■
「……」
軽快な音楽に、澪ちゃんの声が乗る。
リズムに合わせて目まぐるしく変わるMVの中でも、十人もいるグループなのに、目が行くのは澪ちゃんばかり。
再生が停止して、並ぶ関連動画の三番目には、七夕ライブの告知配信のサムネイル。
Audit10nEE。
澪ちゃんの所属してるそのグループは、人気を着実に伸ばしているらしく。だから七夕に合わせた日曜日のライブともなれば、当日券はないみたい。
抽選と一般販売でチケットは完売。でも、たとえ取れたとしても、私は行かなかったと思う。
「…………」
動画アプリを落として、代わりに表示した一枚の写真には、アイドルじゃない、素の澪ちゃんの笑顔。
ライブ前だと教えてもらったから、遊びの予定もまだ大きなものは取れてないけど。ある日の帰り、立ち寄れたゲームセンターで、一緒に撮ったプリクラ。
お友だち同士向けのフレームと、恋人同士に向けたそれ。色々あるんだね、とそれぞれのトーンの違いには触れずに、これとか可愛いねって、ハートがメインのものを選んでみた。
少しずつ。着実に、私なりに近付いている。
私が好きなのは、素山澪で。私は本気で、澪ちゃんとそういう関係になりたい。ううん、なる。
なってみせる。
だから。
指先でハートの形をなぞったら、それからアプリも切り替えて、最近まとめていた気になるレシピをいくつか眺める。今日は予定のない日曜日だから、月曜日に澪ちゃんに、ライブお疲れさまって言葉と一緒に渡すお菓子を、作ってみよう。
アイドル、飛鳥井伶のライブに行ったり、ファン活動をしたりするのは、私がちゃんと、『彼』のことを好きになってからでいい。
「……うん」
ベッドから起き上がって、お出かけの準備。窓の外の空はご機嫌斜めで、七夕と雨との関係をぼんやりと思い出せるような、出せないような、中途半端。
きっと、街中には笹の一つくらい、どこかのコーナーにあるだろう。もしも短冊が飾れたなら、今日は素直に綴ってみよう。
「……この恋が、叶いますように」
ぽつりと呟いてみた途端、鼻先に冷えた雨粒が当たって。折り畳み傘を鞄から取り出して、ばっと開いて歩き出した。
*
七夕に雨が降ると、カササギが橋を架けるとか。
会えた嬉しさで涙を流しているのだとか。
そんなロマンチックで甘っちょろい諸説のいくつかが、ガラスに当たる雨粒に混じってぽつぽつ、気紛れに浮かんでは流れていく。あるいは単純に、逢えない悲しさで泣いているとか。
きっとそんな説が話題に出されたとして、七夕を楽しむ人の大半は、織姫と彦星の年に一度の逢瀬より、夜に天の川が見えるかどうかや、書いた短冊の方を気にするだろう。
「お嬢様。準備はできておりますよ」
「ええ、……ありがとう。わかっているわ」
わかってる。きっとわかってるだろうことを承知の上で、かけてくれてる言葉なことも。私自身も準備は十分。荷物の再確認をするわけでも、ライブの予習をするでもないのなら、もう出発した方がいいことも。
きっといつものライブであれば、一時間半は前に家を出て、建物外まで続いてるだろう物販列に、レインコートを羽織って並んでる。今日はもう出だしが遅れてるから、物販は事後通販だとか、終演後に買うことになるだろう。
なんとなく。窓枠に手を置いてみる。窓に落ちる雨粒の影が、ぽつり、ぽつりと手に重なる。
ライブには行きたい。伶くんを想う気持ちは何も変わらない。それは間違いないはずなのに、気が滅入るような雨空につられているのか、そろそろ出発しましょうかの一言をなんとなく、言い出せないまま、お昼時。
『気持ち悪いですわね。そう露骨に落ち込まれては、張り合いがいもありませんわ』
ぽつ、と落ちた雨粒と一緒に浮かんだのは、一昨日、遠慮も容赦もなくかけられた、朝日奈さんからの不機嫌な声。それはきっと彼女なりの、慰めや心配を含んだ言葉だったのだろう。取り繕っているつもりではあったし、実際一緒にお昼を食べている彼女たちには、何も気付かれていないはずだけど。
