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「……恋?」
「はい」
ほどかれたミディアムの黒髪が、首を傾げたのに合わせてさらりと揺れる。先輩はきょとんと浮かべていた表情を、くすりと微笑みに変えた。
「澪くんからそんな質問が出てくるとは思わなかったけど……それを私に訊いちゃうんだね?」
なんて。揶揄うような口ぶりで、先輩は上品な手つきでパンケーキを一口サイズに切り分けて、ぱくりと頬張る。
駅前、カフェ、窓際の席。夏の午前、差し込んでくるのは高い駅ビルを迂回してくる反射光くらいで。その柔らかい光が照らし出す彼女は、運動している時とは全然違う、少しどきりとするような佇まい。
「その……色々経験豊富そう、な気がして」
「あははっ! 経験豊富って!」
行きたい場所があるらしいということで、身を任せる形でのデートの真っ最中。した質問は、恋をしたことがあるか。直前二回のデートで色々と、考えさせられることがあったから。何なら現在進行形で、どうするべきか考えているから。
「失礼だなぁ。これでも私結構ピュアっていうか……恋人だって、一度しか経験ないよ?」
「…………」
「気になるって顔してるね」
う。
いや。
質問しておいてなんだけど、正直ダメ元だったから。いつもの裏の読めない笑顔で流されるだけだと思っていたから、教えてくれたという意外さもそうだし。一度しか、という言葉にも裏を感じなかったから、それもちょっと予想外で。
くすくすと笑う先輩に顔が赤くなるけど、他の誰かに相談できる話でもない。
「き、聞けるなら、聞いてみたい……です」
「ふぅん? ……まぁ」
伝えると、先輩はころりと首を傾げて、あっさりと頷いて。
「別に大した話じゃないけど、澪くんが聞きたいなら話してあげよっか。……ただ、告白されて、受け入れて、最後は振られたって、それだけだけどね」
世間話でもするような軽い口調。話しながらもまた、先輩の握るナイフがパンケーキの生地に沈み込む。
「清正院に編入する前だけど。中学一年生の頃に同級生、女の子から告白されてさ。それまでもそれからも、告白自体は何度もされてたんだけど、……あ、そういえば澪くんって告白されたことある?」
「え!? な、ないです……ないですけど」
「……ふふ。そう?」
「あの、……私、……澪は、ですけど……」
「うんうん」
もちろん、伶くんとして想いを伝えられたことは何度もあるけど。素山澪として告白されたことは、今まで一度もない。そもそも親しい友達だって数えるくらいしか作っていないのだから、当然だと思っているけど。
経験が全然ないからこそ、今悩んでいるわけだし。
「まぁ、いつも告白は断っちゃってたんだけどね。部活に集中したいのもあったし、正直告白された時に付き合うみたいなイメージ全然湧かなくってさ。……でも、あの時はたまたま、別にいいかなって思ったんだよね。あの子のことは私も結構好きだったつもりだし、普段から仲良かったし、断ったら気まずくなるかなって思ったのもあって。あんまり考えないでオーケーしたんだ」
「……なるほど」
「で、……どうなったと思う?」
「え?」
「付き合ってからの私が、どうしたか」
え。どうなった、って言われると難しいけど……でも。
「えっと……イメージですけど、こう、……王子様みたいになった、とか」
「っあはははは! すごいすごい! 澪くん、不正解だけど大正解」
「ふせ、……え?」
「全然違うけど、間違い方が一緒なの。あの子と」
心底楽しそうに笑って、先輩はふう、と一呼吸を置いた。
「いや、言われたんだよ。もっと王子様みたいなの想像してたって。でもさ、……私は付き合ってから、何もしなかったんだよね。デートしたいとか、手を繋ぎたいとか、言われたら付き合ったけど。自分からは何も言わなくてさ」
「…………」
「そういうの、したくなったら言えばいいって思ってたから。でもそうならなくて、あの子の方からも何も言ってこなくなって、三ヶ月くらい経ったら自然と普段通りみたいになってて。半年経ったら正式に、もう別れてるってことでいいよねって。それからは何となく、話さなくなったな」
「…………」
つまり。先輩には特に恋愛感情はないまま付き合ってしまったから、想いに差が出来てしまった、ということだろうけど。
「だから。恋人はいたことあってもね、恋の経験が全然ないの」
そうして先輩は、からりと笑う。
そこには別段影もなく。するりとフォークで取り上げたパンケーキを、美味しそうに味わって。重くもなりそうな内容だったけど、居たたまれなさも感じないくらい、いつも通りで。こういうとこ、先輩らしいなと思ったり。
「……ありがとうございます」
「はは、あんまり役に立たなかったでしょ?」
「いえ、……」
恋をする、という感覚。
誰かを好きだという気持ち。
そういった感情を抱かない人もいると聞くし。もしかしたら恋、のようなものをしている、かもしれない私さえ、自分の感情に自信が持てない。
撫子さん。それとも、かすみ。
動揺したり、胸が鳴ったり。頬が染まったり。好意があるのは間違いないとして、それは恋と呼べるのか。撫子さんは。かすみは、どんな風に思っているのか。
「……」
同じ気持ちじゃなかったとしたら。関係を変えてしまったら、もう元には戻れないのだろうか。
これは思い上がりかもしれないけれど。もしも、二人ともが好きでいてくれてるなら。どちらかを選んだら、どちらかとは縁が切れてしまうのか。
とか。
「ほらほら。そんな顔させるために話したんじゃないんだから」
「あ、……ごめんなさい。ちょっと自分のこと考えちゃって」
「ふぅん? パンケーキ、まだ半分も残ってるよ」
「……ですね」
伶くんとしては割り切っている。ファンの子から想いを伝えてもらっても、それに応えることはできない。だからこそ活動で返そうと。応援したいって思ってもらえたことを、好きだと感じたことを後悔させないようにしようって。でもじゃあ、澪としては?
