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039 -一歩、先へ-


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「――そ、その。お伝え、したいことがありますの」

「うん」

 緊張した表情の彼女――撫子さんに、優しく頷いて見せる。

 彼女の表情は覚悟をしたもので。それでも口を開いて、喉から言葉を出す前に、躊躇して。四十秒という短い時間は、すこしずつ削れていく。

 いや。そう。

 撫子さん、なのだ。

『伶くんこんにちは! 撫子です。いつもは『なこ』なのですけど、今日は変装せずに失礼いたします』

 今日最初に来てくれた時に、受けた挨拶。彼女が言葉を発する前の数瞬、サングラス越しの瞳に、マスク越しの輪郭にあまりにも見覚えがあって、『なこ』として来たわけじゃないのが一目瞭然だったから、思わず言葉に詰まって。正直に言えば、そこに全然触れたかったし色々尋ねたいこともあるのだけど。周囲にはスタッフの人もいるし、次の子に万一聞かれたらまずいし、彼女はあくまで伶くんに会いに来てる撫子として挨拶してくれたから。

 だから。

「――大丈夫。まっすぐ言葉にしてくれていいよ」

 撫子さんがどうして撫子さんで会いに来てくれたのか、本心の部分はわからないままだけど。

 それでもこうして自己紹介から始まって、互いに知ってるはずの思い出にも触れていくということは。飛鳥井伶に、桜条撫子として知ってほしいということだろう。

 だから、私も素山澪じゃなくて、飛鳥井伶として向き合うし。

 彼女の伝えたい言葉が、どんなものでも。アイドルとして完璧に受け止める。

「私、……わたくしっ、……はじめて見た時から、伶くんにずっと、心が、惹かれていました」

 呼吸は少しだけ浅くて、声はかすかに震えていて。また一つ息を吸って。握った、震える手をぎゅっと、握り直して。もう時間は差し迫っていて。

 そうして彼女の瞳がまっすぐ、こちらに向けられた。

 ら。

 どくり。

 その瞳の力強さに。まっすぐな色に、思わず息を止めた。

「これは、憧れだと思っていたのですけど、違いました」

 マスクとサングラス越しの表情にも、目を奪われる。

 あくまで。アイドルとファン。言葉を、想いをどう受け止めるべきか。頭の中ではぐるぐるしていて、そんな壁を乗り越えるように、彼女は逃げずに、瞳を逸らさずに。



「わたくし、伶くん――」



「――お時間です」

「っ……あ」

 無慈悲にも。いや、しかたのないこと。

「あ、……」

 訪れた、事務的な引き剥がしにどちらもが一瞬呆けて。呆然とした顔の彼女が促されるままに離れかけたところで、咄嗟に。

「っ、……また伝えに来て!」

 はっと振り返る彼女に、頷いて見せる。

「ちゃんと受け止めるから」

 そう声をかけたのはアイドルとして。あの勇気ある行為には、そう報いてあげるべきだろう。



 そして。また伝えに来てくれた、その時には。

 間に合いはしなかった、けど。彼女が何を伝えたかったのかはきっと、十分伝わっている。幾度ももらったことのある言葉。どの子も本気でかけてくれる言葉。

 だからこそ、誰か一人を選んだり、特別扱いはできない言葉。


 諦めていない表情で、こくりと頷いた撫子さんは帰っていって。そのまま次の子が来てくれたから、また飛鳥井伶として、きちんと向き合う。

 そうだ。推してくれてる一人一人が、その人自身の気持ちを、応援を、全力で向けてくれている。

 だから。アイドルとして、現場で真っ直ぐに向けてもらう分は、平等に受け止めなくてはいけない。



「…………」



 なのに。

 これは多分、飛鳥井伶じゃなくて、素山澪として。

 弱みを握られて特別扱いをしてきたりとか。プライベートでも会っているからとか。きっと動揺の理由はその辺りのはず。本当に、プロ失格だと自分でも思うけど。

