「新藤さん! あれ!」
原付で県境の大きな川を越える大橋を渡っている時、背中から凜が大きな声で呼びかけた。ベルをジャンパーの中に入れて、新藤の間に座らせているため、かなり背中が気持ち悪い。だが、凜の指さす方へ眼を向けると、新藤も驚きを隠せなかった。思わずブレーキを踏み、つんのめりそうになる。日が落ちかけた暗い空に、赤い炎が上がっている。
「養福寺の方じゃない!?」
「そんな、まさか……」
だが、それは凜の示すとおりだった。嫌な予感は的中し、進むほどに消防車が何台も新藤たちの原付を追い越していく。下町のここでは家と家の距離も近いため、こんな風の強い日は燃え広がる可能性もある。そして、養福寺の付近では、すでに危険だからと進入することも遮られる有様だった。
「親戚の家なんです! 従兄や子どもたちもいるので」
遮る警察官に必死で訴えるも、近づくことは許されない雰囲気だった。近所の野次馬もどんどん集まってきていて、空を赤く染める炎を、誰もが驚きのまなざしで見上げている。
「新藤さん、こっち!」
呼ばれた方をみると、凜が手を上げている。どうやら、入り込める隙を見つけたようだ。
「あ、ちょっと!」
警官の制止を振り払い、新藤が凜の方へ向かう。そして、ベルと一緒に、人込みをぬって寺の中に入り込むのだった。寺は、大きな炎を上げていたが、門は狭く消防車が入れないため、塀の外からしか消火活動できないことも、被害を拡大させているようだった。だが、敷地内の人の中に、新藤は従兄やその子供たちの姿を見つけてほっとした。近づくと、彼らも驚いたようだった。
「え、健作? どうしてここに……」
「ちょっと叔父さんに用事があって。大丈夫か?」
「あぁ。子供らは、もう避難させるんだ。父さんは……、さっきまでそこにいたんだけど」
周作の目が泳いでいることに気づかずにはいられない。やはりここで、何かが起こっているのだ。こんなにも大きな火事で家や職場が燃えているというように、周作からは一切の焦りを感じない。まるで、すべて燃えることを望んでいるかのようにも見える。
「なぁ、もしかして、俊太の姿を見なかったか? あいつ、ここに来ていないか」
「俊太……? いや、知らないな。今日は来客も多くて、バタバタしていて。悪いな、子供たちを非難させるから。お前らも危ないから、敷地内から出ろよ」
それだけ言うと、周作は子供の手を引いて門を出ていく。あの様子だと、本当に優作の無事は確認できているのだろう。
「新藤さんっ!」
再び凜とベルに呼ばれて振り返ると、墓地の方を指さしている。そちらは火事の被害はないようだ。そして、凜の指さす先には、一つの白い浮遊霊がいた。新藤はそれを見て、目を見開いた。原型はない。だが、それは探偵事務所で生活を共にした仲間だった。
「文太!」
人の流れから離れるように、白い浮遊物が舞っていく。凜と新藤が追いかけると、それは疲れたとでもいうように、木立に腰を下ろすように停まった。
「文ちゃんだよね、やっぱり!」
オッドアイの瞳が時々見え隠れする。そして、フワフワの毛玉のようなところも、なにより『感じる』というのが正しかった。ベルも興奮して、二人の足元をくるくると回って、吠える。
「おれ……はる、たすけ……た」
塊は力を絞り出すように声を出し、一瞬、文太の姿になる。そしてすぐに、また煙のような気体となる。触ったら消えてしまいそうで、新藤と凜はただじっとそれを見守るしかない。
「はるって……。まさか、晴人か!? やっぱりここにいるんだな。どうして……もしかして、この火は」
「ちから……なくな……た。おれ……もって……おれい」
文太は、晴人の力を取り除き、助けてくれたということか。隣で、凜が両手で顔を抑えた。あんなにも成仏することを願っていた文太が、自らで道を切り開いたのだ。うるさくまとわりついたけれど、いつも新藤と凜、そしてベルを気にしてくれていた。口は悪かったけれど、大切な仲間だった。
