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042 -遠ざかる-


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「……あれ、もう終わったんですか?」

 しん、と。

 ホールの扉を開いたら想像に反して静まりきった空間と、舞台の方に立っている撫子さん。冷房のせいか随分と肌寒くて、軽く腕をさすりながら、彼女の方に近づいていく。

 と。

「…………?」

 明らかに、撫子さんが後ずさったように見えて。どう見ても青ざめた表情に、ざわりと、何かあったのかと心配になって。

「撫子さん、何か――」

「――やめて!」

 咄嗟に駆け寄ろうとしたら、腕を出して、こちらを制止した。

 それで、ぱたりと思考が停止する。

 その手も、言葉も、青ざめた顔も、どれもが私に向けられたもので。でもどういうことか自覚もなくて、ここ数日を振り返っても答えもなくて。

「え、……と…………」

 からりと、冷房で乾いた空気でざらり、嫌な感覚で喉が渇く。掠れかけた声にすこし力を込めて、どうにか気遣った質問を投げる。

「大丈夫、ですか?」

「……違うの、…………何でもない」

 彼女は手を握って、どかして、首を振る。その視線はまだじっと舞台の少し先の床を見つめていて、呆然としたままで。次に言葉を出すまでにも、しばらくの沈黙を消費して。



「……帰って。いいわ、……わたくし一人で平気」

「…………あの、顔色よくない――」

「――いいから……!」


 どきりと。

 遮った声に含まれていたのは、拒絶。

 彼女ははっとした顔でこちらに目を合わせる。一瞬浮かんだ迷いと動揺と、でも、その視線をゆっくり落として、小さく首を振って。

 ぽつりと、呟かれた。


「ごめんなさい、…………ちょっと、距離が近かったみたい」


 そうして。持ち上げられた青い顔は、それでも、桜条撫子、お嬢様を繕った彼女の笑みを浮かべてみせて。



「一方的で悪いのだけど、しばらく距離を離しましょう、…………素山さん」



 だから。

 どう言葉を返していいかもわからないまま、後片付けも手伝えないまま、ホールを後にして。アイドルとして活動していて初めて、予定していた配信を、体調不良という嘘をついて取りやめた。



 *



 これでよかった。

 そのはず。


 あの子の言う通りだ。何も間違っていない。

 わたくしが好きなのはあくまで飛鳥井伶くんで。素山澪には何も関係ない。自分自身にも、何度もそう言い聞かせてきたのだ。

 ただ、たまたま推してるアイドルの正体だったから、その分気になっているだけ。

 花糸さんの瞳は本気だった。自覚してないと思うけど、私に想いをぶつけながらも、途中で雫も零していた。

 そうよ。あれだけ本気で好きな子がいるなら、澪、……素山さんのことを、アイドルが好きというだけで奪うのは全くいい気がしないだろう。私はただ伶くんが好きなだけで、素山さんのことなんて、どうでもいいのだから。

 そのはずなのに。


「……何も訊かないでちょうだい」

「…………ご無事なんですね?」

「何も訊かないでと言ったわ」

「その上で訊いています」

「身体は無事。早く乗せて」


 思い遣ってくれた仕乃に、そんな尖った言葉を返してしまいながら。彼女は数秒だけ私を見つめてから、静かにリムジンの扉を開ける。広々としたそこに一人で乗り込めば、ぱたりと静かに閉じてくれて。運転席と繋いでる窓は開いたまま。いっそ閉めてしまおうかと思ったところで、仕乃が運転席に乗り込んで、今日は何の音楽の流さないまま、そのまま車が発進する。

 身体は無事。さっき告げた言葉が随分滑稽に感じて、スモークの窓を見つめながら、ろくに映りもしない表情を思い浮かべて、自嘲の笑みを形作ってみる。きっとまだまだ青ざめていて、家に帰っても皆にまともに顔を合わせられないだろう。

 これではまるで、心はショックを受けてるみたい。

 何で? どうして?

 そんなはずはない。

 だってそうだ。花糸さんの言葉には何も間違いはない。素山さんに告げたことにも、何も失敗はない。

 私が好きなのは伶くんで、澪は関係ない。だから、花糸さんが邪魔しないでほしいと言って、それが伶くんへの推し活に、恋心に何の影響もないのなら、譲ってあげるべきだと思う。

 だって私は。


 別に、澪が好きなわけじゃない。


「……滑稽ね」

 ぽつりと。敢えて聞こえるように言ったつもりなのに、運転席からは何も返らない。だから気を散らす宛てもなくて、ずきりと、痛んだ胸の痛みがそのまま、ダイレクトに残って主張する。

 彼女の覚悟は相当なものだ。抱えてきた想いだって確かなものだろう。同性で、今まで幼馴染として、親友として過ごしてきた相手に、それでも諦めずに恋をしている。素山さんがどう思うか以外はどうでもいいとまで言っていた。咄嗟に糾弾したけれど、告白できていないのは私も同じだ。

 なら。私は何も問題なく、彼女に素山さんを譲るべきだろう。私はこれからも伶くんを好きでい続けるし、花糸さんに許可されるまでもなく、恋を諦めるつもりもない。そこに素山さんが付いてくる必要はないから、何も、間違いじゃないのだ。



「そういえば」


 いつもなら、もうとっくに家に着いている時間。

 その間だけ反復を重ねても、胸の痛みも、感情の見直しも、その結果の言い聞かせも、止まらないまま。何も変わらないまま、ズキズキと痛いまま、スモーク越しの薄い輪郭を、青ざめた微笑みで見つめたまま。

 そんな時にぽつりと、仕乃が柔らかく零した。

「最近見つけた、素敵なアルバムがあるんですよ。どれも綺麗な曲なので、初めて聴いた時は、思わず涙が溢れたくらいです」

「あなたね」

「お嬢様さえよければ、その一周分、余計にドライブしませんか?」

「…………」

 本当に。

 私をいつまでも、小さい子だと思っているのではないだろうか。そう憤慨する気持ちは一割にさえ満たないくらいで。三割は、そんな気遣いを断る残念な気持ち。残りは委ねてしまいたい気持ち。

「ダメよ。今日は、伶くんの配信、………………ああ、もう」

 言いながらスマホを確かめて、そして三割が一気にひっくり返って、感情のほとんどが塗り潰される。

 澪、……素山さん。なんであなたが、休むのよ。

 というのは、ちょっと残酷か。私の伝え方も、もっとうまくできたはずなのに。動揺した分突き放したから、きっと彼女も傷付いたのだろう。それで伶くんの活動にまで支障が出てるのは珍しいというか、滅多にないことだろうけど。

 多分、それだけ傷付けてしまったのだ。

 わざわざ呼び方まで変えて。近づけた分の距離を離して。

 滑稽だ。私、何をやってるんだろう。

 でもこれできっと、もう二度と、近づかない。


「……仕乃、早くかけて」

「よろしいですか?」

「いいから。いいわ。だってそうじゃないと、私がただ泣いてるみたいじゃない」

「よろしいですよ」

「よろしくないの、何一つね」


 ぽたぽたと。

 ぐっと、堪えてるつもりなのにお構いなしに頬を伝って、熱いのなんの。

 気付かないフリもできない痛みが、馬鹿馬鹿しくて笑ってみたら、そこに静かな旋律が流れて。それは確かに綺麗ではあれど、仕乃が言うほどの感激はもたらさない柔らかなヒーリングミュージックで。

 だから、音楽に感激したというより、自分自信のバカさ加減と、健気で過保護なお手伝いの気持ちに心打たれたということにして、一周と半分で流しきった。

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