「あなたは……おそらく、騙されています」
小さく、震える声で何とか発した。
自分の顔色が蒼褪めているんだろうなと感覚でわかる。
彼女の手を、何とかわかってもらえるようにと願いを込めて、震える両手で握り締めた。
「は…?」
「そのお相手の方が上流階級であろうと、中流階級であろうと…万に一つも結婚はあり得ません。婚姻届けなしの身請けは人身売買に当たるため許されていませんから……下流階級の人であれば、万に一つなら可能性はあります。そのお相手は下流階級の方ですか?」
「違う…けど」
「それならば……あなたが下流階級の遊女である限り、身請けの可能性はありません」
「…?!」
驚いたように見開いた両目が、どんどん怒りを帯びたものになっていく。
最高潮に目が吊り上がった瞬間、握っていた手を思い切り振り払われた。
「騙そうとしてんのはあんただろ!!」
「いいえ、私は騙そうとしていません。全て事実です」
「遊女が身請けされて出て行ったことは何度もある!あんたが言ってることの方が嘘だろ!!」
「中流階級の遊女なら、身請けされる可能性は十分にあります」
「はは!ボロが出たね。下流階級の遊女だって何人も身請けされて出てってるよ」
「……その下流階級の遊女たちが」
本当に身請けされて出て行ったところを、自分の目で確かめましたか?
そう発した私の一言に、彼女が再度目を見開いて驚く。
怒りが宿っていた瞳は急に姿を変えてオロオロと泳ぎ始めた。
「身請けされたと、噂や人伝えで聞いただけではありませんか?」
「ッ…じ、実際に、身請けされたって遊女はここの遊郭に居なくなってる!それが証拠だろ!」
「……おそらく、その下流階級の遊女たちは何らかの理由で」
お亡くなりになられたのだと思います。
そう続けようとした口を、彼女の震える両手が塞いでくる。
言うな、と示された続きに関しては、彼女も察しがついたんだろう。
俯いたまま目が見えない状態で、冷静な質問が返ってくる。
「下流階級の遊女が身請けされないって言い張る根拠は?」
「……法律です」
「…法律?」
「もしお相手が上流階級の方であれば、法律上、下流階級の人間との結婚は認められません」
「え…?」
「因って、上流階級の方が下流階級の方を身請けする制度自体がありません。中流階級の遊女を身請けすることは可能です。その場合、中流階級の遊女は婚姻届けを提出後、上流階級になります」
「上、流…階級」
半分上の空。そう表現するのが合ってるのかはわからないけど、他人事のように右から左に話を流しているように見える。
その様子から察するに、彼女のお相手は…
「……中流階級の、方なんですね」
「中流階級と下流階級も…法律で、結婚出来ないの?」
「いいえ。中流階級の方と下流階級の方は結婚が可能です」
「えッ…!それじゃあ!」
「……ただ、婚姻届けを提出後」
中流階級の方が、下流階級になります。
そう私が呟いた瞬間、彼女の口からヒュッと音が聞こえた。
彼女から身請けの話を聞かされた時の、私の顔色のように真っ青になっていく。
「…私が、あの人と結婚したら…私が、中流階級になるんじゃないの?」
「いいえ…この法律が制定された意図は掴めていませんが、世の中は上流階級と下流階級に二極化しつつあります。それであなた方遊女を逃がし、中流階級の仕事を担ってほしいと…」
「ね、ねえ、でも!その話だけで私が身請けされないって決まったわけじゃないだろ?」
「え…」
突然ぎゅっと握られた両手に、ビクッと体が震えてしまう。
その時の彼女の表情が今にも壊れそうで…
目に焼き付いて、離れなかった。
「下流階級になってでも、私と結婚したいって思って、それで、身請けするって言ったんだよ、きっと」
「……。」
そうかもしれないと、期待を持たせてあげる方法はいくらでもあった。
けれど次に言われた内容で、彼女のお相手を全否定しなくてはいけないと思った。
全力で、彼女の幸せのために気づかせてあげなくちゃいけないと……そう、思ってしまった。
