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038 -すこしずつ距離を近づけていく-


 *



「ど、どうかしら。おかしいところはない?」

「ええ、とても素敵ですよ」

「そう、それならいいのだけ……いえちょっと待って! こっちのマスクの方が可愛くないかしら? でもすこし主張が強すぎる気がするわね、あくまで変装のためなのだし、地味目なこっちにしようかしら……」

 もうそろそろ出ないといけない。のはわかっているけれど。

「どちらも持っていって、握手会前に付け替えるのはいかがでしょう?」

「あ、あらそう? マスク変えてて自意識過剰みたいに思われないかしら……」

「大丈夫ですよ。お気付きになったとして、そのようなことを考える方々ではないのでしょう?」

「そ、そうかもしれないけど……」

 内心のことはわからないし。いや伶くんたちはそんなこと思わないから!! いやでも澪は思いそうだ。いやそもそも、マスクの変化に気付かれるという考え自体が自意識過剰なのだけど。

 というか。こんなに悩むならもういっそ。

「……や、やっぱりいつもの『なこ』として、概念コーデで行こうかしら……」

「お嬢様」

「う」

「本日は、勇気を出されるのでしょう?」

「ゆ、……勇気とかじゃなくて、……その、頃合いかと思っただけよ……」

 体育祭の翌週、日曜日。今日は、Audit10nEE、ファンミーティングの日。

 普段は、ショニの接近イベントは大体『なこ』として、完全に見た目の印象も変えた上で参加していたのだけど。

「……」

 鏡の中には、らしくなく、がちがちに緊張した面持ちの桜条撫子。

 いや。するに決まってるじゃない。

 ちゃんと現場で、アイドルとしての伶くんと、『桜条撫子』として会うことになるんだから。

 頃合い……は当然、建前でしかなくて。

「……そうね」

 これまでは、自我を出し過ぎじゃないかと思って遠慮していたけど。

 思い返す。

 すると、どきりと、別の形で鼓動が打つ。忍び寄るのは不穏、不安。水曜日にあった合唱部の公演が。あの時の、花糸さんの歌声が、表情が。どうしてか気持ちを焦らせる。

 別に、澪と伶くんは関係ない、はずなのだけど。

 もう一度鏡の中を見つめると、覚悟した顔の私が、こちらを見つめ返す。

「……これで行くわ。十分、胸を張れる格好だもの」

「ええ。お嬢様は、本日も素敵です」

 仕乃は柔らかく微笑むと、時間が押している分急いでるはずなのに、それを感じさせない所作でするりと準備を進めていった。



 ショニのグループとしての知名度は正に急上昇中というところで、会場のキャパも前回のファンミより二段くらい上がっている。それでも倍率は中々なもので、トークショーの座席はかなり後方。

 一応。これまでショニの現場に赴いた中では、会場で知り合いの顔を見かけたことはないのだけど。桜条撫子として参加するということは、そういうリスクもあるということだ。サングラス越しに会場を眺めるだけでドキドキは普段の三倍増しで、時間もその分早く流れていったから、気が付けば開演時間になっていた。

『本日は、Audit10nEEのファンミーティングにお越しいただきありがとうございます。ライブパートはございませんが、その分トークが充実しておりますので、ごゆるりとお楽しみください』

 声で気付く。まことくん直々のアナウンスにすでに抑えた歓声が上がりかけて、続いてメンバーが登場し始めてそれが爆発的な黄色い声に変わる。もちろん私もその一人。

 ああ! 推しが! 伶くんその服装初めて見るけど!? 夏だからかちょっと爽やかな印象で、席に着く前にさらりと観客席に手を振って。トークが始まる前から大ダメージ。

「……好き…………」

 押し殺そうとしたけど、マスクの下で思わず声が出る。傍から見るとちょっとキモいかもしれない。いやちょっとかどうかも怪しいくらい。

「…………!」

 そういうわけで。

 そこから始まったトークショーを私がどれだけ楽しんだかは、語らずとも伝わることだろう。

 そしてそれはトークショーのみならず、一つ一つのプログラムを、推しのイベントの幸せを噛み締め、心に焼き付けていけば、いよいよ、握手会の時間が訪れる。

「…………」

 並ぶ間も覚悟と緊張。

 身嗜みも最終確認。通路の壁、ガラスの薄らとした反射で軽く目視のチェック。話す内容もメモを見返して。とくとく打ってる胸の辺りに手を当てて。自分自身の感情も、確かめ直す。

 やっぱり、間違いじゃない。

 桜条撫子としてイベントに参加しても。伶くんが澪だってわかっていても。

 ちらりと、暗がりを下地に反射する自身の表情を見つめる。その曖昧な鏡像も、着けた可愛いマスクだって、頬が赤らんでいるかどうかも隠してしまっているというのに。一目でも頬の熱さが増すくらい、そういう表情をしている。

 それは、恋をしている表情だ。

 何も変わっていない。

 何も間違っていない。

 私は、伶くんが好き。これは恋だ。もう疑わない。

 そして私は、恋を諦めない。

「お次の方どうぞ~」

 スタッフの方に促されて、こくりと息を呑む。胸を張る。券は出せる上限を出したから、話せる時間は四十秒。一瞬目を逸らしかけたけどがんばって真っ直ぐ見つめれば、伶くんはぱくぱくと目を丸くしている。

