当たり前のように差し出されたバスタオルを反射で受け取る。
受け取ってから数秒後、いや待てと突き返そうとすれば、絶対に受け取らないと両腕を後ろに回して首を横に振られた。
「拒否ってんじゃねェよ」
「その間に服は洗濯と乾燥やっときますので、最低でも1時間は温まって入ってくださいね」
「意味わかんねェ」
「お風呂に!入れって!言ってるんです!意味わかるでしょう!!」
今度は両腕を出しながら突進してくる。
いくら勢いをつけて押しても動かない俺の体へ、ムキになった女が頬を膨らませて殴りかかってきた。
「このッ!全然動かないですね……こんにゃろ!!」
「…施しなんて受けねェ」
「自分でここに来たんでしょう?!それなら観念し……ぶえっくしょいッ」
貧弱な拳で腹を殴ってくる腕を軽くいなし、手首を掴んだ瞬間に特大のくしゃみをされる。
俺の腹に向かってしたくしゃみに対して、あ…ごめんなさい…と謝りながら手で撫でられ、突っ込みどころしかない謝罪に思わず顔が引き攣った。
殴ったことへじゃなく、くしゃみに謝罪…?服着てねェ俺の腹撫でて…?
駄目だ、意味わかんねェ。ぶっ飛びすぎててどう突っ込めばいいのかもわかんねェ…
「お前が入れ!冷えたんだろーが!」
「一緒に入って私に洗われるか!橘さんが1人で入って自分で洗うか!ふたつにひとつですよ?!さあ!選んでください!!」
「……。」
…もういい。俺が入る。
死んだ目でそう返事をすれば、鼻息荒く勝ち誇ったように風呂場を案内される。
シャンプーなど使い方はわかりますか?と聞かれた質問には無視をして、脱衣所から追い出しドアを閉めた。
ドア越しに、浴室へ入ったら教えろと言われはしたが、それも無視して服を脱ぐ。
俺が浴室に入った瞬間に脱衣所へ入ってきた女の物音が聞こえて、諦めの溜息が漏れた。
「施設にお風呂が無かったら普段どうしてるんです?」
「お前に教えなきゃいけない筋合いねェだろ」
「……。」
珍しく言い返してこない女が数秒沈黙する。
脱衣所にあった俺の服を拾い上げ、洗濯機に入れてスイッチを押した音が聞こえて一瞬嫌な予感がした。
俺の着せたパーカーも脱いで洗濯したんだとしたら、ちゃんと自分の服着たんだろーなあいつ…
それにしては妙にスピード感があった洗濯機の作動開始に、眉間の皺がより深くなった。
「…さっき、橘さん施しは受けないって言いましたよね」
「…ああ」
「施しじゃなくて、対価だって思ってくれませんか?」
「…?」
何のだよ、と言い返したくなる気持ちを口に出さず、シャワーを頭から浴びる。
さっさとこの奇妙な状況を終わらせたい一心で、髪を泡立てていた時だった。
「私に、下流階級のことを教えてください」
「……は?」
「教科書に書いてない下流階級のこと…ううん、そもそも教科書には嘘がいっぱいです。本当の下流階級の現状を教えてください」
「……。」
「その対価で、私はお風呂や食事を用意します」
「…あのな」
「それだけじゃありません!現状の下流階級を知って、更にその現状を変えるための手立ても教えます!」
バンッと勢いよく叩かれた浴室の扉に目を向ける。
曇りガラスにくっきり見える小さな両手。その奥に薄っすら見えるシルエットが嫌な予感の通り服を着ていなさそうで、心の底から呆れた溜息が再度漏れた。
服着ろやッ!!と叫んだ俺の声にはすぐに反応して、着たら教えてもらえます?と暢気に返しながら衣服を探している物音が聞こえる。
その物音が収まり、無事に着終えただろう時を見計らって続きを返した。
「現状も知らねェ奴が変える手立てを教える…?馬鹿にしてんのか」
「いいえ、本気です」
「信用出来ねェ」
お前の目的はなんだ?
そう低く発した声が、シャワーの音と共に浴室へと響き渡る。
脱衣所にいた女には水音で聞き取れなかったのか、数秒沈黙が訪れた。
聞き取れなかったのなら仕方がない。
話はこれで終わりだと、シャワーを止めて会話を続けず浴槽へ入ろうとした時だった。
「…昔、救えなかった人がいたんです」
ポツリと呟かれた震える声に、曇りガラスへ視線を向ける。
ガラス扉へ背中を向けて凭れ掛かっていた女が、俺の返事を待たずにゆっくりと話をし始めた。
「その人は私と階級の違う人でしたが、私にとても良くしてくれました。それで…その人が言ってたんです。現状を変えるのは難しいことだけど、違う階級の人間が現状を変えようと思えば、同じ階級の人間よりは容易く変えられるだろうって…」
つまり、橘さんよりも、私の方が下流階級の現状を変えやすいんじゃないかってことです。
そう続けられた言葉には返答せず浴槽に浸かる。
じっと視線だけで曇りガラスに映る女の様子を窺って、真意を探ろうと神経を研ぎ澄ませた。
「もうその人みたいに、別の階級の人に苦しんでほしくないんです」
辛そうに震える声。
その声が、2回目に会ったあの日の顔を連想させる。
『これが普通だって、蔑まれるのが当たり前なんだって…そんなの、おかしいじゃないですか』
初めて笑顔以外の表情を見たあの時の、胸がぐっと締め付けられるような、変に心臓が脈打つような…そんな気持ち悪い感覚が蘇る。
今もガラスの向こう側で同じ表情をしているのかと思うと、不思議な感覚がして落ち着かなかった。
「橘さんは、夢ってありますか?」
「……。」
突然問われた質問に、何と答えればいいのか言葉が詰まる。
俺の返事は得られないと思ったのか、女が早々に諦めて自分のことを語りだした。
「私の夢の1つは、下流階級の子ども達が通える学校を作ることです」
「…学校?」
「はい、学校です。下流階級の人達に文字の読み書きを教えて、他の勉強も教えて…ゆくゆくは下流階級の大人達が子ども達に勉強を教えられるシステムを作ることです」
淡々と告げられる夢の内容。
それはどこか違和感を感じるくらい奉仕精神に満ち溢れていた。
ただの一般的な中流階級の人間が、こんな考えを持つか…?
あまりにも世界を俯瞰して見ている自称18歳の女が、得体の知れない不気味な…同じ人間ではないような感覚がした。
「その夢の第1歩。…その1人目に、橘さんを選びました」
「……。」
「でも正直、私が橘さんに教えることよりも、橘さんが私へ現状を教えることの方が多いと思います。橘さんは学歴が無くても結構難しい言葉を知ってるなと思っていたので……一体どこで学んだんです?」
「…何のことだかわかんねェ」
「無知だとか施しだとか、そんな言葉は普通出てこないですよ。学んでなければ…ですけど」
まあ話したくなければ今はいいです。この話は追々聞くとして!
そう話を切り替えた後に、喉は渇かないか?水はいるか?と尋ねられる。
おそらくそれはまだまだ話を続けるぞと言うサインだったんだろう。
必要ないと答えた途端、続きを急かすように話をし始めた。
「それと、私が下流階級のことを知る方が最優先だと思うんです。そうじゃないと、これからの環境改善対策が立てられない…協力してもらえませんか?」
俺の返事がリズム良く返ってこないことにソワソワしている背中。
それをガラス越しに眺めながら、浴槽の縁に肘をついて考える。
色んな可能性を視野に入れて、深く深く思考を巡らせていた時だった。