まるで娘の彼氏に会うような気持ちで、朝から新藤はそわそわしていた。普段着ないようなジャケットを着て、凜が下りてくるのを待つ。ベルも新藤の気持ちを察してか、興奮したように何度も事務所の中を走っている。
「おはようございまーす! 支度はできた?」
事務所のドアを開いた凜が、新藤の姿を見て止まる。若者にウケない恰好をしてしまったなら着替えようと、凜に問おうとした時だった。凜が両手を胸の前で組み、目を輝かせる。
「ちゃんとした格好もできるじゃん! どうしていつも適当にしているの!」
全く褒められている言い方ではないが、どうやら合格点らしい。新藤は恥ずかしさを隠すために、足元に座るベルの頭を撫でた。
「早く行こう! カフェ、お昼前に行かないと混んじゃうし」
「あぁ」
今日は、凜のバイト先であるカフェにランチに行く約束をしていた。目的はご飯ではなく、どうやら凜の彼氏が新藤に会いたいと言っているそうだ。直接日にちを聞かれたわけではないので、新藤は彼氏の牽制だと思っている。オヤジが若い子に手を出すな、と勢いづいているのだろう。だが、こちらも簡単に落第認定されるわけにはいかない。もちろん、凜に手を出す気など毛頭ないものの、洒落た大人の男であると見栄は張りたかった。
「実はね、今日、新藤さんを連れていくのは内緒なんだ。友達とランチって言っているの」
「え! なにそれ。大丈夫? 俺、痴話げんかに巻き込まれるのなんて、嫌だよ?」
「もー、そういうのはないって。彼は私を信頼してくれているし、新藤さんだよ?」
「マジか。いやぁ、まだまだ男の気持ちが分からないんですねー、凜ちゃんは」
「ちょっと! そうやって子供扱いするの、やめてってば!」
凜の彼氏は、バイト先で出会った料理人で修行中だと聞いている。姿を見たことはないが、話を聞いていると素直な若者のようだ。きっとおいしいのだろうと期待に胸を膨らませて、店のドアを開いた。まだ開店直後とあって、店内にはほとんど人がいない。
「おや、凜ちゃん。早いね!」
レジで作業をしているのは、恰幅のいい男性だ。いかにも食べるのが好きそうな、優しそうな男性だ。もちろん、彼ではないだろう。
「えへ、店長。新藤さん、連れてきちゃった。ここでいい?」
手前のテーブルで待っているよう手で指示をすると、凜は奥に消えていく。
「いらっしゃい。凜ちゃん、いい子で助かっていますよ」
店長は、凜から事務所のことも聞いているようだった。水を置いて挨拶を済ませると、すぐに奥へ行ってしまう。入れ替わりのように、凜と一人の長身の男がやってきた。遠目にも、男が日本人離れした、いわゆるイケてるメンズ風だと分かる。雰囲気から、思わず立ち上がった。
「初めまして。凜がお世話になっています」
軽く頭を下げて顔を見ると、男は爽やかに笑っている。凜も隣で嬉しそうにはにかんでいる。これではまさに、親への紹介だ。だが、新藤はふと男の顔に違和感を持った。友達ではない。親戚でもない。でも、この男を知っている気がした。顧客、もしくは調査対象だっただろうか。それなら、いい男ではないかもしれない。
「お越しいただき、ありがとうございます。突然で驚きました。たくさん食べて行ってくださいね」
「……ありがとうございます」
男の顔から視線を外せないまま、新藤は顎を突き出して挨拶をする。
「どうしたの? 緊張している? 店長が、少し彼もここにいていいって」
「あ、あぁ。そっか。それは……」
どこか拭えない不安感に、椅子に座っても落ち着かない。運ばれてくる前菜やパスタに手を伸ばし、目の前では普段の凜の仕事ぶりについて彼氏が話してくれるも、なぜか味も分からないほどだ。それでも、無理やり喉の奥に押し込んで、凜がトイレに席を立った時、男が新藤の顔を見て吹き出した。
「え?」
何も会話はしていない。面白いこともしていない。それに、男の雰囲気は、凜がいなくなった途端に一変していた。
「ねぇ、本当に僕のことが分からないの?」
新藤は、やはり会ったことがあるのだと、むしろ安心した。しかし、誰だか思い出せない。男の雰囲気を見ると、それほど近しい者ということらしい。
「すみません。もしかして、仕事でお会いしましたか」
念のため、丁重に切り出してみたものの、男は片手を軽く目の前で振って笑った。
「違う違う。うーん、もう十年以上前だよね。君たちは、学生だった。怖いことが好きで、島に冒険にいったことがあるでしょう。爆発で死ななくて良かったよね」
新藤の手から、アイスを食べていたスプーンが落ちる。ごくり、と唾を飲み込んだ。鳥島のことを言っているのは、すぐに分かった。でも、あれを知っているメンバーは僅かだ。
「え」
「さっきから、「え」ばっかり。まぁ、忘れても当然か。僕には秘密の力があるからね。でも、その後も僕は君たちのすぐ近くにいたんだよ。だって、君らがアレを持っているから」
アレ、が何を示すのかは言わなくても分かった。警戒心から勢いよく立ち上がる。すでに店には少しずつ人が入ってきていて、トイレから凜が出てきたのが見える。
「何者だ」
凜の彼氏、というのは偽の姿だ。こいつはヤバい、新藤は思い切り男を睨みつけたものの、全く効果はないようだった。ヘラヘラと笑いながら、凜を呼ぶように手を振った。凜も異変を察知したのか駆け寄ってくる。
「奥さん、あんたに重大な隠し事しているんだよ。知らないでしょ。あんたは一人で、何も知らないで泣いている子供なんだ。この何年も、楽しく観察させてもらったよ」
「なんだっと」
男の制服の胸倉を掴むと、テーブルの上で食器がぶつかり音を立てる。
「ちょっ! 何をやっているの。新藤さん! 離して」
凜の言葉に新藤が手を放すと、男は皺を正すように制服を何度か叩いた。そして、凜の額にキスをする。
「ごめん、僕の言い方が悪かったみたい。だから言ったでしょ。会いたいけど、会わない方がいいって。怒らせちゃったみたい」
子犬のようにしおらし気に、男が凜に謝る。凜の腕を掴み、すぐにでも店を立ち去りたい気分だった。しかし、事情を話すわけにもいかず、一人鞄を掴みお金をテーブルに置くと、店を飛び出した。後ろから、凜の呼び止める声が聞こえたが止められなかった。
数百メートル離れて息を落ち着けると、新藤はスマホを取り出した。俊太の番号を出し、電話をかける。一番に相談したい俊太が、しかし電話に出ることはない。我慢ができず、新藤は次に勤務先の警察署に電話をかけた。つながった途端、俊太への接続を依頼するも、相手は少し戸惑ったようだった。友人でかつ緊急だと告げると、数秒待たされた後に、上司だという男が通話口に出た。そして、思いもよらぬことが告げられる。
「俊太の友達ですか。もし連絡がついたら、すぐに出勤するように言ってください。こっちも、数日前から無断欠勤をされて心配しているんですよ」
どうやら、自宅にはおらず、電話にもでないという。事件の可能性もあるものの、まだ様子を見ている状態だと上司は説明した。電話を切り、新藤の足が震えた。何かが起こっている。何も終わっていない。新藤は、行方の知れない友達を思い、空を見上げて途方に暮れるのだった。