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77 埋め合う隙間

「おかえりなさい。どうだった?」


 探偵事務所のドアを開けると、エアコンの風が当たる場所で気持ちよさそうに眠るベルがいた。そして、その脇に立っているのが、ちょうど沸いたヤカンを手にしている凜だった。


「あぁ、噂どおりだったよ。ただ、実際に泣く子供ではなくて、今日は子供の幽霊がさ迷っているようだった」


「本当? 見たの?」


「横顔が微かに。すぐに角を曲がって見えなくなったよ。両手で目を隠して、泣き声を上げている感じだったな。あちこち歩き回っているようだったけど、母親の姿でも探しているのかもしれない」


「それなら、母親を見つけてあげないと」


 新藤はコートを脱いで、ソファに体を静めた。凜がテーブルに置いてくれたコーヒーカップを両手で触れる。湯気の温かさが、気持ちまでほっとさせた。


「もうすぐ春だっていうのに。まだまだ夜は寒いなぁ。悪いな、こんな時間まで。大吉さんも心配するだろうから、もう家に帰っていいよ」


 ベルは、文太がいなくなってすぐの頃、寂しさからか夜鳴きをすることがあった。だが、最近ではそれも落ち着いたようで、今もぐっすりと寝入っている。日常が、少しずつ戻り始めているのを、新藤は感じていた。しかし、凜は自分のコーヒーも注ぐと、新藤の前に腰を下ろす。何か話があるということだろう。思わず、心の中で身構えてしまう。


「念のため、耳に入れておきたいことがあるの」


 凜がここまで話に入る準備をすることは珍しい。やはり大吉にバイトを辞めるように言われているのか、それとも新藤の仕事のことか。


「おお、何? なんでも言って」


 大人の余裕を見せるための仕草も、声が裏返ってしまっては恰好がつかない。それでも凜は落ち着いて話始める。


「私、最近は友達と保育のボランティアを週に1回行くことにしているの。ほら、和泉町の電気屋の裏に児童養護施設があるの。知っているかな」


「いや、ごめん。分からないけど。そこで事件でもあった?」


「事件とまでいかないかな……。今日ね、そこから俊太さんが出てくるのを見て」


「ふーん、あいつも刑事だからなぁ。ほら、少年の非行とか母親のネグレクトで事情を聞かなきゃいけない時もあるんじゃないの」


「私もそう思ったよ。仕事かなって。でも、職員の人に聞いたら、そうじゃないみたい。人形とか定期的に寄付してくれるんだって」


 凜が、どうしてこんなにこの話にこだわるのか、先が見えなかった。俊太は、晴人のこともよく可愛がってくれていた。子供好きなのは間違いない。それなら、愛情に飢えて困っている子供のために何かをしても不自然なことはない。


「そう、あいつは優しいんだよ」


 新藤の言葉に、凜が眉根を寄せた。心の内まで見透かされるような視線に、腰が引ける。


「なに」


「ねぇ、本当にそう思う? その施設には噂好きのおばちゃんがいてね。教えてくれたの。二年くらい前に、俊太さんに懐いていた男の子、失踪しているんだって」


 今度は、新藤が首を傾げる番だった。


「……どういうこと? 俊太が、その子に何かしたって言いたいの?」


 凜が、鋭い新藤の声に一瞬怯んだのが分かる。それを察知し、今度は新藤も意識して柔らかい声を出した。


「そんなことあるわけないじゃん。職員さんの話から、凜は想像を膨らませすぎ」


 だが、新藤の心臓は早鐘を打ち始めていた。どうして、凜がこんな話をしてくるのか。それは、核心があるからに決まっている。そして、彼女が唯一の武器を持っていることを思い出す。


「まさか」


「そう。私、今日久しぶりに残像が見えたの。何だったと思う? 俊太さんが男の子と手を繋いで、施設を出ていくところだった。もしかして、遊びにいくところかなって最初は思ったの。でも、楽しそうにはしゃぐ男の子に、俊太さんは腰をかがめると、こうしたの」


 凜は、口元に人差し指を立てて当てた。静かにしろ、つまり秘密ということだ。


「いや、それだけで、俊太が失踪した男の子を連れだしたなんて限らないだろう。それに、連れ出してどうするんだよ。あいつに今、子供なんていない」


「分からないよ。私が視たのは、それだけ。施設の中で、それらしき男の子の影だってなかった。新藤さん、私、気になるの」


「分かった。教えてくれて、ありがとう。次に俊太に会った時に、必ず聞いてみるから。なんかの勘違いだって。……でも、絶対に凜からこのことで、あいつに連絡はしないで」


 念のため、である。学生時代から苦楽を共にして、自分の人生の喜びにはいつも駆けつけてくれた友人だ。刑事であり、友達である俊太は、人生で一番信用している。誤解しかけた時もあるが、それももう解消しているはずだ。