「文ちゃん! ありがとう! 大好きだよ」
白い煙は力を振り絞る様に宙に舞うと、二人に向けて水滴を飛ばす。そして、ベルの頭を撫でるように浮いて、消えた。
「文太が……、最後に会いに来てくれたみたい」
次々と大粒の涙を流す凜を、思わず新藤は胸にすくめた。凜も、迷うことなく新藤の腕の中で声を上げて鳴いている。そんな新藤の顔を、炎が明るく照らしている。と、新藤の視界にあの男が入った。ベルが、男を見つけて大きく吠え始める。
「藤本……」
男の手には、しっかりと真鍮の指輪がはめられている。凜をそっと胸から離す。凜も涙を拭い、藤本の姿に気づく。
「あれ……」
「ああ、あいつまでここに。なんだ? 寺の中を指さしているぞ」
藤本は真顔で、しかし新藤たちに何かを告げるわけでもなく、ただ本堂を指さしている。燃え盛る建物の中に、何があるというのだろう。
「ねぇっ!!」
本堂に顔を向けた瞬間、凜が新藤の腕を引いた。そして、もう一度目を向けた時には、すでに藤本の姿は忽然と消えている。
「……文ちゃんみたいに消えたよ。あの人、幽霊なの?」
「いや……、そんなはず。そうしたら指輪ができるはずないし。それに」
だが、新藤は思い当たることがあった。
「もしかして、指輪の決まりを破った藤本は、守りびとになったんじゃないか? いや、それはあとで考えよう。本堂に、何かあるはずだ」
今にも、本堂は崩れ落ちそうなほど燃えていた。消防士が、全員撤退を叫んでいる。だが、新藤は胸騒ぎがした。混乱する現場で、墓地の備えの水を頭からかぶる。そして、凜が止める間もなく炎の中に飛び込んだ。
新藤には、外から本堂へ続く一本の道が見えたのだ。それはまるで、藤本が進めと言っているようだった。もし、それが娘を失った代償として受け入れろというのであれば、新藤は喜んで従った。だが、あの藤本の顔は、決して新藤を恨んでいるものではなかった。
思ったとおり、炎はまるでノアの箱舟のように、一本の道ができていた。迷うことなく進むと、そこに倒れている人影が見えた。背を低くし、口元を覆っているため、呼びかけることはできない。だが、近づいていくにつれて、新藤は胸の動悸が抑えられなかった。最後は駆け寄って、その姿を抱き上げる。少し顔に煤はついているが、奇跡的に外傷は見当たらない。息があるかは分からなかったが、新藤はそのまま外へ運び出す。ものの数分だったはずだ。外へ出た瞬間、大きく息を吐き、そしてせき込んだ。中から人が飛び出してきたことに気づいた消防士が大慌てで近づいてくる。
「大丈夫ですか! この子は……もしかして、まだ中に人が」
「分かりません……。これは、この子は……僕の息子です」
生きていた。時は流れ、体は大きくなっている。だが、これは間違いなく息子の晴人だ。新藤が流す涙を、火事から助かったせいだと思ったのだろう。消防隊員は撤退を促す。
「とにかく、ここはもう危険です! 離れてください。息子さんは救急車で搬送します」
「新藤さん!」
凜とベルが駆け寄ってくる。凜は少し怯えた様子で、晴人の顔を覗き込んでいる。
「もしかして」
「あぁ、晴人だ。文太が救ってくれた息子だよ」
「藤本さんは、これを教えたかったのね。でも、どうして養福寺に……。だって、叔父さんはそんなこと一言も」
新藤は、その答えを求めるように辺りを見回したが、優作や周作の姿は見当たらない。
「とにかく、考えるのは後にしよう。避難するぞ」
そうして新藤は、燃え盛る養福寺を背に、敷地を後にするのだった。
二か月後。
「いってきまーす」
ランドセルを背負い、勢いよく事務所の階段を下りていく男の子。数か月前まで、軟禁状態にあったことなど誰が信じられるだろう。
「嵐が去るとはこのことね」
テーブルには飲みかけの牛乳や食べ終わった皿が散乱している。凜はソファに腰を下ろし、新藤と自分の前にコーヒーカップを置いた。
「悪いな。大吉さん、大丈夫?」