 握手会は終わって、こっそり確保してもらってる、私専用の更衣室兼休憩室、その個室のお手洗い。

 ウィッグも一度休憩の為に外しているから、鏡越しにこちらを見つめ返すのはただの影の薄い女子高生。その頬がばっちり染まっていて、胸もどきどきと今も痛くて。

「いや、私にじゃないし……」

 私にだとしても、別にここまで動揺する理由はないし。

 そう自分に言い聞かせても中々頬の熱は引かなくて、またひとつ、ため息を吐いた。



 *



 いや、もう。

 正直めちゃくちゃ情けないし、やり直せるならそうしたいくらい。

「…………」

 何であそこまで覚悟を決めたのに、いざという時に言葉が出てこないのか。

 諦めないと心を決めても、決定的な言葉が言えないのか。

 わかってるのだ。

 伶くんが私の言葉をどう受け止めるのか。桜条撫子として見てもらったとして、この恋心を明かしたとして、特別扱いにはならないって。

 一度の玉砕も怖くない。何度だって手を伸ばすその一度目として、告げるつもりだったのだけど。

「……情けない」

 本心からの言葉が漏れて、会場の隅で反省会。

 それでも。

『また伝えに来て! ちゃんと受け止めるから』

 きっと伝えても、皆と同じ箱に入れられる感情なのに。でも真剣に受け止めて、大事にしてくれるのだろうってわかる表情に、声かけに、どうしようもなく好きだって思うから。わかっていても次こそ伝えようと、決意を固める。

「伶くん、…………わたくしはあなたに、こ――!?」

 と。

 ぱたりと、人の気配がした気がして声を止めて、咄嗟にそちらを向いた。

「……?」

 一瞬。誰かの髪が見えた気がしたけど、あちらも気配に遠慮したようで、そのまま廊下から去っていったようだった。

 その髪色にはどことなく見覚えがあって、すこしだけ胸がざわついたけど。次のプログラムまで時間もないし、予行演習は一度くらいはしておきたかったから、そのことはすぐに、頭の中から追いやった。



 +



 ファンミーティングは盛況のうちに終わりを迎えて。

 終演後、虎走から握手会で何かあった? と軽く尋ねられた以外には、特にそれ以上おかしなこともなく。

 だから、考えてもいなかった。



「今日はちょっと早起きして、ドーナツ焼いてきたんだ。お昼よかったら、一緒に食べない?」

「ドーナツ! いいね」

 まぁ、昨日も差し入れに、会場近くの人気店で買ったという美味しいドーナツを食べたばかりではあったのだけど。でもかすみが手作りしてくれたのならと、ただ純粋に楽しみにしていて。

 だから。

 お昼休み、何だか見覚えのある見た目のドーナツが出てきた時に。全然そう思う必要もないのに、これが浮気の証拠写真を出される気分なのかなとか、そういうことが頭を過った。

「……昨日、あるイベントに偶然立ち寄ったんだけどね。その近くのドーナツ屋さんが評判みたいで、味は似てないかもだけど、見た目をちょっと真似してみたの」

「……あ、…………わ、わぁ……おいしそう」

 恐る恐る。一挙手一投足、一単語にも、ぎこちなくなる私に、かすみはあくまで柔らかく、優しく続けてくれて。

「……そのイベント、初めて知ったアイドルの、……ファンミーティング、だったかな。ファンの人たちと交流するイベントみたいでね」

 そう言ったかすみはまた鞄を手に取って、今度はブロマイドを数枚取り出す。

 そうして、お弁当箱の横に並ぶ、飛鳥井伶たち。

「…………この人、一目見て、素敵だなって思ったの」


「あ、…………の。かすみ。実は、前からかすみに言おうと思ってたことがあって……」

「うん! なんでも教えて」


 にこりと笑ったかすみに恐怖を覚えたのは、これが初めてだったかもしれない。

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