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「飛鳥井、いいか?」
「あ、……響次さん」
金曜日。
ライブに向けて、今日は生徒会も早退させてもらった。普段の練習スタジオではなく、本番と同じ会場を使っての、いわゆるゲネプロというやつで。明日は前日な分、細かい調整や段取りの確認が主だから、皆もここでパフォーマンスを詰めていくことになる。そんな、休憩中。
「自覚はあるか?」
「えっと、……新曲、ですよね?」
「ああ。他の楽曲は流石、言うことはないが」
頷くと、彼は楽譜を取り出してそのまま、ソロパートの部分を示してくる。
「はっきり言えば、気が散っている。ここの歌詞だけ、明らかに動揺が見える」
「……はい。いや、……ありますよ、心当たり」
新曲は。初恋に自分でも自覚的でない想いを歌う曲で、ソロパートで任されているのは。
『君がくれた 初めての 名前を探してる』
多分。前のファンミーティングの時に、海老名と話したことにもかなり引っ張られてはいるのだろう。あの時と状況は変わっているけど、きっとだからこそ、余計に。
初めてだから。まだ自分の感情に、気付いていない。
『今の君に必要なのは、……自分の気持ちに気付いてあげることかもね?』
犬伏先輩の声が再生されて、溜め息を吐く。
「想い人でもいるのか?」
「……いませんし、今時聞かないです、想い人とか」
「そうか」
特に追及はせず、響次さんはこくりと頷く。
そう。少なくとも、伶くんとしての答えはそうだ。アイドル、飛鳥井伶は、応援してくれる皆が大事で、特別な一人を作るつもりはない。それは間違いないし、伶としては、そう動揺なく答えられる。そして、そのままの心情で歌えるつもりだった。
そこに、余計な感情が交ざるから。
……いや。
別に。澪としてだって、そういう感情ではない、とは思うのだけど。
「心当たりがあるなら、お前に任せることもできる。ただライブもすぐそこだからな、具体的な対処法のアドバイスはしておこう」
「……正直、いただけるなら助かります」
そうでなくとも、メンバー間での助言というのはそれだけでありがたいものだし、それが響次さんからというなら尚更。それにどう手を打てばいいかもわからないし、この件を自分だけで解決するのは、このタイミングではほとんど不可能だろうから。
素直に頼れば、彼は頷いて。
「選択肢は二つだ」
すらりとした指が二本立つ。
「中途半端に感情が乗って気が散るのなら、いっそ完全に委ねるか。あるいは完全に感情を消して、技術でカバーするかだ。判断は、飛鳥井に任せよう」
「…………ありがとう、ございます」
「いや。ライブの成功には必要だと考えたまでだ」
するりと首を振って、そのまま自身の荷物の方へ歩いていく。
正直、感情を消す方だけアドバイスされると思っていた。完全に委ねる、なんて手を示されるとは思っていなくて、すこし面食らっていた。どこか根性論にも思える言葉で、あまり想像は付かないもので。
「…………」
いや。言葉通りに受け取って、真面目に検討してみれば、方法としてどうすればいいかは想像がつく。
伶として乗せる感情は、本来伶からファンに向けたものだから。それを多分、今、歌っていて交じってくる感情に委ねるということで。つまり、ソロパートを完全に、澪としての想いに委ねるということになる。
そして。
アイドル飛鳥井伶として、どちらを選ぶべきかは、わかりきっていた。
「……お。伶、少しは顔つきマシになったか?」
「ん、……そんなわかるくらい変わってる?」
「ああ。大分な」
ゲネプロが再開して。新曲は今日の段取りではもうやらないから、すべては明日の調整次第。そう割り切って挑んでいたら途中、
兄に比べるとやや攻撃的な色を帯びた笑みを浮かべて、彼は頷いてみせた。
「ま、事情は知らねーが、伶がブレてんのはらしくないしな。虎走にでもアドバイスもらったか?」
「いや、響次さん」
「っ、……アイツかよ」
ちゃんと舌打ちが出る辺り、相変わらずの兄弟仲なようだ。何よりだと思っていれば、不満げな表情のままで、それでもこちらに目を向けてくれる。
「……で? 大丈夫なんだな?」
「うん、……少なくとも、ライブ本番では迷惑かけない。明日はちょっと、わからないけど」
「いーんだよ、最終調整なんだから。本番大丈夫ならそれでいい」
本当に、よく似た兄弟だ。兄も弟も、パフォーマンスやライブの成功を一番に考えつつも、メンバーのことをよく見て、気にかけてくれている。
だからこそ。
伶として、そんな二人を裏切るわけにはいかない。
「…………」
帰り道。
新曲の音源を聞き返しながら、ソロパートのイメージを考える。
二通り。
そう。
二つ選択肢を挙げてもらったら、伶としてどちらを選ぶべきかはわかりきっている。
実際に二つとも試して、より良いパフォーマンスに繋がる方を、選ぶのだ。
■
「……まさか、三年も一緒にいるのに、今になって気が付くとはね」
Audit10nEE、七夕ライブのライブ会場は、これまでの公演規模と比べても最大と言っていいほど、大きな会場になっている。もちろん、トップレベルのアイドルと比べればまだまだではあるが、そこのステージでライブをしたと言えば、アイドル業界ではそれなりに羨望の眼差しで見られるような、そんな会場。
その裏側は、Audit10nEEのメンバー用に各ブースが設営されていて。ライブ前の慌ただしい雰囲気を残しつつ、ゲネプロを終えた今日は、一部調整の為のスタッフを残して、もうほとんどの人間が帰宅していた。
すっかり暗くなった、そんな建物の片隅で。
Audit10nEE、グループのリーダーである
小さくて飾り気のない部屋に、椅子と化粧台と、簡易的な収納がいくつか設置されている。
メンバー用に割り当てられた控え室とは全く異なる場所で、部屋名を示すプレートもなく。まず見つけられることもなければ、部屋を覗いたとしても、何の部屋かと想像を巡らせる興味も起こさない程度の、そんな地味な部屋。
その収納の一つを開けて、――虎走一は、いつもの通り、完璧な笑みを浮かべた。
収納の中にいくつか収まっているのは、見覚えのある髪型のウィッグ。そして。今日のゲネプロで、声をかけるために飛鳥井伶を追いかけていたら、人目を気にするような素振りで随分な遠回りをして、この部屋に入っていった。
ウィッグを外したところの想像が付くわけではないが、かわり、虎走一の脳裏には、飛鳥井伶と重なる、一人の人物の姿があった。
「まさか、……君が、女だったとは」
もう、一ヶ月は前になるか。
いつか遊園地に遊びに行った時に、妙に印象に残った少女。他の誰もがほとんど気にしてもいない、人目に付かないような印象の彼女が。
ステージで多くの人を惹きつけて止まない――そして、虎走一の目をも奪う彼と、ぴったりと重なっていた。