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061 -夏休みデート:桜条撫子の場合(1)-


 *



「着いたわよ」

 と。

 いつもなら仕乃が知らせてくれるそれは、したり顔で呑み込んでいるようだったから、私から隣に告げてあげる。澪はと言えば、窓の外に目を奪われていて、はい、とぼんやり返事をした。

 しん、と夏が鳴るような気配。

 隔絶されたリムジンの車中。強化ガラスの向こうではきっと、高原を吹き抜ける風の大きくも開放的な音が、それに混じって遠く響いてくる蝉の声とが、夏の青空に溶け去っているだろう。スモークがかった窓越しでは、そんな夏の息遣いも、湿気て膨らんだ大気さえも感じられなくて、ただじんわりとした太陽光の熱だけが伝う。それでも、そのスモーク越しにさえ凜と澄んでいるそんな景色に、感じるのだ。

 夏の気配を。

 澪もきっと同じだろう。三〇分程前から移ろった見渡すような高原の景色へ、ぼけっと奪われたままの視線に、思わずくすりと笑みが零れる。おかしさと呆れと、ほんの少しの嫉妬混じり。

「もう。澪ってば、車に乗ったままがいいの?」

「あっ、いえ……あっ、そ、そうですね。降りましょうか」

 慌てて身を動かした澪と、立ち上がる私。待ってくれていた仕乃がするりと扉を開いて、途端ぶわっと夏の大気が、開いた扉の隙間から侵入してきて。

 予想していたよりも涼やかな風は、その意外さまで含めて記憶そのまま。避暑地ってすごいですね、なんて澪の飾らない呟きに、思わずくすくすと笑みが溢れた。



 候補なら、幾らでもあったんだけど。

 澪と過ごしたい夏。或いは、伶くんと味わいたい夏。書き出していた一つ一つ、叶うなら全部を取りたい夏だった。

 もちろんすべてが候補に挙がったわけでもなくて、例えば海、は合宿で訪れる予定だし、旅行に行くにも時間がない。お祭りは本命が夏休みの後半に控えてて、でもそういう選択肢を除外した上で、書きためていた候補はたとえ夏中澪を独占しても、まだ回りきれないほどに。

 中には一日かからないものも、たとえばラムネを飲むなんて、ほんの些細なこともある。だから別に、組み合わせていくつも叶えることも、できたはできたのだけど。

 候補を並べて、吟味して。

 選び取ったのは、思い出の場所。



「うわ、……すごい」

 リムジンから降りて、小道をしばらく。

 行き着いた小高い丘の上、見下ろした澪はそんな感嘆を漏らす。

 私は。ふと胸に迫った懐かしさと、今は純粋に見られた景色とで、うん、と答えようとした声も一瞬音にならなかった。


 そよぐ風。

 見下ろす高原、一面に黄色。

 夏空によく映えるその色は、純粋な黄色よりもわずかに橙がかって、力強くて眩くて。

 見渡す限りに揺れているのは、満開の向日葵。


 小道を過ぎて、丘から見下ろしたその一瞬は、あの頃よりもすこし小さく映った気もした。けれどあらためて見つめた向日葵たちは、ここから見下ろしていてもなお、その大きさがよくわかる。子供の身長で隣り合えばすっかり見上げる形になった。成長した今でもきっと、目線と並ぶか越えてしまえる大輪たちが、この場所からなら絨毯みたいに一望できた。

「ここが、撫子さんの、お気に入りの場所」

「そうよ。……十年以上、来てなかったけれど」

 答えながら細めた視線の先、揺れる向日葵たちの間を、あの頃の私が駆けていく。まだ初等部にも上がっていない幼い記憶。それでも鮮明に焼き付いたそれは、小さく目を瞑ったらふと、そよ風でページがめくられるようにぱらりぱらりと蘇りはじめて。




『――おじょーさま』

 向日葵の中の畑道。背高のっぽな向日葵が左右で壁を作っていて、真っ青な空が天井で。ただまっすぐな道なのに、進めば迷子になりそうな。だから好奇心で立ち入って、入り口からすこしで立ち止まっていた。そうしたら、かかった声。

 振り返ったら、お姉ちゃん。

 すこし遠い親戚らしい、しのお姉ちゃんというらしい彼女は、もう小学校高学年らしい。悪戯っぽい表情で道の端、左の向日葵からひょこりと顔を覗かせて、こちらに手招きをしている。

『迷子になるよ。コテージ、あっちの方だって』

『わたくしがいっても、しかたないもの』

 すぽんと言葉がそのまま出てきた。たぶんずっと思っていたから。そしてお姉ちゃんが何か言う前に振り返って進み始める。さっきまで恐かった道も、すぐ後ろにいる年上の親戚の存在が、必要以上の勇気をくれていた。

『なこちゃん』

 お姉ちゃんはぽんと軽い調子で呼びかける。誰も私のことをそんな風に呼ぶ人はいない。お兄ちゃんは撫子って固く呼ぶし、お父さまはそれにぶっきらぼうを足した感じで、お母さまはどこかいつも遠い感じ。

