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062 -夏休みデート:桜条撫子の場合(2)-


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 たし、と。

 撫子さんの指先が柔らかに、向日葵の花弁の下端を撫でた。

 身長と伸ばした腕で十分距離は近づいていて、だから跳躍もほんの軽く。


「二メートルって、案外届くものね」



 なんでもないような表情の端にもかすかに、照れと感傷の色が乗る。

 振り返った彼女に一瞬、知らない幼い面影が重なった。話してくれた思い出通りならきっと、当然届かなかったことに呆れて、わざとらしく不満げで、でもそれまでよりも少しだけ、心を開いた調子だったのだろう。

 そして、今は。

「……今の撫子さんなら、太陽も届くんじゃないですか」

「当然でしょう」

 そんな軽口にも堂々と胸を張って。

「完璧なお嬢様、なんて。わたくしがそうでなければ、誰がなれるのよ」

 なんて。

 いつもの彼女らしい笑みさえどこか、夏空で眩しさが増していた。



 課題分で浮いた三日を分け合って、一人一日ずつのデートになったから、もっと近場になると思ってた。

 行き先は秘密で、澪でいいけど伶くんにもなれるようにって注釈付き。でも長距離の移動になるのと、羽織れる長袖があった方がなんて補足もあったから、涼しい場所の想像はしていた。

 身構えた待ち合わせで、けれどいつかと違って、駅前に現れたリムジンは一台だけ。運転はいつもの梅園さん。そこから二時間半の、けど長距離にしては快適な移動を経て辿り着いた、避暑地の高原。

 日帰り旅行には少し遠いから、意外に思っていたのだけど。

 ティーカップを柔らかにソーサーに戻して、撫子さんは柔らかく微笑む。

「ごめんなさいね、わたくしの思い出に付き合わせてしまって」

「いえ、むしろ嬉しいくらいです。お気に入りの場所を教えてもらえたのも、撫子さんのことを知れたことも」

 返した言葉は本心からの。

 向日葵畑。

 その中にぽつりと設けられている、瀟洒な東屋と小規模な庭。

 観賞用に揺れる向日葵に、掃除の行き届いたテーブルと椅子も、そのどれもが話の通り。撫子さんの思い出話にそのまま、迷い込んだような錯覚。

 白いテーブルに向かい合ってかければ、落ちる太陽光を遮る屋根のお陰で、持ってきた長袖がちょうどいいくらいの涼やかさだった。

「あなたと来たいと思ったの」

 ティーカップを傾けてみたら、すこしちぐはぐな麦茶の味が広がる。そこにぽつりと、撫子さんの声。

「でも別に、過去の話をしたかったわけじゃないのよ。ちゃんと他に理由があるの」

「……他に?」

「ええ。わかるかしら?」

「ええと…………」

 以前。

 遊園地のデートで同じように、昔の話をしてくれた時。あの時も、かつての記憶は明るいものでなくて。その時は確か。

「えっと……私と来て、思い出を楽しいものに…………いやでも、悪い記憶じゃないですよね」

 言いかけて、思い直す。梅園さんは楽しげに、でも控えめににこりと微笑んで、その横で撫子さんが遠慮なく吹き出した。

「ふふっ、それもあるかもしれないわね? 仕乃ったら、あの時と今じゃ全然違うんだもの」

「それを言うならお嬢様も、立派に成長なさっていますよ」

「あの時が情けなかったのよ。でも、……あの失礼な親戚のお姉さんと情けない子供の私がいたからこそ、今があるのよね」

 だから、不正解。

 告げられてもう一度考え直す。いや、結構難しい。伶くんとして振る舞うことになってたら、ここはかなり冷や汗を掻いただろう。

「えっと、じゃあ……あ、向日葵に届くか確かめに来たとか?」

「はぁ……あなたとじゃなくても確かめられるし、大体わざわざ実践しなくてもわかるわよ。まぁ、……もう一度来られるなら、挑戦したいとは思ってたけどね」

 まぁそれはそうだ。一人で試せるだろうし、聞いた思い出だってどちらかと言えば個人的なもの。でも結構合ってる気もしたんだけど。

「あなたと一緒に来るからこそ、意味があることよ。澪と伶くん、どちらとも」

 私と一緒だからこそ。

 それも澪と伶くんどちらも?