「うん、ごめんね。また、明日来るから」


 それだけ言うと、物思いにふける新藤を残して、凜は三階への階段を上がっていった。





 それから何度か夜に街へ繰り出し、調査を進めているうちに、新藤は噂になっている女の霊にも接触することができた。話を聞けば、神社へ子供と行けば成仏できると信じているようだ。彼女は生んだ子供を夫の両親に奪われたまま離縁され、そのまま会うことはなかったという。子供を育てたいという気持ちが忘れられず、この世に残ってしまっているのだ。


「夜に街を歩いている子供は、迷子でも捨てられたわけでもない。家に帰る途中なんだ」


 神社の境内に座り、新藤は佇む女の幽霊に話しかける。思ったよりも怨念は少なく、話もできる霊は珍しい。彼女は涙で濡れる頬を手の甲で拭いながら驚いた。


「こんなに遅い時間にですか。どうして家にいないのでしょう」


「今の子どもは塾で遅くまで勉強しているんだ。昔の寺子屋みたいなものだよ。親も働いているから、迎えには行けないこともある」


「そんなの、危ないです!」


 そうだね、君みたいな霊に遭遇するから。そう言いたいのをぐっと堪えて、新藤は溜息をついた。どうしても、子供への熱量が高すぎる。気持ちは分かるが、このままでは成仏できそうもない。その時だった。新藤の脳裏にあることが閃く。


「そうだ! 母親を探している子供がいるんだ。その子の親になってあげてくれないかな」


 この間の調査で、さ迷いながら泣いている男児の存在を思い出したのだ。目を輝かせて頷く女の霊に、何かしたらすぐに除霊することを条件に、一緒に街へ出た。


「あの子ですか?」


 目的が分かっていると、女が男児の霊を探し出すのも早かった。郵便局のポストの前で、新藤が見た男の子が、今夜も両目を隠して泣いている。


「そう。声を掛けてあげようか」


 新藤は、女の霊と近づき、男児の背丈に合うように腰をかがめた。何を恥ずかしいのか、女の霊は新藤の後でもじもじしている。


「君、おうちが分からないのかな」


 新藤の声に、男児がこくりと頷く。


「お母さんは? 一人なの?」


 男児が、再び小さく首を縦に振った。


「よかったら、このおばさ……お姉さんが、お母さんになりたいっていうんだけど。どうかな?」


 一応、気を遣って言いなおしたが、女の霊の耳には入らなかったようだ。もじもじしたまま新藤の前に立つと、そっと男児を包み込むように抱きしめる。その腕の中で、男の子が大きく頷いたのを、新藤も女の霊も見逃さなかった。ぐるりと勢いよく、気味の悪いほど速く女が振り返る。その顔は喜びで歪み、このまま成仏してしまいそうだった。そうなると、男児が置いて行かれかねない。


「良かった! それなら二人で手を繋いでさ。ほら、神社まで一緒に歩いていきなよ。そうすればきっと、一緒に行けると思うよ。どこまでも」


 新藤の言葉に、女の霊も冷静になったように立ち上がる。そして、すっと男の子の前に自分の手を差し出した。恥ずかしがるように、男の子も下を向いたまま、女の手を握った。そして、新藤を置いて二人は神社の方へ歩き始める。


 すぐに女が振り返り、軽く新藤に会釈をした。時には、こんな平和的解決もあるのだと、新藤も嬉しくなった。そして、女が男児の耳元に何か囁き、二人が小さく笑ったあと、男の子が振り返った顔を見て、新藤は息を飲んだ。なんと、男児の両目はくりぬかれ、真っ黒な空洞だったのだ。だが、口元は大きな笑顔が浮かび、女とつないだ反対の手を新藤に振ってくれる。新藤は、暴れ始めた心臓を抑えるように深く呼吸しながら、手を振り返した。男児のことは、きっと女の霊がこれから守ってくれるだろう。神社で、きっと二人で成仏できるに違いない。


―新藤、晴人の遺留品の側に、二つの目玉が落ちていたんだ! これはきっと……


 あの日、理沙が交通事故に遭い、晴人がわずかな痕跡を残して姿を消した時。息を切らして駆けつけた俊太は、開口一番、悔しそうに叫んだ。落ちていた二つの目玉が、子供のものらしいという断定しかできなかったという。今、目玉のなかった男の子は、晴人ではない。


―俊太さんが男の子と手を繋いで、施設を出ていくところだった。


 凜の言葉が、脳裏で反芻する。


「いやいや、時間も経っているし、関係があるわけないだろ」


 新藤は、すでに見えなくなった女と男児の霊の消えた神社の方角を見つめながら、小さく呟くのだった。




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