 お姉ちゃんはその次の言葉は何も言わなくて、たださくさくと草を踏む音が後ろで続いていた。

 年上の親戚がいてくれる安心感は畑道を進んでいくほど減っていった。百秒くらい歩いたところで空になった。

『なんでくるのよ』

 連れ帰らないの。そうは言わない。

『なこちゃんが歩くから』

『怒られるよ』

『怒られる?』

 わかる癖に。怒られる。怒られるのかな。ううん、違うか。

『わたくしは怒られません』

『怒られない』

『そうよ。お姉ちゃんだけ』

 怒られない。心配されない。いつもそうだから。お父さまは『まったく』ってため息をついて、『ちゃんとしなさい』って言うだろう。でもそれだけ。お兄様の時にはもっと厳しい顔をして、一時間くらい怒るのに。

 お兄様がちゃんとしていたら満足そうで、うまくできたら褒めるのに。私が何かを頑張ってみても、良い子にしてても『いいんじゃないか』って言うだけ。ちらって見るだけ。

 どうでもいいんだ、わたくしは。

『なこちゃんは、怒られたい?』

 ぱし、と歩くのをやめる。足が止まった。

 くるっと振り返って、お姉ちゃんにべーっと舌を出した。そのまま振り返って駆け出す。なんだかむっとしてた。返事はしたくなかった。

 角が来たら曲がる。向日葵の中を走る。お姉ちゃんの足音はずっとついてきてて、でも何も言わない。変。でも私も止まらずに、ずっと走り続けていた。

 そうしたら、建物があった。

『……!』

 公園の休憩する場所みたいに、屋根はあるけど壁はない。白くて綺麗な建物で、走るのはちょっと疲れたのと、興味を惹かれたから近づいていった。置かれたテーブルと椅子もお母様が好きそうな綺麗なもので、お掃除もちゃんとされているみたいだった。

 向日葵畑の中なのに、建物のすぐ前には小さなお庭があって、そこに大きな向日葵がいくつか咲いていた。

 さっきまでは、ただ道の壁だった向日葵が。丘からは、ずっと小さく見えた向日葵が。見上げるとずっと先に花が咲いていて、その遥か向こうで空が青く、青く、広がっている。

『好き?』

『……なにが』

『向日葵』

  お姉ちゃんはここまで着いてきていた。いつの間にか椅子に座って、のんびりこっちを見てる。逃げちゃおうか。思ったけど、思っただけにしてあげた。

『嫌い』

『どうして?』

『届かないから』

 なんか。聞かれたから、天邪鬼に嫌いと言っただけのつもりだったのに、理由はすぽんと言葉になった。

『わたくしがジャンプしても意味ないから。嫌い』

 言いながら見上げる。何の罪もない向日葵は、夏を満喫して楽しそう。

『ふぅん』

 聞いたのに。お姉ちゃんは興味なさそうにそう言って、水筒を取り出した。安っぽい、絵も描かれてない水筒。ぽちゃぽちゃ注がれたのはただのお茶。

『ほら、麦茶』

 喉は渇いてたから大人しく飲んであげた。暑くて走って汗を掻いてたから、それなりにおいしかった。

『私はね、多分怒られないよ』

『……』

『これでも成績いいんだ。中学受験も心配ないし、それに品行方正だし、先生の評価も最高でさ。仕乃の好きなことをしていいって言われてる』

『…………』

 ふぅん、て思ったけど言うのも嫌だから言わない。

『だからさ。お嬢様になろうよ。なこちゃんも』

『はぁ?』

 意味がわからない。聞き返すと、お姉ちゃんはくすりと笑った。

『なこちゃん、向日葵に似てる』

『……わかんない。何言ってるの』

 さっきまで自慢だったのに。話がぽんぽん飛び飛びで、よくわからない。お姉ちゃんはほら、と指を差す。その先の向日葵は、空へとおっきく咲いている。

『向日葵ってさ、花がみんな太陽を見るの。太陽が昇って日が沈む、それを追いかけるみたいに動くんだよ』

 言われて、そんなはずないと思って見渡してみたら、確かにどの向日葵も空を、そこで一番に目立ってる太陽を見ていた。

『ジャンプもできないし、そこまで大きく咲けないけど、太陽の方はずっと見てる。だから花言葉に、憧れとかもあったりするの』

『……』

『届かないって思いながら、空を見上げてる』

 何が。何も似てない。

 別に私はずっと見てない。憧れとかじゃない。違う。

『だからさ、太陽になろ?』

『……なに?』

 心がざわってして、言葉にできない違うでいっぱいになっていた、ところにぽんとまた、予想外の言葉。太陽に。

『お嬢様になるってこと。皆がすごいって思うような完璧なお嬢様になって、好きなことをしても怒られなくて。期待してくれない皆も、こっちを見てくれない皆も見返すの。だからさ、ジャンプしてみなよ。案外、空もすぐかもよ』

 小学校高学年のお姉ちゃんは、私より大きい。でもそのお姉ちゃんよりもずっと大きい向日葵と、届くわけない太陽。

 バカみたいだと思ったから、ジャンプしてみた。

 その高い高い向日葵に、その先の青空に向かって手を伸ばして――。


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