「だってね、結婚したいって、一生傍にいたいって…身請け金が貯まるまでの辛抱で、だから、それまでの間は動画で我慢したいって」
「……動、画?」
「動画は撮るの禁止だけど、でも、一生幸せにするからって、自由にしてあげるからって…裸で、いつも抱きしめて寝てくれ――」
今度は、私の方から彼女の口を閉ざすために両手で塞ぐ。
もうわかった。それ以上は言ってくれるなと、震える手で彼女の口に触れた。
言うべきだ。言うべきではない。言うべきだ。
相反する感情が、ずっと心の中で叫び続ける。
葛藤の末に勝ったのは、彼女の今ではなく未来を助けるための言葉だった。
「…その方は、あなたを愛してなどいません」
「は…?」
「どこまで可能かはわかりませんが、私がデータを取り戻します。その方のわかる限りの身元を教えてください」
「何、言ってんの?身請けして、結婚出来たら、私が傍にいるんだから、動画も消してくれるんだよ」
「あなた方は花街を出て、下流階級の身分で、どう生きていくのですか」
目を見開いたまま固まった彼女へ、追い打ちをかけるように言葉を続ける。
私の説得を聞き入れてもらえるように、彼から離れて私のところへ逃げて来てくれるように、精一杯言葉を尽くした。
「身請け金は上流階級が用意する基準で決められています。かなりの大金です。万が一、中流階級の彼が用意出来たとしましょう。ですが婚姻届けを出せば彼は下流階級。財産を政府に徴収されて、おそらく仕事はゴミ収集作業員。遊女を辞めたあなたまで決して養えません」
「…み、身請けして、婚姻届けを出さなければ」
「法律違反で拘束逮捕です。お二人とも強制的に婚姻届け提出後同様、下流階級の身分扱いで死刑でしょう」
「ッ…!さっき!下流階級の客からの身請けなら万に一つは可能性があるって言ってただろ!何で!あの人が下流階級になったら可能性なくなんのさ!」
どう考えても、彼女は意地になっている。
自分の愛する彼が嘘をついているわけがない。裏切るわけがないと、必死になって叫んでいる。
でも残念ながら、ここで逃げ道を作ってあげるわけにはいかなかった。
ここで私が引いてしまったら…あなたは彼のところへ行ってしまう。
女心を弄んで、平気で暮らしている最低な男の元へ。
彼女を地獄に落とそうとしている男の元へ、走って行ってしまう。
「特殊な仕事…殺しを生業にしている下流階級の方なら、可能性はあると言ったんです」
「殺、し…」
「身請け金を用意出来て、その後あなたを養うことも可能。下流階級同士の婚姻も可能。ただし仕事柄寿命は短く、それを生業にしている方もいないに等しいです。お相手の方は、下流階級になった後にそれが出来る方ですか?」
「…わ、私のためなら…きっと」
「すぐに死んでしまうかもしれない仕事を、あなたは彼にさせるのですか」
「ッ……!」
「……わかっていただけましたか?」
万に一つもない理由が。
はっきりと、断言するように、彼女へ向かってそう言い放つ。
絶望しているような表情で固まったまま動かない彼女が、ボソボソと口だけを動かして呟いた。
「…彼、はきっと…このことを、知らなかったんだ」
「……私も最初はその可能性が残っていると思いました。世間知らずで、本当にそれが出来ると思っている方なんじゃないかって…でも、あなたの話を聞いて、違うとわかりました」
「な、んで…」
「結婚するから、愛しているから、傍にいなくて寂しいからと、そんな理由で愛している女性の裸を撮影する奴がどこにいるんですか。愛は言葉ではなく、まず行動で示すものです。行動が伴ってこその言葉なんです」
データが流出する恐れのあるこの世の中で、彼はあなたの裸を撮った。そいつがあなたを愛していない証拠です。
私がそう言い放った最後の一言で、我慢していた彼女が両目から大量の涙を流す。
彼から離さなければ、彼女の幸せな未来はどんどん遠のいていく。
そう判断して行ったこの行動が、彼女の未来を奪うことになってしまうなんて……
この時の私は、思いもしていなかった。