努力をすることは好きだ。学生時代も、勉強をすればその分結果となって点数に現れることが嬉しかった。順番が上がったり、人が解けない問題が分かったりすることが、さらに努力を加速させた。だが、それも学生時代までだった。警察官になって、数年。定められたノルマをこなし、上司の付き合いにも最大限に付き合った。結果、三十を前に刑事になるという夢も叶えた。
だが、新しい世界に入るということは、さらに努力が必要なのだと知る。努力は好きだ。だが、努力だけでうまくいかないことも、仕事ではたくさんある。刑事になって一年、俊太はまた壁にぶつかっていた。基本的に行動を共にする上司は体育会系の厳しさで、俊太が何を言っても認めてくれている気がしなかった。日中、付いていくだけでも大変で、わざと撒かれているのではないかと思う時さえあった。
「俊太君?」
最近起きた事件の参考人を追っている時、家の近くで張り込んでいると突然声を掛けられた。驚いて振り返ると、そこには久しぶりに会う友人が立っていた。
「理沙ちゃん!?」
側にいる上司が、視線で会話を責めてくる。
「すんません、大学時代の友達で。ちょっとだけ」
何度も頭を下げて、理沙を塀の脇に寄せる。新藤と理沙が
同棲を始めた頃、俊太は何度か夕飯を食べに行ったことがある。その頃の理沙は、瞳との接触を心配してナーバスになっていたこともあり、定期的に電話をしては様子を確認していた時期だった。
しかし、次第に俊太の仕事も益々忙しくなり、理沙も落ち着いてきた様子だったのでつい連絡が遠のいていた。久しぶりに会った理沙は、まるで時を感じさえないほど変化がなかった。学生のような初々しさを残しつつも、どこか幸せオーラは増しているようだ。
「久しぶりだね、ここで何をしているの」
「俊太君こそ。なんか、随分痩せたんじゃない? 仕事大変なのかな。でも不思議だな、こうやって偶然会う時って、いつも私たちに変化があるの」
私たち、を指すのが自分ではないことくらい分かる。
「もしかして」
俊太がいうより早く、理沙が満面の笑みで答えた。
「そう! ついに、籍を入れました! いつも連絡が遅くなってごめんね。……って、仕事中だよね。また改めて連絡するから」
「待って。そういえば、理沙ちゃんの苗字って藤本だよね。もう一度聞くけど、ここで何をしているの?」
「……前に、俊太君にお父さんのこと話したでしょう? 実は、この辺に住んでいるっていう情報があって。探しているの、だって、やっぱり私の肉親ってお父さんしかいないし。結婚することは伝えたいの」
理沙の答えに、俊太は想定が的中して肩を落とした。そうでなければいいと、祈ったことが虚しい。俊太の様子がおかしいことに気づき、理沙が首を傾げる。
「なに、もしかして」
二人が話しているところに、俊太の上司の鋭い檄が飛ぶ。
「いつまで喋っているんだ!」
野太い声に、理沙の肩がびくりと揺れる。一般市民にまで圧をかけようとする上司に腹が立ちながらも、仕事中に現場を抜けているのは自分だ。俊太は、理沙に「電話をする。今日は帰って」とだけ言い残し、上司のところへ戻った。
夜、仕事が終わってスマホを見た俊太は、着信履歴に理沙の名前を見つけて驚いた。数年前、理沙が精神的に不安定だった時も、電話をかけてきたことはない。やはり、父親に関連することだからだろう。駅までの道を歩きながら、俊太は発信ボタンを押した。すぐに繋がった電波の向こうで、理沙の明るい声がする。
「俊太君?」
懐かしくて、それでいてどこか愛しくて思わず足が止まる。近くのパチンコ店から流れる大音量の音楽が響く。
「もしもし? 俊太君、聞こえている?」
「あ、あぁ。ごめん、近くの店がうるさくて」
咄嗟に口から嘘が出る。足早に店の前を通り過ぎると、電話の向こうの理沙にどう説明しようか頭を巡らせる。最近駅のホームで死んだ男が、過去にトレジャーハンタ―として活動していた。男が会った仲間のリストの中に、過去の仲間の存在があったため、順番に当たって調べていた。
その中に、理沙の父親の名前もあったのだ。理沙から、父親の活動や失踪のことは聞いていた。理沙の父親だという確信があったわけではない。さらに、まさか理沙も父親の居場所を突き止めているとは思わなかった。
「今日、びっくりしたよ。事件に関係しているから詳しくは話せないんだけど、理沙ちゃんのお父さんを、俺たちも探している」
「やっぱり……。お父さん、何かしたの?」
「いや、何もしていないって確認したいだけさ。でも俺の上司、見ただろう? あいつが嫌な奴でさぁ」
「ちゃんとご飯食べている? まぁ、俊太君だって、さゆりと一緒に住んでいるんだから大丈夫だと思うけど」
