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030 -ライバル-


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「澪ちゃん」

「あ、かすみ」

 段々夏に近づいていく陽光を遮断してくれているテント、の端。

 ぽつりと椅子にかけた私の元に、天使が一人。

「澪ちゃんもお昼までお休み?」

「そうだね、全体競技は何もないし。そこ空いてるから座っていいよ」

「あ、うん。ありがとう」

 一応クラス別のテントではあるけど、大体皆行ったり来たりしているし、各々好きなポジションで見学している。グラウンドの端では、有志による応援活動……ファンクラブによる推しの応援まで行われているし。

 ここにも一人、ファンクラブを持っている子がいるわけだけど。ただ、かすみは体育祭で目立ちたいタイプではないから、平穏を乱さないように個々人ひっそりと応援している……と風の噂で聞いた。

 そうして示した椅子に座るかすみは、当然だけど体操服に身を包んで、ふわりとジャージを羽織っている。清正院のジャージはそれなりにこだわって作られているけど、それでもジャージはジャージ。それをこれだけ可憐に着こなせるのだから流石だし、動きやすいその服装は彼女の柔らかな輪郭にマッチしていて、ファンでなくとも眼福だと言いたくなるほど。

「ふふ。クラスの人に、驚かれなくなったね?」

「まぁ、さすがに慣れたんじゃないかな」

 一緒に登校するようになって、お昼も合流式じゃなくて迎えにくる方式に変えてしばらくは、クラスメートは学園の有名人に仰天してたし、相手の私に毎回首を傾げていたけど。さすがに日常風景になりつつあるらしい。ただもちろん人気に変わりはなく、気付いた数名はかすみに軽やかに手を振って挨拶をしている。


 そうしてのんびりしている間にも、グラウンドでは三年生の有名人、犬伏先輩が長距離走で陸上部相手に無双していて、大歓声が巻き起こっている。本来クラス別のところにわざわざ別で出走枠が用意されているらしい。フェンシングの枠で特待生になったらしいけど、それ以外の競技もほとんど学内一の成績というのだから、スタミナもポテンシャルも本当に化け物だ。

「運動できる人はすごいね……」

「そうだね……」

 テントで区切られた向こうの日向で、輝く彼女。

「……ほんとに、惚れ惚れするね」

 一応。アイドル活動の為にこれまで何年も鍛えてきた分、私もそれなりに運動ができる側になっている、のだけど。こうして『本物』を目の当たりにすると、明確に存在する才能の壁を、はっきり認識させられる。

 ファンが付くのも頷ける。彼女の走る姿は、それだけで、ただ美しい。

 努力を軽んじる言い方はそんなに好きじゃないし、この言葉で片付けていいとは思えないけど。それでも彼女は間違いなく、天賦の才を備えていた。

 レースも後半になって、むしろ速度を上げてきた陸上部。ペースを乱さずに走っていた犬伏先輩は、一度抜かれると楽しそうに笑みを浮かべて、合わせて足を加速させる。負けじと急ぐ陸上部の横で、彼女の足は野生動物のそれのように、しなやかに地面を蹴って、追い抜いた。

「……すごい」

 思わず、といった様子でかすみが漏らした声で、はっと思考が戻る。犬伏先輩の様子を見ながら、人が魅せられるということとは……とかいつの間にか思考が飛んでいたから、これは職業病だと思う。走る、というそれだけで、グラウンドに注がれる数多の視線を一人占めできる彼女。

「すごいね。本当に」

 アイドル、飛鳥井伶が目指している方向は、彼女に近い。ステージの上のパフォーマンスだけで、初めて見た誰かにも振り向いてもらえるような。見ている全員の心を揺さぶれるような。



