……私を、信じて。
そう微笑みながら言ったシオンの言葉が、何度も何度も頭の中で木霊する。
俺には思いつかなかった3人で逃げられる策が、シオンにはあると断言された。
それは本当に3人とも無事で逃げられる方法なのか…
南の願いに最後まで頷かなかったシオンに、不安な感情だけが胸に残った。
第10話『ざまあみろ』
「お灸だぁ?ブッ殺されてェのか?」
「ぶっ殺されたくないから逃げるんですよ!!おバカですね!!」
「ああ゛?!」
俺の前に立って妓夫を挑発しているシオンが、後ろ手で右側を指差す。
おそらく南を抱えて、右側から走り込む準備をしろという意味だろう。
理解はしたが、本当にシオン1人で大丈夫なのか…
シオンの右手に持っている懐中電灯が、更に俺の不安を煽ってくる。
リュウマから渡された道具の中に、あいつと戦えるような物なんて入ってなかった。
唯一武器だと言えるようなナイフは、シオンじゃなく俺の手元にある。
せめてこれだけでもシオンの左手に握らせてから行くべきか…
いやナイフがあったところで、鋸を持った相手じゃよほど身のこなしが軽い奴じゃねェと無傷じゃ済まない。
駄目だ。俺が考えうる限りじゃ確実に詰んでる。
やっぱり俺が残るべきで…
「……信じよう」
南がはっきりとした口調で、俺の目を見て呟く。
さっきまで泣いていたはずの顔は、別人のような表情へと変化していた。
真剣な眼差しで、俺へ抱えてもらえるように両腕を伸ばしている。
俺よりも早く腹を決めていたのか、南が抱えられてすぐに小さな声で耳打ちをしてきた。
「…鍵、俺に任せて」
伝えてきた一言だけで、南の言いたいことを全て理解する。
シオンに万が一のことがあったら、俺が逸早く駆けつけられるようにしておけということだろう。
かっこいいなお前…と囁きながら、シオンから預かった連なる鍵を南へ託す。
当たり前だろ、と呟いた南の身体は、表情とは反対に小さく震えていた。
ナイフで南の胴回りについていた細いロープを切り離し、目の前に立つ小さな背中をじっと見つめる。
「あなたみたいな鈍臭い人の相手なんか!私1人で十分です!!」
「ブッ殺す!!!」
わざと自分の方に向かってくるよう挑発し続けていたシオンが、背中でヒラヒラと手を振っている。
心配するな。真っ直ぐ行け。
そう表しているように見えて、ナイフを渡そうとしていた思考も掻き消した。
シオンの策がわからない以上、余計なことはしない方がいい。
大人しく指示を待つ姿勢で、南を抱えたまま息を吸い込んだ。
信じて、動く。
俺の腹が決まった直後、青筋を立てた妓夫がシオンに向かって走り出した。
「腱切るだけじゃ済まさねェ!!お前は膝から下全部切り落としてやる!!」
完全にシオンへ標的を決めた妓夫が、襲い掛かろうとした瞬間…
「ぐぁッ」
シオンの右手に持っていた懐中電灯が光を放つ。
薄暗い地下に放たれたその光は、通常の懐中電灯レベルの明るさではない別の何かだった。
直接光を向けられていない俺らですら一瞬眩しさで目が眩むほどの威力。
顔面へ直接ライトを当てられた妓夫は、下手すれば失明するレベルの明るさだった。
一瞬の間、両目を封じられた妓夫が次に起こす行動といえば想像がつく。
「シオンッ!!避けろ!!」
持っていた鋸を勢い良く振りかぶり、さっきまで見えていたシオンの位置へ振り落ろそうとする。
それが避けられれば横を通さないよう辺りへ振り回し、通路を塞がれるだけだ。
完全に視力を取り戻すまでの時間もおそらく数秒しかない。
今、決着をつけるしか――!
