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81 見つめる未来

「ねぇ、パパ。晴人のおむつを替えているから、お風呂を洗ってもらっていいー?」


「いいよ。でも、えらいなー。おむつが汚れていても、騒がずに待つよなぁ。赤ん坊ってこんな感じなの?」


「分からないよー。でも、夜泣きもないし、ミルクが欲しいときは口を開けるし。優秀っていう意味では確かね。パパの子だからじゃない?」


 天井を見上げ、二人の声を聞きながら、晴人は大きく息を吐いた。会話の内容は理解できたが、それを使いこなすには少し時間がかかりそうだ。だが、側にいる大人をパパ、ママと呼べばいいことは明らかだった。自分がおとなしくしていれば二人は喜ぶし、少し笑っただけで二人も笑った。時々、ママが自分を長い間真顔で見つめてくることには気づいていたが、何を考えているかまで読めなかった。とりあえず命を途切れさせることがないよう、迷惑をかけないことが一番だと判断したに過ぎない。


 首が座り、いつしか四つん這いで動き回り、気が付いた時には歩けるようになっていた。そろそろママに話しかけようと思っていた、ある朝。ママが洗濯機を回しに洗面所へ行ったタイミングで、ベランダに男が立っていることに気づいた。口元に人差し指をあてる仕草が、喋るなというのはすぐに分かった。誰だろうと疑問に思う間もなく、男は窓に手を当てて、外から鍵を解除する。驚く間もなく、家の中に入ってきた。パパよりもずっと若く、顔の造りも自分たちとは異なる。堀が深く、服装の雰囲気も格好良かったけれど、どこか冷たい印象がある。さすがにママを呼ぶために叫ぼうと口を開いたが、晴人はその時になって声が出ないことに気づいた。


「声は止めたよ。君は、指輪の影響を受けたエラーなんだ。問題を起こされても困るっていう話になってね。余計なことをしなければ安全だけど、周りに迷惑をかけたら命はない。……この意味、分かるよね」


 晴人は、男の言っている意味は理解できたが、頷くことは抵抗があった。なんだこいつ、初めに浮かんだ感想はそれだった。その気持ちが通じたように、男が顔をゆがめて笑う。


「君が見えているものは、他の人には見えていない。パパとママ、二人以外にも家の中には色々いるだろう。ほら、そこの本棚の後ろに隠れている霊体。あと、キッチンにもいるね、雪女と呼ばれる部類の幽体だよ。冷凍庫に入りたいのかも、笑えるね」


 ここで、晴人が首を傾げる番だった。確かに、家の中には二人以外の姿が見える時がある。いつもいるわけではないし、消えることもあるから気にしていなかった。あれは、違う生き物なのか。


「そいつらとは話してもいい。君の力があれば、服従させることもできると思う。でも、人間はダメだ。君の成長スピードは周りに合わせないと、君が苦労することになるよ。これは、君のための忠告だ」


 男がそう言った時、洗濯機の音がしてドアが開いた。ママが戻ってきた、と振り返り立ち上がる。変な男がいる! そう騒ごうとして声が出ないことを思い出す。悔しくて窓辺を見ると、男の姿は消えていた。ママが近づいてきて、抱き上げられる。体をひねって、男がどこに行ったのかを探そうとする。


「ほらほら、ぐずらないでー。今日はご機嫌斜めかなぁ」


 ママが笑いながら、背中を叩いてくれる。男の言葉が脳裏に焼き付いている。人間には話せない。それなら、幽霊を味方につけて、あの男を叩き潰してやる。晴人は、ママの胸に顔をうずめながら誓うのだった。





 テレビや大人の話を聞いて、男に言われたとおり周りの赤ん坊に成長スピードを合わせた。身体的な面では特に意識せずとも、できることは限られていた。だが、言葉や知識のスピードなんて結局分からず、晴人は面倒になって一切口を閉じることで日常をこなしていた。おかげでパパとママが心配して、専門の病院に連れていかれることもあった。だが、自分の知能を明かさないためには、喋らないことが一番だと決めていた晴人が、言葉を紡ぐことはほとんどない。文字なんて習わなくても勝手に理解できた。絵本も玩具もつまらない。いつしか、晴人は隠れて幽霊と遊ぶようになっていた。


「今日はベランダで遊ぼう。最近、公園にも行っていないし、ストレス溜まるわ」


 ほっそりと痩せた女の幽霊が首を横に振る。廊下の奥では、ママが掃除機をかける音がしている。


「えー、お前が自殺したのなんて、すごく前だろう? 家の中に入ってきたなら、僕とちゃんと遊べよ。僕は、ベランダでジャンプしたいんだ」


 幽霊は身体を一歩引き、再び首を横に振る。頭は割れ、顔から服にかけて血が流れている。晴人は先週、その幽霊が隣の家から入り込んできたところを捕まえていた。そして、晴人たちの部屋から出られない様に結界を張り、幽霊の事情を聞いていた。どうやら、会社のセクハラを苦に、数年前にマンションで飛び降り自殺をしたということだった。


「僕の言うことが聞けないってこと?」


 幽霊は、今にも泣きそうなほど眉を下げて悲しそうに後ずさる。その仕草にさえイラついた晴人は、ソファに座ったまま、一歩も動くことなくベランダへつながる窓の鍵を開けて見せた。幽霊を視て、にやりと笑う。彼女も危険を察知したのだろう。慌てて逃げる素振りを見せたが、時遅し。勢いよく開いた窓から外へ、その幽体は勢いよく吹き飛ばされたかと思うと、一気に下へ落ちていく。


