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036 -言えない気持ち-


 プログラムでは。

 はじめに二曲の合唱、それから二曲の独唱と一曲のデュエットを経た後、学年別で二年生の合唱、三年生の合唱が予定されているらしい。

 アイドルのライブ前と、似てるようで異なる静寂。こほん、と誰かがした咳が空間に広がって。物音を立てるとそれだけ目立つのだという緊張感がぴり、と背筋を持ち上げて、それからしばらく。

 やがて、幕が持ち上がる。

 並ぶのは、初回の合唱に選抜されたらしい部員たち。かすみの姿はなく、主には三年生で構成されている様子。

 指揮者の子が合図を出せば、伴奏担当の子が、ピアノの鍵盤に指を乗せて。

「…………」

 ホールが、音で満たされていく。

 新入生向けだろう、有名な楽曲の合唱アレンジ。音も歌詞も知っている分、先の予想もできるのに、それ以上に美しい響きがホールの上部で高く震えて、ぞわりと腕に鳥肌が立つ。

 重なる声の力強さに、目すらも奪われる。同時、目を閉じて浸ってしまいたくなるような。心地よさのあまりに、じっと閉じた目元が熱を持つような。

「……」

 拍手が満ちる中、次のライブに向けて、コーラスパートの追加練入れたいなとか、そんなことが頭に浮かぶ。もちろんここまでの重厚な響きは生まれないだろうけど。

 続く合唱を聴きながらも、そのハーモニーに浸っていれば。

『続きまして。高等部二年生、花糸かすみによる独唱です』

 一層ひそめるような、けれど期待の籠もった拍手がかすみを出迎えて、やっぱり緊張した面持ちの彼女が壇上に上がる。その瞳がちらりとこちらを見たから、小さく頷いて返した。見えたかどうかはわからないけど、彼女の瞳はわずかな間、こちらをじっと見つめていて。