私は、どうしたいのか。
「みーおくん」
「……わっ」
至近距離の声。瞬きをすればいつの間に、目の前に覗き込むような先輩の顔。鼓動が跳ねて逸るのは、考えていたことがことだからか。
「もう……澪くんは、恋に夢中なの?」
「い、いや! その、……へ、変な質問はしましたけど」
「じゃあ、……付き合ってどうしたいとか、恋をするのがどういうことかも知ってるの?」
「え!? え、ええと……」
「じゃあさ」
返事を考える暇も与えてくれず。
するりと。
先輩はさらに身を寄せて。ながらも器用に置いてあった私のフォークを取って、半分残ったパンケーキの一欠片を持ち上げる。
あーん、の言葉もない。でも口元に迷いなく運ばれて、戸惑いながら、自然と口を開けたら、ぱくり。
少し冷たいフォークの感触。その上で柔らかくとろけるパンケーキ。
「澪くんが」
フォークを優しく引き抜きながら、むしろ先輩の顔が近づいて。
「そういう気持ち、教えてくれる?」
「っ、――むぐっ! っ……む、……っ……と! ちょ、せ、先輩!!」
「あはははっ! ちょっと澪くん、焦りすぎだってっ……お茶、ほら、お茶飲んで……あははははっ」
あーもう、完全にからかわれた。楽しそうに笑う先輩は、席へと身体を預けてもまだ体を震わせている。
「……先輩、ほんと悪いですよ、こういうの」
ほんとに。頬が熱い。いやからかうとかじゃなくて、あの距離で見る先輩は流石に顔がいいというか。ああされるとそれこそ、言われた側が恋を教えられそうというか。
「ふふふっ……、ごめんごめん。でも別に、冗談とかじゃないからさ」
「……い、や……だからそれがよくないですって」
「ほんとだよ?」
小首を傾げた先輩は、まだからかうような調子を残しながら。けど、瞳はどこかあどけなくて、無垢な声音で。
「恋の気持ち、教えてくれるなら知りたいよ」
柔らかい言葉には、切実さも、嘘も交じっていない。ただそう思っているという、それ以上でも以下でもないような。
それは本来、もっとたくさんの人を勘違いさせたり、鼓動を跳ねさせたりするような言葉なんだろうけど。でもそんなフラットな声色がまっすぐに言葉を届けてくれて。
ふと、思った。
「……もしかしたら先輩って、……追いかける方が、合ってるかもですね」
「へ?」
きょとん。からこてん、と傾げられる首。
「なんとなく…………いや、…………すみません、ちょっといきなり変なこと言ってますけど。その、……恋する側の方が、…………というか……」
見切り発車過ぎる言葉だと途中で気付いて、歯切れも悪いどころじゃない、けど。
清正院の百人に訊けば百人が、とは言わずとも九十人くらいは、追いかけられる側が似合うと言うだろうけど。というか実態がそうなのだし、それで輝いている人なんだけど。
「いやほら、スポーツも何かを突き詰めるものですし、……恋も、追いかける方がいいのかなって」
「…………」
「あの、……その方が燃えるみたいな…………とか、……」
「……………………」
「えっと……あ、いや、やっぱ違うかも? あの…………、すみません」
「……っ、……」
あまりのリアクションのなさに、大分外してるかもとあわあわし始めたら、先輩がびくりと震え、そのまま肩が小刻みに揺れて。そのままぷるぷると震えを増幅させた先輩は。
「――っあはははは! あはははっ、……ふふっ、たしかに、あははっ……いやも、澪くん、ちょっと天才すぎ……あははははっ」
それはそれは楽しそうに笑っていて、少なくともこういう姿は合うよなぁ、としみじみ思ったりした。