「あはははははは!」


 最後に見えた瞬間の幽霊の顔に、晴人は笑いが止まらない。掃除機の音が止まり、ママが様子を見に戻ってくる。晴人が大きな声を上げて笑っているのは、リビングのテレビに映し出されているテレビのせいだと思ったようだ。頭を撫でて、釣られたように笑う。


「なに、晴くん。そんなに面白いの、これ? やだ、窓の鍵が開いているじゃない」


 自分の母親ながら、あまりに滑稽ではないか。そう思うと、さらに晴人は笑いがこみ上げた。

 だが、さすが母親というべきであろうか。晴人のそんな遊びも長くは続かなかった。その日も、晴人は朝から周囲を飛び交う幽霊の口を封じては団子状にして、外へ放り出しているところだった。何か引き付けるものがあるのだろうか。晴人の家には、常に幽霊が舞っている状態だ。


 だが、なぜかパパが通ると、その幽霊たちの力が弱まっているようだ。そして、不思議と自分もあまり進んで近づきたいとは思わなかった。時々遊びに来る、『しゅんた』の方が居心地もよく、好きだった。だが、その居心地というのは自分でコントロールできる、という意味である。


「別に僕、誰かと遊びたいわけじゃないんだ。どいつもこいつも、馬鹿だろう? マンションの下の奴、ミニカーを取ったら泣いたんだぜ。低レベルすぎる、お前たちより」


 もはや、晴人の手でもてあそばれている幽体は胴体に顔が埋められていて、答えられる状態ではなかった。昨日、子供たちの輪に入れられたことで、晴人はストレスが溜まっていた。


「しかもあいつ、最後に僕の服に鼻くそをつけてきやがった。今度会ったらただじゃおかねぇ」


 いつもは座ったまま窓の鍵を開けて外へ放り出すが、それだけでは気が済まない。天井高くに放り投げて、落ちてきたものを手で払って今度は壁にぶつける。その遊びを繰り返すうちに気は晴れてきたが、幽体もしぼんでいつしか消えてしまった。どこすっきりとして、晴人がソファから立ちあがった時だった。さっと背後の壁で誰かが隠れた気配がした。そういえば、ママは何をしているのだろう。


「……聞かれたか」


 それを確かめることはできない。晴人は、わざと足音を立ててソファから飛び降りたが、ママの声はしない。いつもならば、遠くからでも下の階に迷惑だと怒るはずだ。恐らく、壁の向こうで息を殺しているのだ。確かめようと、リビングから廊下に出ると、わざとらしくママも顔を出したところだった。顔色が悪い。


「あら、晴くん。もうテレビはいいの? お散歩行く? お昼にしようか」


 矢継ぎ早に飛んでくる質問に、とりあえず笑顔で首を傾げた。その動作が終止符だったかとでもいうように、ママは笑顔になるどころか、表情が凍り付いた。

―周りに迷惑をかけたら命はない。


 あの男の声が、晴人の脳裏に蘇る。もし、ママに見られたと知ったら、あの男は殺しにくるのだろうか。晴人は、初めて『こわい』という感情を知った。


 それからの晴人は、ママをうまく消す方法を考えていた。ショッピングモールで幽体を集めてママを消してもらおうとも思ったが、邪魔が入って失敗した。一見、普通に話しかけて、世話を焼いてくれる。でも、ママが前までと違うのは気づいていた。そして、パパと二人にさせて、どこかに行く時間も増えていた。何かをしようとしている、そんな危機感があった。


 そんなある日、珍しく朝に俊太から電話が来た。俊太は、スポーツやゲームで高度な遊びをしてくれるし、それが大人並みにうまくても褒めてくれるだけで、怪しむことはない。扱いやすい人間だから好きだ。スマホをママに渡すと、俊太と遊びに行くという。パパがいないことは珍しいが、久しぶりに『嬉しい』を感じた。笑顔で頷いた気持ちに、嘘はない。


 何かがおかしいと思ったのは、歩道橋の上で俊太に会った時だった。俊太の身体から血の匂いがして、さらに握った手が小さく震えていた。さらに、三人で遊びに行くのではなく、ママは歩道橋の反対へ歩いていく。そこで、初めて声を出した。


「なに、これ!」


 俊太が一瞬ぎょっとした顔をした後、手を強く握りしめてきた。振り払おうとしても離れない。一気に緊張感で心臓が早鐘を打つ。近くに舞っている幽体を急いで引き付ける。寄ってきた三匹に、ママの方を向いて命令した。


「あの女を殺せ。絶対に」


 視界の隅で、ママが駆け足で逃げていくのが見えた。幽体が追いつく直前、人間の女がママに話しかけるのが見えた。ママと同じくらいの年の、派手な女だ。言い合いをして、ママが走り出す。大丈夫、あの女にできなくても、幽体がどうにかしてくれるだろう。そう思った晴人は、突如俊太の胸の中にいた。


「晴人、いいんだ。もう、分かっている。お前が悪いんじゃない。大丈夫だから。お前は、守られる」


 俊太の血の匂いから、死を感じる。どんなことでも、誰かが話す内容を理解できないことが今までなかった。だが今、俊太が何を言っているのか分からず考えたことが、晴人の隙になった。首にチクリを痛みが走った時、晴人の意識は遠のいていった。



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