+
高校二年、夏休み。
友人が片手で足りるくらいの学生生活で、それでも漏れ聞こえてくる同級生の過ごし方は、受験対策にアルバイト、遊びに部活に恋愛その他。忙しい日々の隙間にできた自由時間を、無為に過ごして嘆いたり、青春を夏にこそ謳歌したり。
そして私、素山澪は。
「――飛鳥井」
ぽたぽたと。
一時間ほど動かし続けた筋肉は心地いい温度にあたたまって、表面を流れていくその汗を、清潔なタオルで拭ったところでかかる声。落ち着いた大人なその声色は、もちろん聞き覚えのあるもので。
振り向けばそこには、声から想像する三倍は理知的な、ともすれば冷たくも受け取られそうな女性が一人。
「――社長! いらっしゃってたんですね」
「ちょうど、スケジュールの空きと君のソロレッスンが重なっていたからね」
淡々とそう答えながらも、慌てて動こうとした私をす、と片手で制す。そのまま自身で近くのパイプ椅子を取り上げてしまうと、少し固めのそれをあっさりと開いて、社長椅子さながらに優雅に足を組んでみせた。
「さて。……久しぶりに、君の成長ぶりを見せてもらおうかな」
本来彼女の忙しさであれば、空き時間は休憩にでも使った方がいいのだろうけど。
穏やかな笑みに、けれど見定めるようなその表情。向けられると自然と背筋が伸びて、はいと頷く素振りすら、審査されているような緊張感。
彼女こそ、Audit10nEEを抱える芸能事務所の社長であり、素山澪が飛鳥井伶として活動することになった直接の原因。言い換えれば、きっかけをくれた人物で。男装関連で事務所から行われるサポートも、ほとんどは彼女が直接指示を下しているものばかり。
お世話になった回数は数え切れないし、アイドル活動に家計を助けられている身としては、心から信頼も感謝もしている。けれどアイドルとして、飛鳥井伶として接する時は、それら以上に緊張が先立って。
『私が最も重視するのは結果だからね。君が確かな成果を上げてくれるなら、男装なんてものは些細なことだ』
いつかに言われたその言葉は、裏を返せば結果が全てということ。彼女のその結果主義がただ口だけではないということも、事務所の全員が理解している。研修生として参加してた子が見込みがないからとあっさり退所になることも珍しくないし、ここ三年で事務所所属のグループ二つが解散になった。
幸いメンバー間での軋轢に繋がってはいないけど、Audit10nEEでの扱いも、実力や人気でしっかり変化するし。名前通りにオーディション、審査してもらうというのがコンセプトのグループだから、そんな方針もある程度はファンの人たちに許容されているけど。
「…………――!」
つまり。
アイドルとして見込みがないと判断されれば、グループ自体が人気を伸ばしている今でさえ、進退はわからないということで。
ぱちぱち、――と拍手の音が聞こえてきてようやく、荒げた息の合間に安堵を吐き出す。
もちろん。普段のレッスンでも、ソロだろうが複数だろうが新曲だろうが定番だろうが、一切手は抜かず取り組んでいるつもりだけど。それでも終わった後の疲労感と息の上がり方は、普段の倍はある気がした。
「流石、Audit10nEE一番の努力家だ」
「あり……っとう、ござい、ます」
「ダンスの安定感はそのまま、スタミナもかなり付いてきたね。歌唱も、前回のライブでも感じたが表現力が一つ上がっている。ただ体格の分どうしても、全体的に縮こまりやすいようだ」
するすると。ただ漫然と眺めただけでは決して出てこない評価。
「っはい、……確かに」
「激しく、かつ華やかに魅せたい曲でセンターを任せるには、まだその点の改善が必要だね」
と。
その後も次々と、冷静な視点での助言をもらって。
この審美眼が心底信頼できるからこそ、この経営方針でも人が付いてくるのだろうし、ここまで緊張が浮かぶのだし。だからこそ私たちAudit10nEEがここまで、アイドルとして人気を伸ばしてこられたのだと思う。
「とまあ、見学して浮かんだのはそんなところかな。……統括すると、よかったよ」
「! ありがとうございます……!」
そして、だからこそ。信頼と感謝と緊張で、下げる頭の勢いも心からのものになる。
「ところで」
と。
そうして下げた頭を戻したところで、ふと一つ、社長の表情が緩められる。
「飛鳥井はすこしばかり、スケジュールを詰めすぎてはいないかな?」
「…………」
…………う。
「今は夏休みのはずだろう。まとめての休みも入っていたけど、それは恐らく君自身に予定があってのことだね?」
「そう、です……」
飛行する体育館を無事に着陸させる、とかいう振り返っても意味不明な騒動の終わり際、謎の流れで決まった生徒会とゲストでの合宿。夏休みに三日も予定を空けてあるのはそこくらいで、あとは課題と勉強と、八割以上はアイドル活動。
それが私、素山澪の、夏休みの過ごし方。
いやしかたない。学業と並行している以上、普段優先するのはファンとの交流やグループでの活動になるわけで。基礎的な練習や個人的な課題解決に重点的に取り組めるチャンスは、こういう長期休暇にこそ訪れるのだ。
と。メンバーには伝えているけれど。
「まあ、君の自己管理には信頼を置いているし、今更休暇の重要性を説くつもりもない。熱心なのはいいことだし、結果に繋がるなら何よりだ。ただ……努力家の飛鳥井にしても、随分気合いが入っていると思ってね」
「……」
「何か、理由があるのかな?」
本当、流石だ。
顔を合わせるのさえ七夕ライブ振りなのに。どこまでも底が読めない人だと思うし、敵わない人だと思わせる。だから私も、特に隠すこともなく、素直に伝える。
「……――ライバルが。できたんです」
「ほう?」
そう。
「この間、とあるライブを見て。そこで、……この人こそ私のアイドルで、ライバルだって思いました」
「っはは! そうか、それはいい」
ここまで予定を詰めているのは、あの時のライブが原因で。
今も眼裏に焼き付いている、撫子さんの姿。
まだ私自身が掴めていない、目指したいアイドルの姿。
「あの姿に迫りたくて、……具体的に方策とかがあるわけじゃないですが、とりあえずパフォーマンスを上げるのが、今できることかと」
「さて……近道かはわからないが、まあ、飛鳥井らしい解決策だ」
からからと、豪快に笑みを浮かべた社長はこくりと頷くと、そのまま椅子から立ち上がる。
「その上で言っておくよ。わかっているとは思うが、レッスンだけがアイドルとしての力を付ける方法じゃない。君自身の人生経験がどうこうなんて説教臭いことはもちろん、実用上でも配信やトークのネタになるものだしね」
かしゃりと畳んで、壁に立てかけて。彼女はそこでちらりと、視線だけを振り向ける。
「アイドルにとって重要なのは、何よりも結果だ。目指すアイドル像に固執して本質を見失ったり……あるいは、自身が結果を出せていることを、忘れないように気を付けなさい」
「……はい」
こくりと、頷いて返しながらも。
もちろん、社長の言葉はありがたいし、その正しさも頭で理解できているつもりなのだけど。
「ふふ。……次のライブ、楽しみにしているよ」
「すみません、……ありがとうございます」
見透かした目で、それでも笑って頷く社長に頭を下げて。
やっぱり、思ってしまう。
手を伸ばしてしまう。
あんなアイドルに、なりたいと。
「――…………」
鏡越しにも、撮った動画を見返してでも、あの時見た光には、全然届いていなかった。