 頭の中に浮かぶ、デートに現れた撫子さんの姿。和装の彼女に、目を奪われた時。

 歌やダンスは、最後の最後のエッセンスを除けば努力でカバーできる。

 けど存在感やオーラというものはやっぱり、天性で備わるもので。

「……あ。桜条さん、次出場みたいだね」

 うん、と。

 頷く前からもう既に、視線はそちらに吸い寄せられていた。

 ――桜条撫子。

 この私立清正院学園において、最も人を惹きつける存在。明らかに犬伏先輩が主役になってるこの体育祭という行事ですら、彼女がグラウンドに現れると、そこがこの空間の中心に、重心になるのだ。



 そんな彼女がもしも、ライブをしたら。

 ――想像した途端にぶるりと身体が震えて、けれど口元は笑みを形作る。

「澪ちゃん?」

「ううん、ごめん、……何でもない」

 あるいは。アイドルとしての私が積み重ねてきた自信さえ、粉々に打ち砕かれるかもしれない。

 そんなの。



 ――そんなライブ、見たいに決まってる。



『さぁ始まりました!! 障害物競走の注目選手はなんと言ってもこの方、生徒会では副会長も務めております桜条撫子さん!』


 ぱぁん、と弾けた音を合図に、選手たちが一斉にスタートを切る。アナウンスでも盛大に注目を浴びる中、ひらりと客席に手を振る余裕さえ見せながら、撫子さんは涼しい顔で最初の障害物へと迫る。

『――普段から部活動で精を出している人たちには、普通の競技じゃ勝ち目はないわ。でも障害物競走なら、わたくしでも一位を取れる。見てなさい』

 私がどの枠にも出ないと告げたら色々文句を言われて、その折に彼女が言っていた言葉。

 正直、障害物競走のイメージは、真面目な種目の一つというよりエンタメ枠の一つという感じだし、普段から部活に精を出している方が有利じゃないかとも思うけど。

『速い、速い! ものすごい速さだ!! 桜条撫子、多くの選手をネットに残し、スプーンの元へと駆けていきます!!』

 ものすごい滑らかさでネットを潜っていく彼女を見ると、その本気度が窺える。いやもう間違いなく、自宅で練習していると思う。多分障害物競走そのままのセットが桜条家の庭とかに用意されてたはずだ。

『ああっ!! 最速でネットを潜った桜条選手に続くのは、運動部の皆さんを抜いて茶道部、朝日奈選手!! ネットを吹き飛ばす勢いで駆け抜けていきます!! C組代表のサッカー部もネットを抜けた!! がんばれ、がんばれ!』

 ピンポン球の乗ったスプーンを手にした撫子さんは、一度目を閉じて深呼吸をする。その間に朝日奈さんが血走った目で追いついて、手にしたスプーンから早速ピンポン球を落下させて。目を開けた撫子さんは、そのまま緩やかに駆け出し始める。

『こ、これは……!! 桜条選手、風と! 風と一体化しています!! ぐんぐんと伸びていく加速の中も、ピンポン球は落ちない!!』

 いやどうやってるんだ本当に。と思ったけど、よくよく見てみればピンポン球の動きに合わせてスプーンの角度を微細に調整しているし、風が思い切りピンポン球を持ち上げそうになった時は、その分思い切り角度を付けて受け止めている。

 いや。どうやってるんだ本当に。

「すごいね、桜条さん、……なんでも出来ちゃうんだ」

「う、うん……」

 そんな感心したように、切なそうに言うこともないというか、あそこまで行くと怖いけど。

 でも。一切手を抜かずに競技に取り組む彼女は、やっぱりこの場の中心だ。

 たしかに、彼女はオーラがある。存在感がある。華やかで、人の目を惹きつけて、それは素の私とは全然違う。

 でも同時、彼女は間違いなく、努力を重ねて、彼女であろうとし続けている。

 私が私とは別人になろうと、足掻いているのとは全然違う。

『――桜条選手、いよいよ辿り着きました借り物競走! 清正院学園の借り物競走は難易度がピンからキリまで揃っています、お題で一体何を引けるのか、時の運もまた実力のうち!!』

 そうして。

 グラウンドの中心で、紙を広げた撫子さんと、ぱちん、と目が合って。


 ……うん?