ライブ練習をしてる視聴覚ホール。ノックもそこそこに踏み込んだ彼女に、それでも結局明かせる事情もなく。だからただ優雅に振る舞い微笑んで、そう見えたかしらと誤魔化したら。
『結構。何に悩んでいらっしゃるのか存じませんが、ひとつご助言を差し上げますわ』
呆れと失望。苛立ちを剣呑に含んだ瞳でこちらを睨んで、嫌々吐き出すようにして。
『あなたがわたくしのご学友、桜条撫子であるのなら。下らないことに気を回さず、やりたいようになさったら?』
ぽつ、ぽつり。ぱたぱた。
ざあああ、と。
駆け足に雨音が強まった。窓向こうの景色は雨でけぶって、空もぼんやりと不確かに。その分余計に、七夕のあれこれが頭を過った。天の川でも短冊でもなく、織姫と、彦星のこと。
短冊に書きたい願いはない。私自身の恋のことは、私が叶えるべきことで。夜に星を見る予定もない。昼にも輝く星に、私は魅せられているのだから。
だから。
因んだ推しのライブが開催されてる、なんて一点を除いては、七夕もほとんど縁がない年。だからこそ。
織姫と彦星のことを、今日はよく考えている。
許された日にしか、逢うことの叶わない二人。
望むままに行動するなら、やりたいようにしてしまうなら、彼らは一体どうするだろう。会いたいように会うのだろうか。手を取り合って逃げ出したり、そろそろ許せと訴えていつでも逢える許可を取ったり、するだろうか。
「…………」
きっと、らしくない。桜条撫子にはあまり似合わないだろうし、こんなことを考えているとたとえば朝日奈さんが知ったら、露骨に嫌な顔をしそう。だけど。
だけど、重ねてしまっていた。宙の向こうで、年に一度の逢瀬をする彼らに。
全然事情も違うけど。私たちは年に数回は会えるし、それでも両思いではない。私がやりたいように手を伸ばしても、きっとすぐには届かない。
ライブとか、ファンミとか、そんな機会にしか会うことは叶わない存在。
『1stライブ、……大丈夫そうですか?』
金曜日。生徒会に顔を出した時に、おずおずと声をかけてきたあの子。それだけの言葉でも一瞬鼓動が高鳴って、動揺が浮かびかけて。振り返って、逸らされた目に気が付いてから、胸がちくりと痛んで。
どうしてそんな反応をしたのか。
あんなに近い場所にいるから、未練が絶てないままなのだろうか。
「…………」
私が好きなのは伶くんで、素山澪ではない、はずなのだ。
窓には、温度差で結露が生まれていて。当てた指先をゆっくりと動かしてみれば、水滴を削って模様が生まれ、またそれも段々と曇っていく。
なんとなく。指先で、ひらがなの『み』を書いて。そこにもう一つ続ける前に、手のひらでその一文字を撫でて削る。
あの子ではない、はずなのに。
距離を離してみてからも。澪の、素山さんのことが、いつまでも心から離れない。
「…………」
それがぐるぐると思考を巡って、出発しようとする足元に巻きついてくる。
ライブに行って、伶くんに会って、どんな感情になるだろう。
その後で澪に会った時、どんなことを感じるだろう。
考えていてもしかたないのに、そんなことばかりが――。
「――、……!?」
振動と、着信の通知。
画面に現れたその名前に、一瞬手が震え、落としかけながら取り上げる。
「……っもしもし」
『あ、……えっと、……』
じわりと、手足に熱が伝わる。その熱は頬までぎゅっと伝って、とくりと呼吸が浅くなる。
彼女の声は、いつもそんな昂揚を、熱をくれた、かっこよくて素敵なものではなく。そのままの、ありのままの、声で。
『ライブ前に、すみません。……ちょっと、お話したくて』
「うん、……ええ。……大丈夫」
それなのに、熱はすこしも惹かないまま。声が震えないように、慎重にそう返した。
画面に表示された発信者の名は、素山澪、その人だった。