私のしたことは、完全に間違っていた。
彼女のためを想ってやったことでも、こんな結果を招いてしまったのだから、何の言い訳にもならない。
どうすれば彼女のことを救えたのか。
今になっていくら考えても、私のちっぽけな頭では思いつかない。
ただ、これだけは間違いなく言える。
彼女の未来を奪ったのは、彼女を死に追いやってしまったのは……間違いなく軽率な行動をとった、私自身だ。
第14話『裏切り』
雨の中、橘さんが私のマンションから走って帰った後のこと。
私のことを信じられないと言った橘さんの言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返しては、彼女の言った信じられないという声と重ね合わせる。
上手すぎる話には裏がある。だから信用は出来ない。
そう言った橘さんとは違い、不条理な現実を突き付けられた彼女は、今後私を信用することが出来るのだろうか…
障子扉を開ける前に浮かんだのは、昨夜布団の上で横になり涙を流し続けていた彼女の後姿だった。
「……こんばんは」
「……。」
薄暗い空間。1つの行燈だけが僅かな光を放っている部屋の中。
何度も通ったことのある部屋なのに、不思議と初めて来たような感覚に陥る。
布団の上に座っている彼女の横顔が、別人のように見えたからだろうか…
昨夜話した内容が内容なだけに彼女のことが気にかかって眠れず、連日ここへ訪れてしまった。
「…毎晩来るのはさすがに迷惑かと思いましたが…でも、あなたがどうしているのか気になって…すみません」
「……。」
「あまり、体調が優れないように見えます。今日はもう何も話さず、このまま横になって眠ってくださ…」
「今日の夜ね。彼に会ったの」
「…!!」
驚き過ぎて、両手に抱えていた紙袋を落とす。
彼女が少しでも元気になってくれればと思って持ってきたお土産が、ゴロゴロと転がって布団の上へと着地した。
慌ててそれを拾い上げて、布団の上で正座をする。
彼女の小さい声を一言も聞き漏らさないように、真剣な表情で耳を傾けつつ呟いた。
「で、でも…私が指名した時、他の方と指名が被ったりはしていませんでしたよ?」
「そりゃそうだろうね」
「私が来たのはかなり夜更けですし、もっと早めに来られていたということですか?」
「……会ったのは今さっきだよ」
指名せずに、今さっき会った…?
言われたことをもう一度脳内で反復させて考える。
指名せずに目当ての遊女に会うなんて、そんなことが本当に可能なんだろうか。
会う可能性があるとしたら、それは……
「ッ……!」
「ああ……気付いた?」
「…鉢合わせ、たんです、か?」
「……そうだよ」
他の遊女を指名してた。私よりもずっと若い…中流階級の女だった。
そう小さく呟かれた瞬間、ゾワッと身の毛がよだつ。
背中を向けて座っていた彼女がゆっくりとこちらへ振り向いたけど、俯いていて目元はよく見えなかった。
「たまたま廊下で擦れ違ったの。……信じたくなかったから、なんで?って理由も聞いたよ。そしたらなんて言ったと思う?」
この遊女を好きになったから、私とは別れたいんだってさ。
そう呟いた彼女の声が、低く低く私の耳へと響いてくる。
どこか機械のように平坦で、感情が伴っていないような声。
まるで彼女のものではないような、恐ろしささえ感じるような声が…私の耳へと響いてくる。
「私よりもずっと若くて、中流階級の女だよ?」
「あ、あの、八さ……」
「抱かれてる時に番号で呼ばれることもない。名前も呼べて身請けも出来て結婚も出来て?外へ出れたら普通に仕事も選べて赤ん坊も生める女だ」
昨夜私が教えた情報を一切違えることなく話し続ける彼女へ、言葉と息が詰まる。
返す言葉が…見当たらない。ひたすら聞き続けることしか、その時の私には出来なかった。
「私よりも格段に良い条件の方へ乗り換えやがった。……女の方は女の方で、隙見て受付で色んな男に声掛けまくってる…他の遊女の客奪ってることで有名な奴だ」
「え……」
「たぶんその女の目的は花魁になって上流階級の男と結婚することだと思う。だからあの人のこと誘惑して落としたのも…自分の指名客増やすためだけだろうね」
手土産に持ってきた赤いリンゴが、再び私の手から離れて膝から布団へと転がり落ちる。
今度は拾い上げる動作をしようとは思えなかった。
彼女の口から伝えられたことを未熟な脳味噌に叩き入れて、必死で何かしらの言葉を生み出そうと考える。
慰める言葉?否定する言葉?それとも、ひたすら同調する言葉?