『あーっと! 撫子選手、一つのテントへ目がけて真っ直ぐに駆け出した! 目標は既に定まっているようで迷いのない足取り!! 続いて朝日奈さんがお題の紙を――』

「えっ!? えっ、み、澪ちゃん!? こっちに!!」

「い、いやいや!? え、まさかだよ!! え!? いや違うって!!」

 ぐっとかすみが腕を掴んできて、慌てて立ち上がる。そんな微妙な動きも完全に彼女の目は捉えていて、いやどう考えてもこっちに来てる。

「だだだっ、だめ!! ダメ!! そんなのダメだからっ!!」

「素山澪っ!!!」

 ぎゅっとかすみが胸元に腕を引き寄せて、同時に撫子さんが叫んだ。

「来なさい!!」

「だ、だめっ……」

「花糸さん!!」

 ばっと、お題の紙を突き付けられたかすみははっとして、から顔を赤くして、手を離す。

「……え? え!?」

 借り物競走のお題で、人が借り物で、顔を赤くするような。

 いや。いやいやいや。いやまさか、そんなベタなわけ。

 動揺を処理する間もなく、響くアナウンスを背に、撫子さんがぐっと腕を掴んで。

『あーっと朝日奈選手、これはラッキーお題なのか!? はじめに潜ったネットへと一直線に駆け出したぁ!!』



「澪。死ぬ気で、走りなさい。行くわよ」

「……え? わ!!」



 駆け出した彼女。足を出して、瞬間、集中する視線。アイドルの時に感じるこのプレッシャー。そして状況。一位を目指す撫子さんと、ラッキーお題でゴールがずっと近い朝日奈さん。

 一瞬のそんな思考でぐるっと、思考を切り替える。

 しかたない、から。

 そのつもりはなかったけど、本気で走る。


「…………っ」

「…………!!」


 お互い、喋る余裕は一切ない。スピードを上げたら撫子さんも加速して、それは朝日奈さんにというより、むしろ私に張り合うような加速で、でも彼女が加速すればその分、繋いでいる手の距離分は速く走れるから、どんどんと。


『は、速い……!! 桜条選手と、連れてこられた……えっと、どなたかすみませんわかりません!! でもとても速い!! 運動部でしょうか!!』

 興奮した様子のアナウンスも、視界の隅でゴールへと疾走する朝日奈さんも、グラウンドを取り囲む人々のざわめきも、ステージ向こうの歓声のよう。


 隣で私を追い抜く一歩を、更に加速させた足で追い越す。

 抜いて、抜かれて。それはどこか、ステージ上のパフォーマンスを、どこまでも突き詰める感覚に似ている。加速してもし足りない。でもすればするだけ心地よく、まだまだ先が見えてくる。



『――追い抜いた!! 朝日奈選手を追い抜いて桜条選手がゴール、ゴールしましたぁ!! 隣の彼女も、同時にテープを切りました!!』



 するりと、腹筋に沿うテープが緩んで、グラウンドの砂に落ちていく。

 しばし呼吸を整えて隣を見れば、撫子さんは、とても悔しそうな顔で、私を見ていた。

「っ、……まった、く…………なんでかりもの、……が、さきに、いくのよ」

 ひら、と彼女の手から落ちたお題の紙。そのまま飛ばされないように慌てて掴んで、確認に来たスタッフの人に、紙を手渡す。



 見えたお題の文字は、「ライバル」。



「……いい顔しすぎよ、ほんとうに」

「撫子さんも」

 くやしい、と素直に漏らす彼女がそれでもたしかに、口元を緩ませていて。

 多分同じ顔をしてるんだろうな、なんて思いながら。


 背後で上がった朝日奈さんの叫び声を、聴いていた。

「いやライバルならわたくし連れてけや!!!!」


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