逃げる方法を考えて、何度頭の中で試みても、南が無事に生き残れる可能性を見いだせない。
震える小さな肩を抱き寄せたまま、大丈夫だ…と小さく発したは良いが、俺の心音は危険だと物語ってしまっている。
額から一筋、汗が流れ落ちた。
逃げるという選択肢を放棄するしか、方法はないのかもしれないと腹を括った。
第9話『信じて』
ゆっくりと、現状を楽しむように妓夫が俺たちの方へと近づいてくる。
一段一段階段を下りては、どう南を解体するか説明し始めるクズ野郎に、奥歯が砕けそうなほど歯を食いしばった。
南の両耳に手を当てて、妓夫の声が届かないよう掻き消す大きさで叫び返す。
「取引がしたい!!」
俺の一言にピクッと片眉を上げた妓夫が、階段を下りきった後立ち止まる。
数秒黙ったところを見るに、取引内容によっては受け入れるつもりはあるんだろう。
ここで失敗すれば後はない。
南の命を助けられる唯一の方法。この取引に、全てが懸かっている。
「取引ぃ?」
「……金を用意する」
「あ゛ぁ?」
「こいつらを無傷で生かしてくれたら…1億、用意する。1週間後、金と身柄を交換でどうだ」
俺の取引内容を聞いて、妓夫が眉を寄せる。
これから言われるであろうことを先回りして、低く言い放った。
「俺が1人で逃げだすだけだって言いたいんだろ?あと下流階級のゴミ収集作業員に1億も用意出来るわけねェってところか…」
「……。」
「上流階級から殺しの依頼を受ける。……下流の人間にはよくあることだろ?金が無くて追い込まれた奴が殺し屋に転職することなんざ」
「んな簡単に稼げるかよ。射殺されて終わりだ」
「俺がしくじったら2人とも死ぬだけだ。俺の成功に賭けた方があんたには得だろ?」
「馬鹿かお前。どう考えてもお前だけ逃がしてくれって言ってるようなもんだろ。そいつらの命と引き換えに俺だけは助けてくれーってか?」
「……。」
思った通りの反応を見せる相手に、フッと体の力が抜ける。
ここまで話を聞いてくれるなら、俺の提示した1億という餌はこいつにとって良い条件だったんだろう。
あとはこの疑念さえ晴れれば上手くいく。
取引が成立して、2人の身の安全は保障される。
「俺の身よりも、2人の方が大切だって思ってることを証明出来れば良いんだよな?」
南から身体を離して、数歩前へ足を進める。
ごめんな南…これ以外でお前を助けられる方法は思いつかなかった。
心に傷を負わせることは十分わかっている。
それでも…お前の命を助けられるなら…それでも、かまわない。
「……俺の左腕を置いていく」
「…!!」
「橘さん?!」
左腕を見て、妓夫が目を見開いた後ニヤッと笑みを浮かべる。
俺の言いたいことを理解したのか、鋸を持ち上げて下卑た笑い声を発し始めた。
「ハッ!覚悟見せてくれんのか?そりゃ良い心掛けだなぁ!1回で上手く切り落とせるかは保障しねェぜ?お前に蹴られた所為で意識朦朧としてっからなぁ!指の先から徐々に切り刻んじまいそうだ!」
「……右腕と両足残ればいい。殺しの仕事受けられる範囲でやってくれ」
「た、ち…ばな?え…?それって、どういう…こと、なんだ?」
後ろから聞こえてきたか細い声。
それには反応出来ず、真っすぐ妓夫の目だけを見つめる。
こいつの考えが変わらないうちに、さっさと契約を結んでしまいたい。
その一心でもう1歩前へ踏み出した瞬間、グッと後ろから弱々しい力で引っ張られた。
振り返らなくてもわかる、小さな両手。
震える手のひらに左手首を握られて、前へ進むことを阻まれる。
「ゴホッ、左腕…置いてくって…なに?橘…」
「南……」
「俺ッ…俺の所為?俺が、来たから…?」
「南、落ち着け」
ボタボタと涙を零しながら顔をクシャクシャに歪ませる。
普段ならどんなに辛い状況でも笑顔を見せる南が、初めて、幼い子供のように泣いて取り乱していた。
年相応に泣いた南を見れたのがこんな状況じゃなければ…笑顔で抱きしめてやれたのに。
今そんなことをしてしまえば、おそらくクズ野郎の癇に障って矛先が南に向いてしまう。
せっかく整いそうな取引に水を差しかねない。
断腸の思いで南の両手を剥がし、動かずに口は閉じてろ、と小さく諭した。
南の頭へ左手を置いて、一瞬だけ撫でるように動かす。
左手で触れた最後のものが、南の頭で……俺の心は救われた。
絶対に助けてやると強く思えた。
最後に一瞬でも触れられて、本当によかった。
「金と身柄の交換場所だが…」
「おい待て待て。まずは指何本か切ってから話そうぜ?じゃねェといざって時にお前がヒヨッたらなぁ?ぜーんぶ無駄話になっちまう。だろ?」
「……。」
激痛に耐えながら交渉しろってか…
判断力が鈍るような状況での取引に、舌打ちが出そうになる。
そもそも交渉段階の時点で立場が圧倒的に不利だ。従わざるを得ない。
わかった…と短く返事をして、また1歩前へと足を進める。
今度は右手首を強く掴まれて動作を阻まれた。
手の大きさからも、力強さからも、誰が引っ張ったのかはわかる。
「橘さん…」
珍しくずっと大人しかったシオンが、俺の右手首を痛いほど握ってくる。
俺が一度止まり振り返ったことで、右手首の圧迫からはすぐに解放された。
目が合った状態で、力強く呟かれる。
「お待たせしました」