「……な、…………」

「伶くんこんにちは! 撫子です。いつもは『なこ』なのですけど、今日は変装せずに失礼いたします」

「あ! なこさん! そっか、じゃあ撫子さんって呼ぼうかな?」

 伶くんから名前を呼んでもらうと、こくこく頷きながらも頬が、かっと熱を持つ。伶くんが動揺してたのは一瞬だけで、一応の変装がすぐに見抜かれたのも嬉しいし、態度に出すのは最小限で、本当に伶くんってプロだと思う。

 会える時間はいつも一瞬に感じるけど、今日は特別、伶くんと現場で、桜条撫子として話しているのが現実感を失わせて。何を話したかもあやふやなまま、気が付けばまた列の最後尾。


「ええ! 撫子さんって、すごいんだね」

「遊園地か、オレもこの間ジェットコースター乗ったけど、スリル満点でさ~」

「七夕ライブそんな席近いんだ、おめでとう! オレも今絶賛リハ中だから、楽しみにしてて!」


 周回する度に、撫子として、伶くんに認識されていく。少しずつ距離を近づけていく。

 わかっている。

 どれだけ近づいたように思えても、あくまでファンの私とアイドルである彼との間には、途方もない距離が開いているのだけど。

 最後の一回。言うことは決まっていたから、覚悟を決めて息を吸う。


「――そ、その。お伝え、したいことがありますの」

「うん」

 それでも。

 どれだけ距離が開いていたとしても、私は恋を諦めない。



 ■



「――……」

 スピードの速い車が隣を通り過ぎて、巻き上がった風でちょっと目を瞑る。

 日曜日。街なか。誰も都合が合わなかったから、一人きりでの買い物、なんだけど。お目当てのものは見つかってなくて、バッグの中は空っぽのまま。

 澪ちゃんの秘密も、まだ知らないまま。

「……」

 目を開けたらスマートフォンを取り出して、ループを始めていたプレイリストを他のに変える。変える前も、変えた後も、最近人気のアイドルソングの詰め合わせ。

 でも。何度聞いても探しても、澪ちゃんの声はこの中にない。はず。ううん、絶対に。どれだけ普段と違う声音で歌ってたって、澪ちゃんならきっとわかる。わかるって、思いたい。

 体育祭の日から、ずっと考えてることだ。澪ちゃんの隠してる秘密の正体は、アイドルなんじゃないかって。突拍子も現実味もないのにどうしてか、それがしっくりと来てしまう。でも、合唱部の公演も終わった今、こうして本格的に探そうとしてるけど。どれだけ探しても、澪ちゃんの姿は見つかっていない。

 信号が変わった。横断歩道を渡り出す。大きい交差点だから、縦横に人が入り乱れている。無意識に、目が澪ちゃんを探す。知らない人たちばかりが映って、大事なあの人はどこにもいない。

「…………」

 大人気な国民的アイドルから、結成したばかりのアイドルグループとか、地下アイドルも調べてみてる。それでも、少なくとも容姿で澪ちゃんだって気付ける子はいなかった。それだけでも勝手にショックだったけど、歌でも結局見つけられてない。

 やっぱり、全然見当違いなのかもしれない。というかそうであってほしい。澪ちゃんの魅力は私だけが知っていればいい。他の人に取られたくない。アイドルなんかになってしまったら、澪ちゃんを皆が好きになってしまう。

 ……なんて。私はやっぱり嫌な子だ。告白する勇気もない癖に。

「……」

 澪ちゃんに、何あげよう。

 明日はお菓子を作っていって、お昼に一緒に食べたいなと思ってたけど。何を作るかも決めてなくて、でも何だかどれもぴんとこなくて。スイーツのお店を巡ってみて、いいなって惹かれたものにしようと思ってたけど。頭の中は、澪ちゃんのことばっかりで。

 横断歩道を渡りきる。次にどこのお店に行こうかなって、周囲をぐるりと見渡した。そうしたら、街頭モニターの広告がふと、目に入ってきて。

 普段はそんなの、意識から流れてしまうけど。ぱっと目に入った『七夕ライブ』の文字が、手当たり次第にアイドルを探す今、意識にひっかかった。

「……おーでぃ、……?」

 表示されたアイドルグループの名前は見たことのないものだったけど。たくさんいるらしいメンバーが一人ずつ映り始めてすぐに、目当てとは違う男性アイドルグループだと気付く。最初に表示された虎走こばせまことという人は、何となく聞いたことがある名前。次の魚守という人はもう知らない人で。このまま見続けても別に、澪ちゃんが見つかるわけはないのに、何となく、ぼうっと眺めて。

 いたら。



「――?」



 ふと、とんとん、と肩を叩かれて、途中で振り返る。そしてすぐに、無視をして歩き出す。イヤホン越しにもかかる声が、嫌だった。

「ね、暇なら、奢るからさ。お茶だけでも!」

 とりあえず諦めてもらうために適当に足を進めていたら、いつの間にか、何かの会場に足を踏み入れていた。

 はためく幟だったり、大きく目立つ垂れ幕だったり。そこにある文言は『Audit10nEE』で、さっき見たばかりのグループ名。見た感じイベントをやってるみたいで、だから近くに街頭広告があったんだろうと気が付いた。

「…………」


 普段は男性アイドルにあんまり興味はなくて、Audit10nEEだって全然知らない名前だった。だからどうしてそうしたのか、自分でもわからないけど。

 物販コーナーが目に入る。私が入ってもよさそうだったから、そっちに足を進めてみた。


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