血塗れになって倒れている人間が、一目で女人だとはわからなかった。
髪が短い女は、下流にも中流にも上流にも不思議と少ない。
小柄だが、髪が短いという理由で最初は男だと思った。
けれど一瞬浮かんだあの女の容姿を思い出した瞬間、血の気が引いてその場から駆け出していた。
第7話『縁』
「ッ…!!」
近くまで駆け寄り、横向きになっていた顔を確認して衝撃を受ける。
一瞬浮かんだ嫌な予感が見事に的中していた。
「おいッ!聞こえるか?!」
女の頬に手を当てて、顔を上から覗き込む。
意識の戻らない女へまさかと焦り、顔の近くに耳を寄せて息があるかを確認した。
規則正しく聞こえてくる呼吸に、ほっと胸を撫で下ろす。
だが流している血の量から察するに危険な状態には変わりなかった。
どこが一番ひどい怪我なのかを確認するため、女の身体に触れようとした瞬間…
「たち、ばな……さん?」
薄く目を開けた女が、小さく途切れ途切れに俺の名前を呼んだ。
意識が朦朧としているのか、俺の存在を再度確かめるように腕を伸ばしてパーカーの裾を掴んでくる。
「たぶん、これ…まぼろし、ですよね?橘さ、が…いる」
「お前ッ、ここで何やって!」
「ちょっと、失敗…したん、です。でも…へいき」
「こんな怪我して平気なわけねェだろッ!」
「へ…?あ、これは……ッ!!」
女が俺の背後へ目線を向けた瞬間、驚いたように目を見開いて上半身を起こした。
息を呑むように身構えたのを見て、背後に感じた気配に勢いよく振り向き警戒する。
「…ここにいやがったか」
中年の男…おそらく服装から予想するに、どっかの遊郭の妓夫だろう。
警備に適した体格の良さそうな男が、女に目線を向けた後、面倒そうに舌打ちをして俺の方に視線を向けた。
「その男に唆されて逃走手解きしやがったのか…救えねェ女だな」
「ッ…!この人は何の関係もありません!今たまたま会った人です!!」
「……ほお?たまたまねぇ」
片眉を上げた妓夫が、訝しげに俺のことを観察してくる。
下流階級のゴミ収集作業員が必ず着用する衣服を見て、鼻で笑うように口を開いた。
「おい、そこの下流。黙ってその女こっちに引き渡せ」
「……。」
「そしたらその女の身柄に免じて、テメーは無罪放免にしてやらあ」
黙って相手の話に耳を傾けながら、女の様子を横目で覗う。
俺に唆されて逃走を手解きした…そう漏らした妓夫の内容から推測すれば、自ずと女が仕出かしたことを予想出来る。
今にも再び気を失ってしまいそうな女の表情に、ぐっと奥歯を噛み締めた。
血塗れになるほどの出血。
ここで判断を間違えば、女の命に関わってくる。
「……渡せばこの女はどうなる」
「決まってんだろ?遊女にして、病気になって死ぬまで稼がせんだよ」
「…!」
妓夫の下劣な笑い声が路地裏に響く。
自分が掴まった後の未来を聞かされた女は、眉を寄せて一瞬だけ肩を震わせていた。
「こいつの所為で遊女が1人逃げてんだ。自分で責任取ってもらわなきゃなぁ?」
「…こいつは中流階級の人間だろ?」
「いくら中流階級の人間でも許されねェぜ。素直に警察へ連れてってもらえるとでも思ったか?身体で返せ、身体で」
「……ああ、そうかよ。俺には関係ねェ」
冷たく言い放ち、女を見ずにその場から立ち上がる。
連れて行けという意味を込めて妓夫に視線を送れば、いとも簡単に警戒を解いて俺の方へと近寄ってきた。
「下流は素直で助かるぜ」
「自分の命賭けてまで中流に逆らう奴なんかいねェだろ」
「違いねェ」
「……その女、遊女にするって言ったよな?」
「ああ。髪さえ伸ばせばまだ使えんだろ」
「それなら…」
こんな傷負わせてんじゃねェよ、クソがッ!!
そう叫ぶのと同時に、油断して女の前に屈んでいた妓夫の背中側から後頭部を思い切り蹴り飛ばす。
勢いのまま顔面から建物へ激突した妓夫が、一瞬で意識を飛ばして地面へと崩れ落ちた。
妓夫と建物の間にいた女を避けて蹴りはしたものの、自分の真横で起こった出来事に驚いて女が放心している。
それも含めて好都合だと内心呟きながら、無抵抗の女を素早く抱きかかえて走り出した。
「怪我は?!どっから出血してんだよ、これ!!」
「え…?なに、が…起こ……え??」
「この抱き方だと両手塞がんだよ!もしもんために片手空けてェから!俵担ぎで耐えれるか?!」
「だ、大丈夫ですッ!怪我は頭打っただけで!他は!ッ…血のりなんです!!」
「はあ?!血のり?!!」
一瞬足が止まりそうになったのを、今はそれどころじゃないと自分に言い聞かせてまた全力で走る。
怪我をしたのは頭だけだと聞いて一端はほっとしたものの、一番打ったら危険なとこだろうがッ!と再び怒りが湧き始めた。
横抱きから俵担ぎに変える際、出来るだけ頭を支えて振動が響かないように気をつける。
辛かったら首にしがみ付けと指示を出して、右手は自由に使えるようにした時だった。
「…!おい!橘?!」
行き交う人の群れに紛れて走っている途中、どこかから谷さんの叫ぶ声が聞こえた。
いくら人混みに紛れていようとも、血塗れの女を抱えていれば嫌でも周囲の人の目につく。
ざわつく奴らの視線の先にいた俺を見つけて声をかけてくれたんだろうが、ここで谷さんまで巻き込むわけにはいかない。
説明する時間はないが、1つだけ気掛かりなことだけは伝えたかった。
「店にいる藤と南は頼みます!!俺は後から帰りますからッ!」
「は?!いやおい待て!橘!!」
人混みの隙間から少しだけ見えた谷さんを置いて、足を止めずに突っ走る。
混乱しているような谷さんの声を耳にして、心の中だけですみません…と深く謝罪した。
もし俺の身に何かあったら、2人のことは頼みますと強く願い、腹を括る。
今は左肩に抱えている女のことだけに集中して、花街の出入り口にある鳥居を目指し、全速力で走った。
鳥居をくぐって花街さえ出てしまえばどうとでもなる。
花街の中で拘束されなければ、経験上逃げ切れる自信はあった。
逆に言えば、花街の中で掴まれば終わりだ。
俺は良くても拘束後、警察に引き渡されて死刑。女は良くても拘束後、警察に引き渡されて逮捕。
一番最悪なケースは、2人とも拘束されて気が済むまで違法に嬲り殺されること。
あの妓夫の下劣な笑い方から想像すれば、やりたい放題される未来の方が有力で目に見えている。
何としてでも鳥居をくぐらなければ…!
そう焦って、人混みから躊躇無く飛び出した瞬間…
「ッ…!橘さん!!」
「痛ッてェ!」
女に向かって飛んできた小型のナイフを右手で弾く。
咄嗟に反応して女には当たらず防御出来たが、代わりに手の平をスパッとやられていた。
さっきの妓夫が回復して追いかけて来たのだとしたら見つかるのが早過ぎる。
女を抱えている左の死角から攻撃されて相手の確認は出来なかったが、もしかしなくてもこいつ…!