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「はぁ……はぁっ……」
全身汗だく、息も荒くてもう最悪。
どうにか開いた扉から出て、何とか呼吸を整える。
「撫子、……あらためて、ありがと。ほんと危ないとこだったけど、助けられたよ」
すぐ傍らの伶くんは、あんなに大騒ぎした後なのに、暗闇から出たらすっかりアイドルでありえない。息もそんなに乱れてないし、にこりとした微笑みに、健康的な汗が映えていて。
って、いうか! さっきあれだけ動揺してたのに、その影もすっかりなくなってるし。と。というかっ、動揺してたってことは、意識、してくれたってこと、なの? え? だってさっきの。
恋への一手にしてはやりすぎだったかもとか、でも流石に勝ち筋見えたんじゃない諦めないのよ舐めんじゃないわとか、なんか返答怪しかった気もするけどとか、いっぱいすぎてあまり覚えていない、とか。
思考が目まぐるしく回転して、どっちにしろ頬は赤くなり。
とにかくも、状況把握が先決と。スマホを見た途端にさっと、今度は血の気が引いていく。
「あと十五分じゃない!」
「えっ!? 嘘」
「早く着替え、あ、……」
「自撮り、」
「――もういい! から! いい、十分よ! あとほら目は逸らしてるから!」
本当に。四枚とも校舎が背景とか制服に身を包んでるとかそういう部分を抜きにすれば、伶くんのSNSに上げても問題のないクオリティ。ここまで望んでいなかったけど、間違いなく家宝にできるし、高画質印刷の算段も立ててる。ポスターサイズにできないかしら。
「ごめん……お待たせ……しました」
「あなた、……――っ」
振り向けばすっかり素山澪。見慣れたはずの彼女が、目が合った途端ぱっと横へ顔を逸らし、て。その動揺でこちらも思わず、なぜか一瞬、鼓動が跳ね。
たけど。いや、……いやいや、間違い。
「ちょ……ちょっと! 素山さん!」
「あ、う、うん。そうです。ごめん」
「そ、そうよ! まったく」
まったく、よね? ほんとに。ややこしいことしないでちょうだい。私が好きなのは伶くんなんだから。
「っと、とにかく。皆屋上に向かってるみたいよ。総当たりしたらあの子たち、そこに立て籠もってたみたい」
「あ、屋上ですか。あはは、あそこの立ち入り許可出しちゃうの、秋流さんっぽいですね」
「笑い事ではないけれど……というかほんとに、すごく大変だったんだから」
「う、……まあ、そうでしょうけど」
「手伝うなと言ったのはわたくしだから、いいけどね」
でも実際。私は色々駆使した結果どうにか追えたという感じだけど。素山さんなら、一人だけでも辿り着いただろうとは、思いはする、けれど。
「うーん……一応、素直なところはありますけどね、小薬さんも」
「あなたにだけでしょ」
「いえ、……いや、そうかも、ですけど」
去年の素山さんが編入試験で取ったという、全教科ミスなし、大学レベルの難問さえ軽々解いての満点という成績。今年の特待生はすごいらしいという噂だけが広まって、入った本人の影が薄すぎて忘れられて。それをしつこく覚えていたのは、中等部まで首席だった私と、試験態度が適当でいつも数点落とす天才問題児くらい。
要するに。あのバカでさえ、素山さんのことは認めてるのだ。
「ほら、……とにかく。こっちは任せてくれていいから。あなたは配信に備えなさい」
「す、すみません」
「別に良いわよ。わたくしも遅れるつもりありませんし、……万一遅れることになったら、あの子たちには地獄を見てもらうつもりだし?」
「は、あはは………」
いや。確かに、素山さんは首席だし満点はまぁいいと思うけど。私はそれでも、認めてないし、もしかしたら一人でも行けたかもだし、いずれ越えるつもりだけど。
でも。
ただ天才、というには彼女は少し、努力家すぎるようだから。
「……あの。素山さん」
こほんと、咳払いしてから。駆け出そうとした彼女を呼び止めて、目を向ける。
太陽は随分傾いていて、強いコントラストの中、その顔かたちはすこし曖昧。
「遅くなったけど。……あとでスパチャ投げるけど、……ライブ、ほんとに、よかったわ」
一応。
それくらいは、認めてあげる。
「……私が受け取ってもいいの?」
「うーるさい!! さっさと行きなさい!」
何で! 伶くんの時はあんなに察しがいいのに、あなたになるとこうなのよ。
そのまま何も言わせずに追い立てて、逃げるように帰る背中を見つめながら。
まったく、と呟きが口から漏れる。
まっすぐ差し込む夕陽のおかげで、すこしだけ頬が熱かった。
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正直に言えば、配信のために急ぐというより、この動揺から逃げ出すためで。