 この高原の様子とか、揺れる向日葵と私の共通点を考えてみたり、夏ってところを加味してみたり。そして、それが撫子さんにとって意味のあること。

「……ううん」

 言われてしばらく考えてみても結局正解には行き着けなくて、けれど撫子さんは楽しそうに笑っている。

「ま、澪ならそうでしょうね」

「う……すみません」

「別にいいのよ、意地悪な質問してるのはわかってるし。それに……」

 特に合図もなかったけれど。そうして言葉端が柔らかくなるのと同時に、控えていた仕乃さんがさっと近寄って、手際よくティーセットを片付けて。撫子さんは流れるように椅子から立ち上がって三歩で、夏の日差しに包まれる。

 光を纏った彼女はふわり、振り向いて。



「今気付かれても、困るもの」



 微笑みに、どきりと鼓動が鳴った。

「澪」

 手招きひとつ。足を踏み出す。

 小さな庭には、撫子さんが撫でたのも含め、いくつかの向日葵が植わっている。二メートルほどまで育つ品種らしくて、そのどれもが満開に太陽を見つめていた。その様子に多くの人が、各々に憧れを見出して重ねてきたのだろう。

 そんな向日葵が数本、まとめて植えられた場所があった。小さな庭の半ばほど。その輪郭をなんとなくなぞるように、撫子さんはするりと向こうに回り込んで。そのまま声が、向日葵越しにかかる。

「そういえば。訊いておきたかったのだけど、どうしてここまで忙しいの?」

「……あー…………」

 そういえば。

 言ってない。というか言えない、というか、言うのが恥ずかしいというか。

「自主練習、で」

「何もないのに?」

「いえ、……」

 あったのだ。私としては。

 魅せられてしまった。ライバルだと、そう思えた。そんなライブを見てしまった。

「わたくしは……いえ。花糸さんも先輩も、あなたと過ごしたいと思ってるのよ」

「……すみません」

 三人全員に、こんな機会を設けてもらって。あらためて、申し訳なかったと反省している。

「本当に嫌とかじゃないんです……。去年までは、夏休みなんてアイドル活動と学業がほとんどだったので」

「交友関係のために時間を空けるのを忘れてた?」

「う…………」

「ふふっ。別に、怒ってるわけじゃないから」

 そうだろうか。でも確かに撫子さんの声色は軽いもので、そのままの調子でするりと続いた。

「ね、伶くんになってちょうだい」

 向日葵の向こう側から。

 唐突な言葉にも、連絡されてた通りに準備はしてたから、わかりましたと返す。ここの高原は普段は向日葵畑の見学なんかも受け付けているらしいけど、今日は私たちだけの貸し切りらしい。だからウィッグを付けるのにも、服装を軽く整える間も、浮かぶ緊張のほとんどは撫子さんのためのもの。

 そうして多少の間を空けて、すっかり飛鳥井伶になった。

 なんだか、こうしてプライベートで伶くんとして接するのは、結構久しぶりな気がする。もちろん推し活の時は当然ずっと接しているし、夏休み中の配信でも欠かさずコメントをくれてるけど。段々と澪のままを求められることも多くなってたし、距離が空いてしまった時期もあれば、仲直りしてからも私が忙しくしてしまってたし。

 だからなのか。

 伶くんとして望む通りに振る舞えるのか、気にかかる、気がする。

 いやま、たとえ理想ぴったりじゃなくても、今更撫子さんが正体をバラすなんて思ってはいないから、ここで緊張するのも変なのだけど。

 案外に、ファンの期待を裏切りたくないだとか、それだけかもしれない。何にしたって、そんな緊張はそれこそ飛鳥井伶には相応しくない。小さく息を吸ったら、気持ちを切り替える。