「おじいちゃんも、こっちの事情は分かっているから。しばらくは、晴人君の気持ちを優先させてって」
「いや、凜も無理しなくていいから。本当、有難いと思っているけど、勉強はおろそかにして欲しくないんだ。それに、バイトだって」
凜が通っていたカフェのアルバイト先では、おかしな出来事があった。凜の彼氏という男とランチをしたものの、それは新藤が過去に出会った幽霊男だった。俊太が残したメモや話の辻褄を合わせていくと、どうやら指輪の守りびと、という奴らしい。
初めは、新藤が言っても信じてくれない凜だったが、次に出勤した際に、誰もその男の存在を覚えていなかったことに驚いたという。幸いにも、凜がそのことを知って落ち込むことはないようだ。他に、色々ありすぎて、気持ちがそこまで整理できないというのも正しいかもしれないが。
「大丈夫。一番大変だったのは、新藤さんと晴人くんよ。俊太さんが、あんたことになって……」
鎮火した寺からは、俊太と瞳の遺体が発見された。銃創や傷跡があって事件化も考えられたそうだが、お互いに傷つけたようで、捜査には発展しなかったという。叔父の優作から、俊太が理沙と晴人を守るために動いていたと聞いて、やるせなさで今も眠れない夜が多い。まさか、晴人の霊力を無くすために、新藤の目くらましをしようと子供まで殺害していたなんて。子供の遺体は発見されていないが、その件で警察署は揺れているという。
「あいつは、本当に俺の親友だ。でも叔父が、晴人の霊力のためといっても、俺に黙っていたことは許せそうもない……。あれから一度話したけれど、叔父ももう関わりたくないと言っている。信じられないだろう。あんなに小さい子を地下に。もし、火事で逃げられなかったら死んでいたんだぞ。晴人に、そんなに強い霊力があったって、本当に思うか?」
「そこよね。じゃあどうして、晴人君は逃げられたんだと思う?」
「それは……、晴人も覚えていないっていうし。きっと、俊太が助けてくれたんだよ」
「瞳に傷を負わされたのに? 牢屋みたいな場所だったんでしょう?」
「それか、文太だよ。最後の力を振り絞って……」
凜は、それ以上反論することはない。だが、納得しているとは思えなかった。寺に乗り込んだ瞳が俊太を傷つけ、火をつけたことだけは分かっているらしい。それ以上の捜査情報を、俊太を失った今、入手することは容易ではない。
「警察でも、分からないことが多いらしい。善さんも連絡がつかないんだ。とにかく、叔父さんも晴人から強い霊力を感じないらしい。俺も、同感だよ。それでいいじゃないか」
指輪は、藤本が持ち去った。凜の彼氏だといった指輪の守りびとも姿を消した。失ったと思っていた息子は、無事に手元に帰ってきた。
「亡くしたものがあるのは悲しい。でも、今は手の中にあるものを守りたいんだ。理沙が一番望んでいたのは、これだよ。晴人だって、これまでのことは覚えていない。言葉だって話すようになった。少しでも、凜が手伝ってくれたら嬉しいよ。だって、探偵事務所は営業中なんだから」
新藤の言葉に、ソファの脇で寝転んでいるベルも吠える。凜もすべてを吹っ切る様に頷く。
「そうだね。また、大変な時がくるかもしれない。でも、その時考えよう。今は、晴人君と一緒に楽しもうか! それじゃあテーブルを片付けて。早速一件、仕事が入っているの。えっと三丁目の雑貨屋が、夜に声が聞こえるって……」
窓から吹きこむ風は、いつの間にか春の温かさを告げている。新藤と凜の会話を聞きながら、ベルはゆったりと微睡む。探偵事務所に、また新たなページが刻まれようとしていた。
……かたかたかた。
事務所の階段で、小さな浮遊物がもがくようにうごめいている。体を無造作に丸められ、自在に動くこともできなくなっている。せめて成仏しようと、存在を知らせようと動くそれは、小動物の命の欠片のようだ。
―あいつに、やられた……。あの子供は、危険だ。だれか……
だが、その声が届くものは、いない。