「橘さん…」
「そしたらお前も、俺たち下流階級の人間を助けてくれんだろ…?」
「ッ……もちろん、です!任せてください!!」
感極まったように言葉を詰まらせながら、力強く約束される。
首に当たっているシオンの腕が僅かに震えていて、また泣いてんのか?と呆れて笑った。
涙脆いところも含めて、ますます藤に似てんな……
あいつらは……今頃ちゃんと脱出できたんだろうか。
谷さんが傍にいて、あれだけ警備の奴らが俺たちの方に集中していたのだから大丈夫だとは思うが…
今すぐ施設へ確認に行きたい衝動を抑えて、やるべきことを頭の中で整理する。
「こんまま走って病院まで連れて行く。念のためこの近くじゃない遠くへ行くか…」
「いえ、夜間はこの近くしかないと思いますので…橘さんは施設へ向かってください」
「お前はどうすんだよ」
「今は一度家へ帰ります。病院は…朝に家の近くで行きます。数時間くらいなら我慢出来ますから」
「……。」
無理にでも早急に病院へ連れて行くべきかと悩みはしたが、この近くに駆け込んで、万が一遊郭の奴らが来たらシャレにならない。
ここはシオンの言う通りにする方が得策か…と整理をつけて、わかったと短く返事をした。
「本当は、私も今すぐ皆さんの無事を確認して謝罪に行きたいんですが…」
「やめとけ。また違法行為で捕まる気か」
「ですよね……大人しく自宅で橘さんの報告を待ちます」
「ん…こんまま走って家まで運んでやるから、あいつらの無事確認したらまた報告に行く」
「はい…何から何まですみません。よろしくお願いします」
いつもとは違い、素直に引き下がったところを見てほっとする。
こいつのことだから、危険を承知でも1人で帰ると言い張るかと思ったが…今回の事件がかなり効いたのか、素直に俺の意見に従っていた。
中流階級の住宅街付近に差し掛かり、電灯が点々と続く誰もいない歩道を走る。
俺の走っている振動に揺られて動いていたシオンの腕が、スッと斜め上に上がって空を指差した。
「橘さん…丸いお月様、綺麗ですよ」
言われてすぐ見上げれば、何度も助けてくれた月の光が視界に入ってくる。
今まで空を見上げて月が綺麗だなんて感じることはなかったのに、今日1日で様変わりしている自分に驚いた。
「昔の人はね、橘さん。好きな人へ愛してますって伝える代わりに、月が綺麗ですねって表現して伝えていたそうなんですよ」
「は…?」
「素敵ですよね…何だか奥ゆかしくって。いつかは言われてみたいもんです」
「……。」
月を見て、今まさにそれを言ったシオンと、今から言いそうになっていた自分へ苦笑いする。
誤魔化すように鼻で笑って、適当に言葉を返した。
「ハッ、んなもん言われて何が嬉しいんだよ」
「えー、素敵じゃないですか」
「俺だったら、ありったけの富を君へって言われた方が胸ときめくね」
「ゲ、ゲスい…」
ドン引きだとでも言うかのごとく顔を引き攣らせたシオンへ口角を上げる。
こいつのこんな顔は初めて見たなと思うと、余計に笑みが止まらなくなった。
「え、ほんとに意味わかって言ってます?遠回しですけど、愛してるって意味で告白の時とかに使うんですよ?」
「ステキだろ?」
「んなこと言われたいの橘さんだけですよ」
声は我慢していたはずが、間髪入れずに言われた突っ込みにハッと笑い声が漏れる。
冗談で言ったことを、こんなにも本気になって拾っているシオンが可笑しくて仕方なかった。
「金くれるって言ってんのに喜ばない奴いねェだろ」
「お金と愛がイコールじゃないとは言い切れませんが……にしてもその言い回し下品過ぎませんか?下心あるように聞こえるし…告白の雰囲気ぶち壊しです」
「わかったわかった」
女心が許さないのか、ぶつぶつと文句を言い続けるシオンへ悪かったと笑って返す。
仕方がありませんね…と小さく溜息をついた後に、本気の顔で諭された。
「橘さんは真っ先に芸術の勉強しましょうね」
「なんで」
「学んでほしいからです……センスとか」
冗談だっつーの、と眉間に皺を寄せて顔で表現すれば、あはは!と今度はシオンが笑い始める。
その笑顔を見た瞬間、胸の辺りがまた温かくなって、不思議な気持ちになった。
シオンの方へ向けていた顔を正面へと戻して、出来るだけ視界に入れないようにする。
ムズムズするような、この不思議な感覚がある間はシオンの顔を見ていられず、どうしても落ち着かなかった。
いつも仕事をしているゴミ捨て場を通り過ぎて、シオンの住む部屋の玄関前まで辿りつく。
シオンをその場へ下ろした後、薄っすら血のりで赤くなっている頭を観察して呟いた。
「病院…。火傷はわかったが……妓夫にやられた頭の方は本当に大丈夫か?」
「え…?」
「俺がお前を見つける前、頭打ったって言ってたろ」
「……大丈夫です。……今になって思えば、あれも自業自得だったと思います」
「違法拘束しようとした妓夫が悪いだろ。あんま自分のこと責めんな」
どう観察しても、川で血のりが薄まったとはいえ目視だけでは怪我の状態がわかり辛い。
触れて傷があるのか確認しようとした瞬間、驚くような事実をシオンの口から告げられた。
「いいえ……私の頭を殴って怪我をさせたのは、あの妓夫ではありません」
私が逃がそうとした……あの死んでしまった、遊女です。
そう小さく零したシオンの目から、一筋の涙が伝って落ちた。