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懐かしい心地がした。
「…………」
ざわめく会場、行き交うファンたち。時々混ざるスタッフの人たち。小さく流れるインストの音源。
あの時とは会場の規模感も、持ってる知識も装備も違う。
それでも不思議と、同じような昂揚感と、緊張感が浮かんでいる。
重なっているそれは、初めてライブハウスに飛び込んで、伶くんを知ったその次に、訪れたライブの思い出で。
あの日。一目見て心を撃ち抜かれたその気持ちが、本当なのか確かめに行った。もう動画サイトでMVを見たり、まだぎこちなかった配信を見てたりできっと、すでに推してるという予感はあったけど。一目惚れしたあの時の印象があまりに強かったから、二度目で越えられる自信がなかった。
見当違いで落ち込んでしまう、もしもが怖かった。
その小さな小さな不安感と似た感覚は、今日も心に渦巻いている。予感めいたこの感覚が、間違っていたらどうしよう、と。でもそれとはもう一つ、正反対の感覚も。
もしも本当に推しになってたら、今後私はどうなるんだろうという、ふわふわとした疑問。それまでの人生でアイドルを推したことはなかったし、桜条家の撫子として、お父様にはあまり認められないながら、だからこそ奮起してた頃でもあった。
今も同じような疑問が浮かんでいる。もしも伶くんだけじゃなくてあの子にも、私が恋をしているなら。その先のそれならは考えるのを保留している、そんな漠然とした思考。
あの子からかけてくれた電話。
ずっととくとく鳴ってた鼓動。
澪、とまた名前で呼んだこと。
何もかも違うけど、間違いなく同一人物の、素山澪と飛鳥井伶。
ああもう、おかしい。
通話向こうの彼女を想像するだけで、頬が緩んでしまいそうで。そのくせ胸の辺りはきゅ、となって、ふう、と小さくため息を吐いて、心拍数をすこし調整。
ほとんど答えは出ているみたいなものじゃない。そう考えたくなる思考は一旦落ち着け、結論を急ぐ鼓動を抑えて。だって、ライブは今からなのだ。
今日も「なこ」としての変装はせずに、着けているのはサングラスとマスクくらい。そのマスク越しに綻んだ表情がばれてしまわないよう、位置をすこしだけ調整して、すんと澄まして会場を歩く。
ライブ会場前にできている人混みは、張り出された座席ブロックの確認のため。チケットに書かれたアルファベットに従って、専用の入場口前で、同じように貼り紙を見上げる。
「……」
ええ、そうね。
座席番号からある程度、察してはいたけど。座席の位置を確かめて、思わずぎゅっと目を閉じる。いやもう。普段ならテンションの上がるあまり小さくガッツポーズをするくらいだけど、その昂揚の分だけ緊張も増して、代わりにまたも深々と、でも人混みの近くだから潜めながら、息を吐いた。
並ぶ座席を、数十列ほども越えた先。
最前列の、ひとつ後ろ。すでに座席にかけている人も多く、焦りすぎず、断りながら着席したのは、ほとんど中央の席で。
前回のライブ以上に、当たりも当たり。ステージの端も、会場規模に比べて随分と近く感じて。
きっと、目だって合う距離で。
浮かべた瞬間、連想で、ステージの上の伶くんを。
想像した途端の頬の熱さが。
鼓動の高鳴りが。
「……」
やっぱり、通話向こうの澪を思い浮かべた時と同じ色をしていて。
「はぁ、……」
きっとさっきの電話のお陰でもあるし、私が単純ということかもしれない。それでも、ここ二週間くらいの深刻な感情は、逸る心臓に掻き消されてしまった。通話前の感傷的な行動を思い出して、羞恥で赤みが増したくらい。
だから、開演までの飛ぶように過ぎた待ち時間も。一曲目が始まってからも、もうほとんどいつも通りの一般オディショニファンとして、全力で楽しめた。
そういうところまで、二回目の現場と同じ感覚。あの時の席はかなり後方だったけど、その分ファンの皆の期待も昂揚も肌で感じて、同じ伶くん推しのグッズを身につけたファンが目に入って。そうしたら緊張や不安は一気に抜けてって、同じファンの一人として会場に溶け込んだ気がして。