「あれ? 話していなかったっけ。俺たち、もう何年も一緒に住んでいないよ」
「え! 別れちゃったの?」
理沙の質問に、俊太は苦笑いした。その質問をされると一番困る。喧嘩が絶えなくなって同棲は解消したものの、今でもお互いの家は行き来をするし、一緒に寝る。気を遣わなくてもいいし、一緒にいて違和感もない。ただ、好きかと言われると首を傾げたくなるのだ。はっきりしているのは、昔ほどドキドキすることも、会話をすることもない事実だ。
「まぁ、俺たちのことは置いておいて。お二人さんはとうとう、結婚おめでとう」
「……ありがとう。すごく、照れくさい」
「今度、新藤も飲みに誘うか。あいつ、俺に一番に報告しろ
っていうの」
それからたわいもない会話だけして電話を切った時には、俊太は一駅分歩いてしまっていることに気づいたのだった。
次に理沙に電話をしたのは、それから少し経ってのことだった。失踪中だという藤本が住んでいると情報のあったアパートに本人が姿を現したのだ。迷った末に、俊太は理沙に明日の昼頃にアパートに来るよう伝えたのだ。俊太は、理沙が父親に会いたい目的が、結婚報告以外にあるのだろうということを感じていた。
翌日、警察がアパートを訪ねた時、藤本は部屋から寝ぼけ眼で出てきた。事情を話して任意の事情聴取に応じたところを見ると、藤本が事件に関係ないことは明らかだった。理沙がアパートでその日、何をしていたのかを聞くことはなかった。
しかし、一度つながった糸は奇妙な縁を呼び起こす。今まで、どれだけ一緒にいても何も起こらなかったのに。彼女が幸せの絶頂にいるというのは分かっているのに。あの日、運命はおかしな方に転がったのだ。
その日、冷たい雨が降る春先のことだった。昼間はコートもいらないほど温かいのに、夜は冷たい風が吹く。そして、連日のように雷雨が襲うのだ。父親の情報をやりとりして以降、妙に距離を置いていたのは事実だった。仕事が終わってスマホを見た俊太は、再び理沙の名前があることに緊張した。連絡があるということは、何か悪いことがあったに違いないからだ。俊太自身、朝から意地悪上司に仕事で詰問されてばかりで、体調が悪かった。電話をかけようか一瞬迷いながらも、折り返しをした。数コールだけして出なければ、また明日かければいい。
だが、警察署を出てスマホを耳に当てた瞬間、俊太は手を下ろした。そこには、小さな傘を差して困った顔をした理沙が立っている。自分でも、どうしてそんなことをしたのか、俊太は分からない。それでも、気づいたら体が動いていた。数段の階段を駆け下りると、理沙に駆け寄る。
「ごめん、来ちゃって。お願い、俊太君。助けて」
理沙が見上げて行った言葉に、彼女が傘を持っていることに構わず、自分の胸の中に引き寄せた。一瞬、戸惑って胸を両手で押し戻す仕草をした理沙だったが、すぐに静かになった。それどころか、そっと俊太の背中に手を回したのだ。止まらなかった。そっと理沙を離し、どんぐりのような瞳を覗き込む。数秒待った後、理沙が静かに目を閉じた。今度は迷うことなく、俊太は理沙の唇を奪ったのだった。
「私、新藤君のご家族に嫌われているの。両親はいないし、仕事もキャリアウーマンってわけでもないし。多分、求められているものを何一つ持っていない」
「なにそれ。二人が良ければ、そんなの気にしなくていいじゃん」
学生の頃、新藤の実家にも親戚の寺にも遊びに行ったことがあった。明らかに裕福な家庭であることは分かったが、一方で確かにプライドの高さが鼻についたのは覚えている。普段の新藤から感じる気配と正反対のものに驚き、居心地の悪さから実家に行ったのは一回限りだった。
「あいつ、庇ってくれないの?」
「ご家族は、私と会った時にこっそり言うの。多分、新藤君は何も知らないし……、私も悪く言いたくなくて。ごめんね、つい愚痴りに来ちゃって」
理沙の持っていた傘に二人で入って歩きながら、俊太は向かっている方角が自分の家だと伝えずにいた。俊太が一人暮らしをしていることは、理沙も知っている。暗闇に、雨音と二人の足音が響く。
「それで、もし吐きだしたければ聞くよ。なんて言われたの?」
「……新藤家の恥だって。私は、家族の集まりに来ない方がいいって。……やっぱり、ご家族の全員の合意を待たないで籍を入れた私たちが悪かったのかなぁ」
最後は涙声になっている。新藤に電話をすることもできる。理沙を送っていくこともできる。でも、何年かかっても相手を悩ませている新藤にも無性に腹が立っていた。あんなに何度も告白をして手に入れた伴侶を、少しも思いやれていないことに。好きだけで、幸せにできると信じているお坊ちゃんに。
