刑事の仕事が板についてきたと思う頃には、数人の後輩と呼べる存在ができていた。命に係わる仕事だからこそ、生半可な気持ちではやっていけない。そんな思いから、つい厳しく接してしまうこともある。後輩が鬱憤を募らせている姿を見た時、まるで数年前の自分のようだと失笑が漏れた。相変わらず、さゆりとの付き合いに進展も後転もない。だが、結婚をする気にはなれなかった。ただでさえ、優先できるプライベートの時間がない。少しの暇を見つければ眠りたかったし、誘われるまま新藤の家に遊びに行くのも最近は面白かった。
一方、さゆり自身も割り切っているように見えた。盗み見たスマホの画面では、最近流行りの出会い系アプリに手を出しているようだったし、振られるのも時間の問題だと思っても、引き留める気力はなかった。
「相談したいことがあるんだけど」
突然入った、久しぶりの理沙からの電話だった。あの水族館での約束を、二人は確実に守っていた。新藤は生まれた第一子を大切に育てているし、理沙も家庭に尽くしている。やはり両親とはうまくいっていないようだが、そこには新藤も理解を示しているという。すでに4歳が近くなっている晴人が、言葉をほとんど話さないということ以外、あの夫婦に心配事はないはずだ。俊太も、あの時の秘密を誰にもいうつもりはない。
「え? それって急ぐ話? 今、殺人事件の捜査本部で何日か泊まり込んでいてさ」
子供に聞こえないように、だろうか。理沙の電話の向こうからは大きなテレビ音が響いている。
「あ、ごめん。そうなんだ。それなら、終わってからで大丈夫」
新藤に相談する、とは言わない彼女の声に、話せない話題だとピンとくる。頭の中に色々巡らせるものの、思い当たる節はない。生まれて来た子供は新藤そっくりだった。これが魔法のせいかは定かではなかったが、顔を見た瞬間、ほっとして泣いた俊太を、迎え入れた新藤は大笑いしていた。今度は、一体なんだ。
「えーっと、大丈夫。それなら、明日の昼でもいい? ちょうど、そっちの家の方に聞き込みに行くんだ」
理沙の相談に乗るために、嘘までつく自分に反吐がでる。それでも、過去の鎖が自分の首を絞め続けていることに、俊太は抗えなかった。
「分かった、ありがとう」
電話を切った後に、後悔する。スマホの画面に新藤の名前を出し、電話をかけようか躊躇する。あれ以来、今度悩んだときは、絶対に新藤に共有すると心に決めたのだ。
「くそっ!」
しかし、新藤に話したとすると、理沙の心は一生頑なになるだろう。この相談がもし、彼女の身に危険を及ぼすもので、刑事の自分に相談しているのであれば、心を閉ざされることは避けたい。スマホをポケットにしまうと、俊太はこの憤りを忘れるためにも早く帰って寝ることにするのだった。
翌日、新藤の家の近くのカフェに着くと、俊太は理沙に連絡をした。待っていたかのように、理沙がすぐに店に入ってくる。そこに子供の姿はない。
「あれ、晴人は?」
確かに、子供がいたらゆっくり話せないだろう。軽い気持ちで聞いた質問に、理沙は顔をゆがめた。
「やめてっ! これから、話すから」
突然の声に、周囲の数人が振り返る。俊太も驚き、周囲に頭を下げる。店員が様子を窺うように、メニューを持って現れた。理沙の家に遊びに行ったのは先月頃。その時に、こんなに悩んでいる様子はなかった。ノイローゼという言葉が頭をよぎったが、それにしては期間が短くないか。
「あ、急にごめん。今、本当にどうしたらいいのか分からなくて。アイスコーヒーを」
「じゃ、俺もそれを」
店員は、カウンターに戻りながら、ちらりと振り返る。きっと記憶に揉めている二人と刻み込まれたことだろう。
「で、何。どうしたの、新藤に言えない話? もしかして、あの指輪の効果が」
「大丈夫。それじゃない」
ふう、と息をついた理沙は、今度は少し落ち着いた様子で話し始めた。
「晴人、あの子は普通じゃないと思う」
あまりにも予想外の一言に、俊太は吹き出した。いつも笑顔で駆け寄ってきて、言葉こそないものの、自分に懐いてくれている子供だ。他の子供と何も変わらない。だが、ひとしきり俊太が笑っても、理沙が頬を緩ませることはない。
「分かった。普通じゃないってさ、IQの検査をしたとか? すごい優秀なのが分かった? どうしよう、俺も勉強を教えてもらおうかな」
「俊太君!」
理沙が少し怒ったように声を出す。再び店員がアイスコーヒーを持ってやってきた。二人の前に置き、離れていく。そこで、俊太も姿勢を正して謝った。
「ごめん、ふざけた。なんか二人って久しぶりだろう。変な感じがして。その普通って、どういう意味?」
少しだけ迷う仕草を見せ、さらに店外に目を走らせる理沙。誰かに見張られていることでも警戒しているようだ。これは、何かがおかしい。
「あの子は危険よ。言葉が話せないのは、演技なの」
まだ吹き出しそうになり、必死でこらえる。ごまかすように咳ばらいをひとつして、先を促す。
「私、見ちゃったの。晴人が、マンションのベランダで誰かと話しているのを。まるで大人に対して命令するような口調だった。そして、そこには誰もいなかったのよ……」
「……そんな。なんかテレビとかスマホの音だったとか……、隣の部屋の」
理沙は、そのどれもに首を横に振り続ける。
「え、じゃあ隠しているっていうの? 何のために」
「それに、この間モールで爆発事故があったでしょう。警備員の方が亡くなったっていう。あの日、私たちもあそこにいたの」
「なに! 無事で良かったよ。あれ、犯人はまだ捕まっていないんだ。爆弾だって見つかっていなく」
「多分、あの原因は晴人だと思う」
あまりにも唐突な内容に、俊太は顎を突き出して驚く。4歳近いこともが、簡単に地下を爆発できるわけがない。
「晴人、少しの間、迷子になったの。私は探したけど見つからなくて。言葉も話せないからパニックになって、放送をかけてもらおうとした時に、爆発が起きて。避難指示が出て、余計慌てたの。そうしたら、急に晴人が側にいて、私の右手を握ってきたの。安心して涙が出て、すぐに逃げた。晴人は笑っていたし、何もなかったから。でも……」
「いや、偶然かもしれないじゃん! 事件に居合わせるなんて」
「それから、時々あるの。晴人が部屋で人形を宙に浮かしていたり、どこかに話しかけるの。でも、私が姿を見せると、途端に笑顔で話さなくなるのよ。もうっ……どうして」
「なぁ、覚えているか。あの男が言ったこと」
水族館で、現れた男が動揺していたのを思い出す。
―それは、やばいんじゃないかな。だって、君ってあの時の……。
明らかに、理沙が妊娠していたことに困っていた。恐らく、あの時の俊太よりも。もし、理沙が指輪の力で生き返った人間であり、その彼女が妊娠したことによる影響を察してのものであれば、晴人に不変が表れても不思議ではないのかもしれない。
「理沙、もうこれは俺たちだけではダメだよ。危険すぎる。然るべき場所に相談に行こう」
俊太はスマホで、俊作の叔父である優作の寺の番号を検索するのだった。