だからすこしだけ、それを引きずっていた。
「――っわわ」
「きゃっ!?」
廊下は走ってはいけない理由も、こうなるとよくよく理解できる。
どこかで見たような構図、だけど幸い変装してないし。相手だって、と思ったら。
「あっ、澪ちゃん!」
「かすみ!? あっ、ご、ごめん、怪我なかった?」
「ううんっ、怪我は大丈夫、だけど……」
咄嗟に駆け寄って確かめる、と突き刺さる彼女の視線。
「あ、私は大丈夫だよ。どこも痛くないし」
「それならよかった、……けど……その」
言葉を選ぶようにしながら、彼女はすこしだけ目を逸らして。
「さっき、……澪ちゃん、呼び出しされてた?」
「あー、うん、後輩たちが色々」
するり、と再びまっすぐ見つめて。
「……何かあった?」
「……いや?」
うわ、不自然。
かすみ相手には通用しないと知っているけど、きっと察して踏み込まないのも分かってるから。
「っごめん、ちょっと急いでて。もしどこか痛かったら、すぐ保健室に行くんだよ」
「う、うん……」
本当に怪我がなさそうかだけ確かめて、素早く立ち上がる。彼女のもの言いたげな視線が、さっき抜けてきた倉庫の方を見て、見開かれたように思ったけど。その辺突っ込むと藪蛇だろうし、とにかく先を急ぐことにする。
切り替え、そう、切り替えが大事なのだ、アイドルは。
だから、そう。
きちんとアイドルとして、切り替える。
「お、なこさんから! えーっと――」
カラフルに並ぶメッセージの中、最高額を示す色。
『すこし遅れましたごめんなさい! 三列目ですぐ近くで伶くん見られて感動でした! 新曲のパフォーマンスも最高で伶くんのファンになった時のこと思い出しました。これからも一生推しです!』
「――、スパチャありがと~! 全然大丈夫、来てくれてありがとね。いやぁ、うれしい感想だな、三列目ってほんと良い席だし……なこさん確か、まだ全然有名じゃない時から追ってくれてるよね?」
読み上げも返事も動揺ゼロで、三十分遅れたということは後輩たちは大変だなとか一切考えない。いやほんとに。
「今回のライブ、実は初心に返るっていうか、オレがアイドルとしてしたいこと、込められた気がしたんだよな。……い、いやー。あらためて言葉にするのはちょっと、……え、皆ちょっと! コメントが言わないといけない流れになってるって! うわ、スパチャも続々と……」
話題はそのまま初心に移って、照れながらもすこし引っ張って。
『なこ』と名乗っている彼女は、ファンとしての歴も長ければ、スパチャの合計額だったりも、伶推しの中ではほとんどトップ。良くも悪くもファンたちにも認知されていて、すごく正直に言うのであれば、アイドルとしても失いたくないファンであって。でも特別扱いはもちろんできないから、どうにかバランスを取りつつも、内心とても感謝している、そんなアカウントだったけど。
「いや、初心さ……今後のハードル上がるからあんまり言いたくはないんだけどさ、……オレがアイドルとしてあげられるものを考えた時に、あ、これはあくまでオレが、の話ね? その、……オレはアイドルとして、パフォーマンスで魅せたいな、って思ってて。そこは裏切りたくないから」
本心。からの言葉を伝える。そうすると少しだけ、罪悪感が薄れていく。ライブの成果を褒めるコメントが並んでいって、懐も心も温まる配信が終わった、あとに。
「……」
どっと押し寄せる罪悪感。配信上、「なこ」としてはあんなに良いファンの彼女。それを既に裏切ってる負い目と、それに従うこと自体も。
なのに。こうする理由は正直、うまく説明できない。それはある種、プロ意識かもしれないし、パフォーマンスでは裏切りたくない、ということかもしれない。もっと俗っぽく、最高額をくれる彼女に失望してほしくないのかもしれない。
桜条さんが私にどうしてほしいのか。
かしゃ、かしゃ、かしゃ。
配信後の自撮り。普段は全然撮らないそれを、構図も映りも吟味しきったその一枚。
そのまま、桜条さんに送りかけて。
「……」
こうすること自体、ちょっと減点かもとも、思い直して。
そう。伶にどうしてほしいのか、考えるのはそれでいい。多分。
だから。四枚も送って今更だとかも思いつつ、公式SNSを開く。マネージャーのチェックもOKで。
『月曜から配信見てくれてありがと! ライブの感想もいっぱいもらえて、伝えられて、早く次のライブしたくなったよ。君がいるから走れてる!』
配信後の更新に、いつも上げない自撮りがあるからリプも大体それで埋まった。
一応。桜条さんにリンクを送ろうかと思ったら、先にリプライ通知がなこさんからぴこっと。
『ありがとう、自撮りほんとうれしいです』
……まぁ、ノルマ達成、でいいのかな。