「――撫子」


「伶くん」

 呼べば、とすりと一歩で向日葵の影から現れて、呼び返される。

 普段推しと接する時より随分と、落ち着いて映った。

 白を基調とした、夏空が映える服装。彼女の美しい黒髪がよく似合っていて、そよ風がそれを靡かせて、一瞬、目が奪われた。

 そして。伶くんとしても、はっきり感じる。

 ああ、やっぱり。彼女こそ。


「私にとってはね。伶くんは、太陽みたいな存在なのよ」


「……オレが?」

 と。考えたところでの思わぬ言葉に、思わず尋ね返す。

「うん。伶くんは、私にとってのアイドルそのもの」

 逆だ。

 桜条撫子。あなたこそ、アイドルで。だからこそ、オレがここまで忙しくなっていて。

「多分……推しの贔屓目もあると思う。けどそれこそ、非の打ち所がないくらいに思ってる」

「あはは、……それは確かに、贔屓目があるかもね」

「うん。だけどそう思えるくらい、魅せられていて…………それに伶くんは、まだまだ先へ進もうとして、自主練習を入れてるんでしょ?」

「…………そうだね」

 これまでも別に、満足したことはなかったけど。その先へ。

 アイドルへ。

 太陽へ、手を伸ばそうとして。

 今のところ届く気配はないし、やり方も愚直だと思うけど。

 撫子さんはくすりと笑って、頬が少し染まっていた。

「なら伶くんは、これからもどんどん遠くなるのね。こんなに輝いて、遠いのに」

 その向こうで、向日葵が揺れて、空を見ていた。


「だからわたくしは、ここへ来たの」


 だから。

 だから、ここへ来た?

 言われた言葉が、ゆっくり頭で繋がり始める。飛鳥井伶が遠いから。いつかに訪れたこの場所へ。幼い撫子さんは、向日葵へ手を伸ばそうとして。

 それは、つまり――。


「――ね」


 繋がりかけた結論を、浮かべようとした直前に。撫子さんはふと空を見た。咲き誇る向日葵へ、目を向けた。

「澪に戻って」

「…………あっ。は、はい」

「そしたらすこし、目を閉じて」

 一瞬のフリーズの後に、慌てて返事をして、行き着きかけてた余計なことを追い出す。正直、今求められたのが、慌てたりしてても許される澪でよかったなんて思った。

 外す方はそう時間がかからないから、慌てていてもすぐに済む。言われたままに目を閉じてみたら、――しゃああ、と。

 遠くからの蝉の声が、一番に耳に飛び込んだ。

 たくさんの向日葵を揺らす風の音。一層濃厚な向日葵の香りが鼻に伝わって、涼やかな風と夏の日射しが肌を撫でる。さっきの麦茶の爽やかな後味がまだ口内に残っていて。視覚以外のすべてが鮮やかに、世界を届けて。


「こっち」

「っわ」


 腕。

 つかまれた感覚が。一歩、二歩と促されるのは多分、目の前の向日葵の方向。目を閉じた向こうで彼女はそのまま先へ進んで、ほんの少し翳った気がして、向日葵の間に立ち入ったのがわかった。

 腕に触れる熱と、すぐ近くの気配。目を閉じていても伝わる距離。

 すぐそこで、撫子さんの声がする。

「……澪は、どうしたらいいと思う?」

「な、…………何が?」

「言わずに、伝えたいと思ったら」

「…………な、……」

 何を、とはなぜか聞けない。言おうとした声が、とくとくと打つ鼓動に邪魔されて発せない。体温が太陽関係なく上がって、思考がぐるぐると遅くなる。

「え、……っと」

「澪なら、どうする?」

 からからの口を動かして。私なら。撫子さんの声音だって、落ち着いているようでどこか上擦っていて。彼女の緊張も伝わる、ほんの至近の。

「いわずに、伝えるなら……え、……っと」

 ごくりと唾を飲む。浅い答えになるけど、それしか浮かばなかった。



「行動に移す、とか――っ」



 とくり。


 鼓動が跳ねて。感覚が。

 頬に一瞬、何かが触れた、気がした。そこに意識が集まって、咄嗟に目を開ける。熱い。熱が頬に残ってる気がした。すぐそこに向日葵の葉っぱが揺れていて、ちょっと身を引いた撫子さんが、くすりとおかしそうに笑っていた。



「ふふっ。……そうよね。行動に移すしか、ないわよね」

「…………」


 今。

 何をしたかなんて尋ねられない。どくどくと心臓がうるさくて。そう。多分向日葵が揺れて、葉っぱが頬に当たっただけ。それを意識しすぎてた私が、ちょっと勘違いしてしまっただけ。

 だけだけど。

 けど。もし勘違いじゃないのなら。

 思い違いじゃないのなら。



 さっきの感覚は、もしかしたら、撫子さんなんじゃないかって。



「ほら。日差しに居続けるのは良くないでしょう、テーブルに戻るわよ」

「っ、……あ、…………い」


 返事も上擦ってうまくできない。

 頬が染まった私を追いて、撫子さんは東屋へと体を振り向ける。

 刹那に見えたその頬は、やっぱり染まっていたように見えたけど。

 すこし空を見上げて、何かを握り込むように手を伸ばした彼女の背に、それ以上何も聞けないまま、ただ頬の感触だけが、ずっと脳裏に焼き付いていた。



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