼女を追いかけて助けてあげることが出来ないということ。
「ま…って」
着物のまま出て行くつもりなのか。
遊郭の出入り口から出て行くつもりなのか。
奇跡的に花街から出られたとして、下流階級の身分で、私なしでどうやって生きていくつもりなのか。
一気に押し寄せてくる疑問が、意識が朦朧としている頭の中でも浮かんでくる。
自分の足が動かない今ここで、彼女にしてあげられることは何なのか。
もうこれ以上、彼女を止めることは出来ないと思い至った時……私の両腕は、落ちていた自分の鞄を引っ掴んでいた。
「お、……かね」
「…は?」
「出られ…たら、ひつよ…う」
鞄から取り出した財布を、震える手で持ち上げて差し出す。
そんなに入れていた覚えはないけど、たった数枚の札でも無いよりはマシだ。
少しでも彼女の生存率を上げられるのなら、渡しておいた方がいい。
受け取ってくれ。
これだけは願いが届くように、強く強く思いを込めながら財布を持ち上げる。
私の震える手が限界で畳に付きそうになった瞬間、彼女の手が滑り込むように下から伸ばされた。
受け取ってくれたことを確認してから、目を閉じて、視界を暗くしながら呟く。
「桶…出す、こま、ど…」
「……。」
「いまな…ら、出られ…人、いな」
伝われ。伝われ。
玄関から出るのではなく、闇雲に飛び出すのではなく、安置所から。
今この時間、安置所からなら…桶に入らずとも見つからずに出て行ける可能性がある。
意識がどんどん薄れていく中で、振り絞って出した声が彼女に届いたのかはわからない。
ただ、馬鹿な奴…と小さく聞こえた声と、私の頬に振ってきた数滴の温かい雫が、彼女のものだということだけはわかった。
意識を失う直前、彼女が掛布団で私の身体全体を覆い隠す。
布団で真っ暗な中、最後に聞こえたのは……彼女が障子扉を開けて出て行く、悲しくて小さな音だった。