「避けません!!!」
ライトを投げ捨てたシオンが、右ポケットから素早くスプレー缶を取り出す。
左手に握っていた小さい何かを真っすぐ前へ構えて、それに向かって勢いよくヘアスプレーを噴射した。
「ッ…?!火炎放射?!」
シオンの右手から放たれたスプレーに左手のライターが引火して、真っすぐ炎が放たれる。
噴き出した炎が行き着いた先は…
「ぐあああッ!!何だ?!!」
妓夫が鋸を持っていた手元だった。
あまりの熱さに手放した鋸が、音を立てて地面へと投げ捨てられる。
「今ですッ!!!橘さん!!」
叫ばれた合図に反応して、咄嗟にその場を駆け出す。
一瞬で起こった出来事に脳処理が追い付かないまま、南を抱えて妓夫の横を走り抜けた。
手の熱さに暴れる妓夫と擦れ違う直前、ほんの一瞬……
視力の戻ったあいつと、目が合った。
「ッ……!」
シオンが危ない。
本能で直感した瞬間、足が反射で止まりそうになる。
それでも理性で走り続けられたのは、シオンに言われた言葉が脳内で響いたからだ。
『……私を、信じて』
信じる。
信じて、南を抱えたまま走り抜ける。
後ろから妓夫の怒り狂う声が響き渡った。
それには振り返らず、南を抱え込む腕に力を込めて、3段飛ばしで階段を駆け上がる。
出入り口の前で南を下ろして、錠に手を伸ばしたのとほぼ同時だった。
「ぅあッ…!」
「ぎあああ゛ッ!!!」
微かに響くシオンの悲鳴と、再び妓夫の叫び声が聞こえてくる。
反射で勢いよく振り向けば、上半身の衣服に引火した妓夫と、手袋に引火したシオンが視界に入った。
もう一度あれをやったのか――!
「ぎゃあああ゛ッ!!」
「水は牢の中にありますッ!!急ぎなさい!!」
火の点いた手袋を素早く脱ぎ捨てて、妓夫へ向かって叫んだシオンが真っすぐと鉄格子の中を指差す。
死の恐怖に言われる通り走り出した妓夫が、暴れながら入って行ったのはさっきまで俺たちが入っていた牢の中だった。
あの中に、水なんて…
「どごに゛ッ!!あああああ゛!!どごに゛あ゛る?!」
「あなた方が今まで殺してきた人達の糞尿が!!バケツにたくさんあるでしょう!!それを被りなさいッ!!!」
「ぐあああああ゛ッ――!!」
――ガシャンッ、そんなバケツの音と共に、水のような、泥が落ちるような、不快な音が響き渡った。
牢の外で、屈みながら錠を触っているシオンが目に映る。
鍵をキーホルダーから個別に外すのを手間取った。そう言っていたのを思い出す。
あの時、妓夫を牢へ閉じ込めるための鍵を外していたんだろう。
シオンの策は上手くいって、妓夫との決着はついたように見えた。
ほっと胸を撫で下ろして、一度南へ視線を向ける。
同じ思いでいたのか、南が小さく頷いてほっと息を吐き出していた。
「ゴホッ…すげェや、バンビちゃん…ハハ」
「…ああ。俺たちも役目果たすぞ」
「おお!任せろ!」
少し笑顔を取り戻した南が、連なる鍵を持った手を真上へ上げて叫ぶ。
本当にすげェよ……よくやってくれた。
ヘアスプレーが火炎放射器になるとか…俺達では絶対に考えつかなかった策だ。
あの懐中電灯だと思っていたライトも、俺たちが知らないだけで別の用途で使う道具なんだろう。
おそらく着用していた厚手の手袋も、防寒用じゃない別の用途で使う物なのかもしれない。
そう思って、ふと目当ての鍵を探す南の手元からシオンの方へと視線を向ける。
「……?」
あとは牢に鍵をかけるだけのはずが、妙にもたついているシオンが気にかかり違和感を感じた。
「あいつ……何やって…」
暗い牢の近く、錠に手を伸ばしては鍵を地面へ落としてを繰り返す姿。
その小さな両手を遠くから視界に入れて、思い浮かんだ可能性が脳裏をよぎった瞬間…
「ッ…!!!」
「橘ッ!行って!!こっちの鍵は俺に任せろッ!!」