叫んでいた言葉通りなら、警察へ通報するために駆け出したんだろう。
慌てたように足を縺れさせている後姿を見て、助かった。恩に着る。と心の底からリュウマに感謝した。
「どうする…追いかけて始末するか?」
「…他の客にも目立ち過ぎた。同じように通報する奴らも出てくるだろ。キリがねェ…」
「ここは穏便に拘束して、警察に引き渡すしかねェな」
「ああ゛?!テメーら本気で言ってんのか?!」
「お前もサツに捕まりたかねェだろ?それだけじゃまだしも、連帯責任で店が営業停止になったら何人首吊ることになんだよ」
「……チッ」
リュウマの機転のお陰で、これからすぐに嬲り殺される可能性は低くなった。
俺を目の敵にしている妓夫以外は、法に従って拘束のみを行い、警察に引き渡すつもりらしい。
縄で後ろに手を縛られ、ご丁寧に首縄まで掛けられる。
さっき女の首に引っ掛けた紐とは違い、頑丈な縄で首に通されたのを確認して、いよいよ自力で逃走出来なくなったな…と腹を括った。
女の方に視線を向ければ、俺とは違い比較的軽めに拘束されているように見える。
俺の叫んだハッタリが本当の場合命に係わると思ったのか、女への扱いは丁寧にされているのを見て一先ず肩の荷を下ろした。
「…テメーは絶対俺が嬲り殺す」
「……。」
複数人に縄で厳重拘束されている最中、あの妓夫が俺の前に屈んで宣言してくる。
睨み殺す勢いで顔を近づけられ、性懲りもなく俺への執着を表していた。
「サツが来たら交渉する。金さえ渡せば下流の人間1人くらい自由にさせてくれんだろ。切り刻むのが楽しみだぜ」
「……。」
「あ゛?怖くて声も出ねェか?」
いや口に布突っ込まれてんだから反応出来ねェだろ…
若干アホな中年のオッサンに溜息をつきたくなる気持ちを抑えた。
ただまあ…
「身体に升目の線引いて、ブロック状に解体してやらあ。鋸かチェーンソー探しに行くか」
こいつが本気で言ってるってことだけはよーくわかった。
やると決めたらやるタイプの執念深い目だ。
おそらく警察が来る前に何とかしねェと本当に生きたまま解体される。
一番厄介そうな奴に目をつけられたな…と内心辟易していると、大人しく拘束されていた女が急に力の限り暴れだした。
俺と同じく口の中に布を詰め込まれている所為で、何かを主張しているはずが言葉になっていない。
必死に暴れて向かおうとしている先が、鳥居の方ではなく俺の方に向けられていて、柄にもなくフッと慈しむような笑みが零れた。
俺のことじゃなくて自分の心配してろ。という意味を込めて、出来るだけ落ち着かせるように笑ってみせる。
その俺の表情を見た女が驚いたように目を見開いた後、眉尻を下げて両目に涙を溜め始め大人しくなった。
女が虚しく俯いた拍子に、表情が見えなくなった顔から雫がポタポタと落ちる。
地面が数滴濡れたのを視界に入れて、そんな場合ではないのに、ふと雨のひどかった昨夜のことを思い出した。
借りた傘……返せなかったな。
親切にしてもらったのに逃げるように出て行って、傘についてもまともな礼すら言えなかった。
結局今も逃がしてやれてねェし……泣かせてるし……ダッセー。
「立て!大人しくついて来い!!」
「ッ……」
俺の夢を聞いて……良い夢だって賛同してくれたあの時…本当は、嬉しかったとか。
風呂入ってたくせに俺が死ぬかもしれないと思って飛び出して来て、下手な嘘までついて庇ってくれたあの時……本当は、死ぬほど嬉しかったとか。
なんにも本音を伝えずに終わってしまうのかと思うと、あまりにも遣る瀬無くなった。
後悔ばかりが膨れ上がって、今考えなくてはいけない事柄から思考が遠ざかっていく。
伝えられる間に伝えるべきだった。
疑いばかりを口に出す前に、もっともっと、大事なことを言葉にして伝えるべきだった。
「一先ず男は地下牢に入れとくか。女はどうする?折檻部屋か?」
「サツが来るまでだかんなぁ。まとめて地下牢で良いだろ」
「一緒にしてまた逃げ出したらどうすんだよ」
「こんだけ縛ってりゃ問題ねェって。奥の手もあるしな」
「…?」
でかい建物の入り口を通り、真っ赤な内装の遊郭が視界に映る。
無理やり現実に思考を引き戻し、逃走経路を見いだすため出来るだけ内部を観察した。
「おっと、抜かりねェ野郎だな。ったく…」
「…!」
視線を動かしていたことが見つかり、透かさず両目を布で覆われる。
内心舌打ちをして、耳から入る情報だけでも捉えられるように集中した。
「ッ…!」
背中を押されて階段を下っている途中、あの女のくぐもった声が一瞬聞こえる。
何かあったのかと素早く身体を後ろへ翻せば、真後ろにいた男が躓いただけだとご丁寧に返事をしてきた。
本当だろうな…と眉を寄せていると、さっさと行け!と腹を蹴り上げられる。
その俺を見た女がまたくぐもった声を出して、やめろと暴れている音が聞こえた。
「ぐッ…」
「大人しく歩けよお前ら…ったく、俺はチェーンソー探しに行ったあいつと交代してもいいんだぜ?」
「…!」
「俺たち2人が一番穏便な方なんだから言うこと聞いとけって。嬢ちゃんはあの牢ん中見えたんだろ?ああなりたくなけりゃ黙ってついて来い」
「……。」
階段を下りきった途端、嗅ぎ慣れた死臭に包まれて、なるほどな…と納得する。
真新しい血の臭いまで漂う地下牢に、女が声を上げた原因はこれかと理解した。
見るに堪えない惨状が牢の中で広がっているんだろう。
一般的な中流階級で生きてきた女が精神を病んでしまわないかだけが気掛かりだった。
「おらよ、2人でここ入っとけ。他は先客で満杯だ」
鉄格子の入り口が開く音を耳にして、真っ直ぐ前へと進む。
満杯の割には生きてる奴の呼吸音がしねェなとイラついていたら、思い切り後頭部に衝撃を食らって倒れ込んだ。
「ん゛ーッ!!ん゛ーー!!」
目元の布がずれて、女が泣きそうな表情で駆け寄ってくるのが見える。
ただそれが見えたのも一瞬だけで、すぐに視界が暗転して気を失ってしまった。