色々考えて思い悩んで、落ち込んだり、立ち止まっても。
結局、この瞬間にはかなわない。
「…………!」
間違いなく、わかりきっていたこと、ひとつ。
伶くんは今も私の推しだし、ライブが始まった瞬間から、ずっと心を奪われていて、今でも恋はそのままで。
そして。
なんとなく、予感していたこと、ひとつ。
今日のライブの熱はすごくて、セトリも演出も最高。周囲の興奮も間違いなくて、MCに対する反応も、上がる歓声も、ひそやかな囁きもどれもが、お互いに感情を刺激し合って、高めていく。
そして、そんな興奮は。MCパートから連続で二曲続けられた、ライブでもツートップの人気曲の後、本日主役の七緒くんが告げた一言で、最高潮に達して。
『それじゃあここで、新曲です! ぜんっ――りょくで楽しんで!!』
流れるイントロは、ロックテイストながら、どこか繊細で切な目に感じた。開幕に歌うのは七緒くんで、歌詞の内容ですぐに、七夕にちなんだ楽曲だとわかった。多分これMVも今日中に上がるやつ。やばい。七緒くん以外のメインメンバーはどうやら魚守兄弟らしく、それでもやっぱり、瞳は伶くんに吸い込まれて。
曲調が激しい分、ダンスの味付けもドラマチックで。自身もライブに向けて練習をしてるタイミングだから、一層推しの凄さを感じる。ライトが当たっていない瞬間も、ぴたっと止まる時は綺麗に静止して、なのに動き出したら滑らかで、歌う時の切なげな表情は、私の録画を見返す時の悲痛で苦しい感覚と違って、どこか甘い感情も呼び起こすもの。
そうして。新曲に高まったテンションで、全力で浸っていたら。
ずっと抱いていたその予感が、確信に変わった。
それは、新曲、二番目のサビが終わったあと。
一人一人が、ソロを歌っていって。これ全員来るんじゃと察した数秒後に、推しの番が。
そして。
伶くんが、口を開いた瞬間に、目が合った。
一瞬。時が止まったような感覚と、好きという気持ちが溢れる胸中。
どうして。
『――君がくれた 初めての 名前を探してる』
あの子が。
とくりと、鼓動が打った。
最高の音響ではっきり聞き取れる、その歌詞を紡いだ伶くんが。
それは確かに伶くんなのに、一瞬、澪が重なった。
彼女が確かに、私を見て。
それで、わかった。
ずっと予感していたこと。
間違いじゃないかもしれないと、認めかけていたこと。
彼女に抱いていた、感情の名前。
花糸さんに問いかけられた時には、出せなかった答え。
ううん。自ら否定したこと。何となく感じてたのに、そんなはずないと遠ざけたこと。
いつからそうだったのか、もうわからないけど。
「――お嬢様、随分ご機嫌ですね」
「あら? ふふ。最高のステージの後だもの、当然ではなくて?」
窓を叩く雨音はなく、降り続けた雨が空を晴らした帰り道。
「ええ。今日は特別、幸せそうで……やはり、やけてしまいます」
「あなた、いつもそれでしょう」
軽口にもくすりと笑みを漏らしながら、スマホをつついて動画を再生。車内に流れる音楽は、さっき歌ってたばかりの新曲。
このMVでは、収録時期によるものか、伶くんはいつものスタイルで、ソロパートは技術がメインの完璧なもの。それも惚れ惚れするパフォーマンス、だからこそ、早くライブ音源もほしいとか思ったり。
「……」
本当は少しだけ、夜に天の川見るの付き合いなさいとか、送ろうかとも思ったけれど。
車窓越し。スモークの入ったウィンドウでは、星なんて見るのは叶わない。それでも見上げて、きっと天の川のかかる方を見る。
ライブ後はきっと疲れてるだろうし、打ち上げだってあるでしょう。それに私もライブを控えてて、……今日のライブでしたいことも増えて。
気持ちに向き合ったからこそ、時はきちんと選びたい。
『伝えたいことがあるから、私の1stライブの後、片付ける前に時間をちょうだい』