 それから小さく目を閉じると、伴奏の子に目を合わせる。

 すこしの沈黙。

 ピアノの旋律が流れて、かすみの歌が始まって。


「…………」


 息を呑んだ。



 緊張してた、とは思うけど。一声目から、震えたりしていない滑らかで繊細で、でも芯のある声で。イタリア歌曲らしいそれを、天使の歌声が響かせる。

 どうして皆が、かすみを独唱に推薦したのか。はっきりとわかる。

 親友としてとか、研究の為とかそんなことも忘れて、ただ音に浸った。

 彼女の表情は柔らかく、そして声音は美しく歌い上げているのに。音にはどこか切ない響きが混じっていて。胸が、ぎゅっと狭まる感覚。

 あまり長くない楽曲はしばらくしたら終わりを迎えたけど。

 音の余韻はしばらく残って。それから、割れんばかりの拍手が彼女を包んだ。

 一瞬目が合ったかすみの目元には、光が見えた気がした。彼女はぺこりと頭を下げると、それから淑やかに退場していった。



 *



 間違いなく。

 美しい歌だったと思う。

 ライブに使えないかとか、そういうことを考えて研究したり。どうやって演歌っぽくなく歌っているのかとか、そんなことばかり考えて聴いていたけど。

「……すごいですね、花糸さん。わたし、……胸がいっぱいになりました」

「ええ、そうね」

 鳴り響く拍手の中、そっと囁かれて、頷いて返す。

 なのに、胸がざわざわしていて。

 花糸さんの見せた表情に。その歌声に、どうしてまっすぐ浸れないのか。

 関係者席の澪が舞台を一心に見つめているのが、どうして心をざわつかせるのか。

 答えが出ないまま、合唱部の公演は終わりを迎えて。


「……ごめんなさい。わたくし、先ほどお知り合いの方と目が合って。お話ししたいから、すこし残ってもいいかしら」

「あら。ええもちろん、わたしたちは先に失礼しますわね」

「失礼いたしますわ」

 実際、目は合ったのだけど。そう伝えれば一緒に来てくれたみんなは受け入れて、先に帰ってくれた。明日あらためてお礼を入れようと思いながら、彼女の元へと歩いていく。

「澪」

「どうも。何と言うか、…………すごかったですね」

 ほう、と溜め息を吐くように。心から感嘆してるのだろうその様子に、またざわりと胸が騒いで。

「そうね、……」

「かすみ、去年からの入部なんです。熱心に部活に通ってるのは知ってましたけど、ここまでとは」

「……そうね、素晴らしいと思う」

 それは、事実。認めないわけにはいかないし、私も、たとえジャンルが全然違うとしても、学ぶべきところは多いだろう。

 歌に、感情を乗せてみる。

 昨日たまたま見出した、伶くんへの恋心を利用するというやり方。わからない。私自身がまだまともにそれを意識して使えてないから、何とも言えないところなのだけど。

 けど。彼女が歌っていた曲は、イタリア語で作られた、恋心を歌う曲。

 そこには、単に歌唱技法に留まらない、感情を乗せた響きが隠れている気がして。

「……澪、次はいつ空いてる?」

「え? い、今ですか……?」

 まだざわつく人の中だからか、澪は周囲を気にするようにするけれど。心に余裕がない。素晴らしい公演の余韻に、本当は浸らせてあげるべきだろうに。話題を次に進めてしまいたい。未来の予定で埋めてしまいたい。

「その、……あとで」

「お願い、その、……今日の公演でね、」


 感銘を受けたから、早く試したいとか。

 そういう言い訳を重ねようとしたところで。



「澪ちゃん……っ!」



 どきりと、心臓が鳴った。

 半ば叫ぶような呼びかけは。振り返るまでもなく、彼女の方から駆け寄ってきて、澪と私との間にするりと入り込む。その手を澪が無邪気に取って、嬉しそうに笑う。

「かすみ! お疲れさま、すごかったよ……!」

「あ、……う、うん。その、……ありがとう」

 頬を染める彼女は、何かを含めた表情で、ちいさく頷いた。

 その視線がこちらを向く。

「……あ、桜条さんも、……ありがとうございます」

「いえ、……素晴らしかったわ、すごく」

「あの、…………はい」

 心を込めて歌いました。そう言った彼女がまっすぐに目を上げて。澪の手を取って。

 またざわりと、胸がさざめいた。



 ■



 澪ちゃんに少しだけわがままを言って。

 合唱部の片付けが終わるまで待ってもらった。

 桜条さんは送ると言ってくれたけど、遅くなっちゃいそうですと言ったら、そう、と小さく呟いて、そのまま帰ってしまった。

「あ、かすみ」

「ごめん、……待たせちゃったよね」

「ううん。公演のこと思い出してたら、結構あっという間だったかも」

 本当に。

 澪ちゃんって、ずるい。

 私の気持ちには全然気付いてはくれないのに。

 私に隠してることがあるくせに。

 私の心をくすぐって、どんどん好きになってしまう。

 こんなに優しい人なのに。こんなに残酷。


「ねぇ、澪ちゃん」

「うん?」


 二人の帰り道。ふと。そう言葉を零してしまった。たぶん。歌った後の高揚感と、その後澪ちゃんの元に向かったら、桜条さんが話してたので一瞬、心の底に隠した言葉が、溢れそうになったから。

 だから、栓が緩んでたんだと思う。

「私、ちゃんと澪ちゃんのために歌ったよ」

 そう言うと、澪ちゃんはすこしぽかんとしてから、くすりと何の疑いもなく、微笑んだ。

「それならよかった。でも、……正直一声目から、緊張してたなんて忘れるくらい綺麗だったから。多分私がいなくても、かすみは平気だったよ」

「そんなことない!」

「…………そう?」

 ぱちりと、目を丸くした澪ちゃん。

 ああ。思わず、口調が強くなってしまった。

「そんなことない。澪ちゃんに歌ったの」

「…………そっか。ありがとね」

 ずるい。ほんとに全然わかってない。にこりと、優しくそんな言葉も受け入れて。全然ありがとうじゃないってことも、わかってないくせに。

 せめて私を信じてって歌詞があったけど。それだけだと、ずっとつらい。ただ信じてくれるだけだと、それを裏切る気持ちを持ってる私は、いつまでも本当のことが言えない。

「――――」

 ちいさく、歌を口遊んだら、澪ちゃんは楽しげに耳を傾けてくれた。だから、言えない分の思いを込めて、澪ちゃんにだけ聞こえる声量で、そうして一曲歌ってあげた。

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