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『――っもしもし』
「あ、……えっと、……」
繋がった。
予想より早く聞こえた声に、頭の中は真っ白で。
それでも。外で降ってた雨よりも、温かく思える声がしたから。
「……ライブ前に、すみません……ちょっと、お話したくて」
断られたらどうしようとか、浮かんでしまう前に言う。
仲良くなりたいのなら。先へ進みたいのなら。
仲を取り戻したいのなら。
『うん、……ええ。……大丈夫』
聞こえた返事にほっとして、朝から浮かんでいたそのそわそわが、緩まる、と思ったらむしろ高まる。もしかしたらこのまま、友だちにまで戻れるのかもしれない。もしかしたらこれから、もう戻れない現実をはっきり突き付けられるかもしれない。
「えっ、と…………」
そわそわはそのまま緊張に形を変えて、舌がかちりと固まる。伝えたいこととか、色々思ってたはずなのに。どれもが喉に引っかかって、言葉にしようとするとぎこちなく。
「…………朝から、雨ですね」
だから。切り出せたのは本当にどうしようもない、そんな当たり障りのない言葉。でも。そんな間抜けな言葉にくすり、おかしそうに零された笑みが通話越しに返る。それでほんの少し、舌がほぐれて、伝えたい言葉に一歩近づく。
本当に。
この日は、朝から雨だった。
屋内開催のライブはもちろん続行で。海老名なんかはSNSで、七夕の雨を素直に残念がって、空晴れるくらいのライブやるから楽しんで、なんて七緒全開な底抜けの投稿をしてたけど。会場に集う、傘やレインコート、持ち上げた鞄や手で雨を避けるファンの皆とか、会場外にまで伸びる物販列が、なるべく雨除けのある場所に収まろうと普段より狭く整列したりとか。
そんなライブ前の光景を、目立たないように眺めたり。
降りしきる雨とか、七夕なのに星が見えないとか。そういう色々は正直そこまで頭になくて、ただ朝からずっと、そわそわしていた。起きて目が覚めた時から。何なら昨日の寝る前からも。
当然プロとしてライブには集中するつもりで、だからこのままそわそわしてしまうならいっそ、彼女を目に留めよう。来ていることを確かめて、覚悟を決めようとこっそり眺めてみたのに。物販が始まって一時間以上が経過しても、彼女の姿は見つけられなくて。
だから。
与えられた、私一人用の控え室に戻って。会場の隅の隅、誰も訪れないような場所で、通話アプリを立ち上げて、それでも十分くらいは悩んだ末に、ようやく通話を繋げられた。
『……今日は、これから出発なの』
「あ、…………そうだったんですね」
無難にもほどがある天気の話題は、それでも七夕の今日は広がる話もあって。弾んだ話が一度落ち着いて、ちょっとの沈黙が挟まったあと。
彼女のその静かな呟き。普段の彼女……『なこ』さんだったら、とっくに会場にいるはずの時間だから、きっといくらでも広げられる話題だろうけど。相槌は打って、でもその先は、促せない。
多分いつも通りなら、このまま黙っているうちに、やがて桜条さんがぽつりと続きを呟いて、それで勝手に傷付いたりして。
――だけど。
「あの、」
『……』
桜条さんが、口を開いて続きを言いかけた気配を、通話越しにも感じながら。
緩んだはずの緊張が復活して、とくとくと鼓動を速めながら。
「その。ちゃんと、伝えておきたいことがあって」
切り出す。
昨日から考えていたこと。
ライブの日に。ううん。ライブの日だから、伝えたいこと。
「勝負の結果で決まったこと、ではありますけど。私は、桜条さんのライブ、楽しみにしてます」
『…………』
「絶対見に行きますし、……私が桜条さんのファンっていうのは、会議で決まった設定じゃなくて、ちゃんと事実です」
今も、練習は直接見られてないけど、それ以外の準備はAudit10nEEのライブと並行して進めているし。
一瞬の逡巡を挟む。けど。持ったスマホを小さく握り直して、息を吸った。
「多分、学園で一番、私が楽しみにしています。……だから」
仲を取り戻したいのなら。
仲良くなりたいのなら。先へ進みたいのなら。
「だから。私も私のライブで、桜条さんを全力で、魅了するので。誰より一番、ファンにしてみせるので。……今日のライブ、楽しみにしててください」
『………………なんだか、……伶くんみたい』
ちょっとだけ格好付けてみたけど、しっかり澪のままの言葉に。たっぷりの間を空けて、ぽつりと呟かれた桜条さんの言葉の意図も、どことなくわかった気がして。それでちょっとくすぐったくなる。通話越しでも、桜条さんの頬が緩んでいるのもわかる。
『全く、……そんなに言ってくれるなら、二時間は前に家を出てたのに』
「ふふっ、……でもそうしてたら、物販列に並んでて、通話来ても取れなかったんじゃないですか?」
私もきっと、桜条さんの姿を見たら満足して、わざわざ連絡なんて入れなかっただろうし。
『ねえ、澪』
と。
不意の名前呼びに、どきりと鼓動が打った。
通話越しの桜条さんの、……撫子さんの声は、柔らかくて、密やかで。
彼女の鼓動もとくとくと、鳴っている音さえ聞こえるような、錯覚。
『あなたと伶くんは、何が違うの?』
「………………何もかも」
その静かな問いかけを、呑み込んで。
「何もかも違いますよ。ただ、――私は伶くんで、…………伶くんは私です」
最悪かもしれませんが。
そう付け加えたら、彼女はどうしてか、とても嬉しそうに、軽やかに微笑んで。
『最高じゃない。だって、いくらでも脅し放題でしょう?』
そう悪戯っぽく返った声に、いよいよ緊張がほぐれて、きっとライブは大丈夫だって、そう確信できた。
その日のステージは、七夕に因んで、七を背負ってる海老名七緒を主役とする舞台。もう毎年恒例になってるこのライブも、今年は一層演出も凝っていて、会場の昂揚感も、普段以上で。
新曲は、そんなボルテージが最高潮にまで達したタイミングで、完璧な形で披露された。
そして。
そんな熱狂する会場の中。きっと彼女が、最前に近い席を取れていたからか。
目が合った。
自然と、吸い込まれるように。
『君がくれた 初めての 名前を探してる』
そのソロパートの歌声は、自分でも驚くくらい伸びやかで。たった数秒のフレーズなのに、これまでにないほど、感情を込められた。
その感情は、素山澪としてのもので。
飛鳥井伶としてのものでもあった。
ゲネプロでは中途半端に不協和音を奏でていたその感情は、心地よい調和に変わっていて。
最高だと彼女が言ってくれるなら、そのどちらもがあってもいいのかもしれない。
仲良くなりたいのなら。
仲を取り戻したいのなら。
あるいは。先へ進みたいのなら。
一歩を踏み出してみるのだって、悪くないのかもしれないと、そう思った。