わからない。
私が彼女にかけて良い言葉が、どれなのかわからない。
おそらく彼女の言った予想は正しい。
噂が根も葉もないものではなく本当なのだとしたら、相手の遊女の目的は十中八九、上流階級になることだ。
そして想い人である彼は、そんな遊女の思惑に気付かず、愛を囁かれて恋心を抱くようになったのだろう。
残念ながら私には、そんな男など離れて正解だとしか思えない。
端から付き合っている女性の裸を撮るようなクズ野郎だ。
こちらから捨ててやったのだ。その2人が上手くいくわけもない。ざまあみろと……そう思うように説得するのはどうだろうか。
ぎゅっと自分の両手を握り込んで、今思い浮かんだ自分の本音を話そうと口を開く。
私の吐く息が声になる、一瞬の間だった。
ずっと俯いて見え辛かった彼女の目が、私の視線と交わって感情を表す。
彼女の表情が見えた瞬間、また言葉と息が詰まって何も言えなくなってしまった。
「う゛…ッ、毎日…毎日だよ?あの人が私に、会いに来てくれたのは…」
「ッ……」
「毎晩一緒にいて、愛してるって言ってくれたんだ。私が体調悪い時は抱きしめて寝てくれて、翌日にはこうやってあんたと同じように食べやすい物を持って来てくれたんだ。怪我をしたって言ったら、薬だって走って買いに行ってくれて…団子が好きだって言ったら、食べきれないほど買って来てくれて、2人で、仕方ないなって、ッ…笑い、ながら…食べたんだ」
両目から、ボロボロと列を作って流れていく涙が…布団や着物や彼女の手へ、雨のようになって落ちていく。
止むことのない雫を拭いもせずに、彼女が八の字に眉を寄せて思い切り表情を崩しながら呟いた。
「ッ…8年、なんだよ!私と、あの人が…ッ、毎日、一緒にいたのは…!!」
「…?!」
「あんたは私が馬鹿な女だって言いたいんだろッ?!裸まで撮らせてどうかしてるって!!そんな男信じて馬鹿みたいに待って、どうかしてるって!!」
「ッ…!そんなことは!!」
ない、と続くはずだった言葉は、音になる前に掻き消えた。
代わりに響いてきたのは、自分の左頬が強く弾かれる音だった。
「あんたがここに来る3週間くらい前だった!あの人がここに来る回数が減って、完全に来なくなったのは1週間前!!……あんたが」
あんたがあの人に、ここへ来るなって言ったんだろ!!
そう叫ぶ彼女の泣き顔を見て、違う、と否定する言葉がまた喉の辺りで詰まって動かなくなった。
頼むからそう言ってくれと、懇願するように縋ってきた彼女の両手が私の胸倉を掴む。
震えて、全然力の入っていないその腕が、本当は違うとわかっている……そう、物語っていた。
だからだと思う。
言葉で否定して、これ以上彼女を追い込むべきではない。そう反射的に判断した身体が、彼女を包み込むように抱きしめたのは…
傷ついている彼女を、これ以上傷つけたくないと…この件に関して、言葉を飲み込むようになったのは…
「あの人…私のこと振る時、誠実そうな顔してやがった」
「……。」
「誠実に振ってる自分は微塵も悪いことしてないって顔だった……こっちは殺してやりたいほど憎いのに」
ねえ、私とあいつ、どっちが悪い?どっちが死んだ方が良い?
耳元で囁かれた内容に、ぐっと眉間に皺を寄せて両目を閉じる。
涙は流し続けているものの、時折笑ったり、怒り出したり、話が飛んだりを繰り返す。
そんな彼女が布団に転がったリンゴを拾い上げて、あの人が持って来てくれたリンゴね、と嬉しそうに微笑んだ瞬間……決意した。
「……明日、あなたをこの花街から逃がします」
彼女1人だけの身なら、安全に逃がすことは不可能じゃない。
脱出時の道具さえ用意出来れば、花街から出すことを最優先にして動ける。
出た後は私が自宅で保護して、中流階級の身分証を作れば、その後のことは何とかなるから…
本人の意思を尊重して待つべき時はもう過ぎた。
彼女の心が壊れきってしまう前に、彼女の未来が無くなってしまう前に……
「……出来るだけすぐに、ここから出ましょう」