「俺も、今日は散々だったんだ。無能だって言われた。言葉は知っているけど、まさか生きているうちに誰かにぶつけられると思っていなかったよ」
俊太の落ちた声に、理沙が足を止めた。そっと俊太の手に理沙の指が触れる。
「どうして、真面目に生きているのにうまくいかないことが多いんだろうね」
その通りだ。理沙は自分の過去に悩み、必死で配偶者と向き合おうとしている。自分は、世の中の誰かの役に立ちたくて、仕事に邁進してきた。昇進という形では前に進んでいるのかもしれないけれど、周囲も同様の中、追い越すことが難しい。それなら、何を真摯に頑張る必要があるのだろう。
俊太は、理沙の腕を掴むと家までの数百メートルを無言で勢いよく歩き始めた。玄関の鍵を開けて部屋に入ると、理沙を引き入れて後手に閉める。ドアに理沙の体にかぶさるように自分の身体を押し付ける。首元の匂いを吸い込みながら、理沙と手を絡ませた。自分の中でどんどん熱いものがこみあげてきて、脳内がぼうっとしてくる。
理沙の左手が、俊太の髪の毛から首元を優しく撫でるように下りた時、俊太は理沙の服をたくし上げた。その胸にかぶりつくように唇を這わせると、息をする時間ももったいなく感じられる。どこから手をつけたらいいのか分からないくらい、すべてを同時に包めればいいのにと願う。そんな俊太に、理沙はまるで落ち着くよう諭すように、俊太の頬に数回優しくキスをした後、唇に深く舌を入れてきた。これは、新藤の女。脳内でそれがリフレインするほど、自分の動きが加速するのだった。
朝、目が覚めると理沙の姿はなかった。当然だと思う一方で、またここに来てくれないかと想像する。しかし、俊太の予想を裏切って、理沙との連絡は一切取れなくなってしまった。メールや電話をしても返信はない。まさか、新藤の家に行くことはできないので、ただひたすら彼女からの連絡を待った。
その間、何度かさりげなくさゆりに尋ねたものの、理沙と遊んではいないようだったし、むしろサークルの同期だというのに話題にするだけで機嫌が悪くなることもあった。あれは夢だったのだと自分に言い聞かせ、数か月経った頃だった。
突然、理沙からメールがきた。夜勤での捜査を終え、スマホを見たところ、すぐに会いたいと書いてある。場所や時間を尋ねると、正午に隣町の海辺にある水族館に来て欲しいとのこと。デートにしては無謀に覚えたが、行かない選択肢はない。急いで家に帰ってシャワーを浴び、着替えを済ませる。休む時間もなく、俊太はそのまま水族館に足を向けたのだ。
平日とあって、水族館の中の人はかなりまばらだった。だが、入口にいると思ったはずの理沙の姿はなく、再びメールが来る。どうやら、マナティーのショーを見ているらしい。イルカやシャチではないことに笑いが漏れたが、指定された場所に足を向ける。薄暗い館内に、ショーを見ているのは大学生のカップルらしき数組だけだった。一人で座っている理沙を正面に見つけると、会場を大きく回って声を掛ける。
「久しぶりじゃん。どうして、こんなところなんだよ」
あの日より、少しだけ痩せたように見える理沙の隣に腰を下ろした。理沙は俊太の方を一度見ると、まっすぐ前を向く。本当にあの夜は夢だったのではないかと思うほど、そっけない。もしかして、自分が余計なことを言ってしまったのではないかと不安になり、理沙の手を取ろうとする。しかし、そっと体を引くと、理沙は言った。
「妊娠した」
視界の隅に見えるマナティーの動き。そして、ハイテンションで拍手を促す女性のアナウンス。そのどれもが、一瞬俊太の世界から消えた。脳内の思考が停止し、呆けた顔になる。困る、という表情を浮かべないよう意識した瞬間、理沙が続けた。
「お願いがあるの。私と俊太君には、何もなかった。そうお互いに決めよう」
「え、ちょっと待ってよ。何勝手に決めているの。それに、俺より新藤との方が……その、回数って」
自分でも、最低だと思う。だが、ただ一度だけ関係を持った自分の子供の可能性なんて無きに等しいだろう。それでも、もしその確率が当たってしまったら、新藤は気づかないはずがない。もし、新藤と自分のどちらに似ていなかったら、その確率を探し続けてしまうかもしれない。それが喜びになるか、苦しみになるかは未来の自分のみぞ知る、だ。
「大丈夫。私は、この子を新藤君の子供だって確定させるの」
「……なにそれ。ちょっと、こんなところで話す話題でもないよ。ねぇ、場所を変えて」
「私、お父さんのことがずっと許せなかった。でも、私のことを救ったのもお父さん。その時に、必要なことなんだなって思ったの。私、今なら分かるの」
そう言い切った理沙が、俊太の前に右手を広げた。小さなリングがある。
「……もしかして、これって」
「この間、俊太君がお父さんの家も、いない時間も教えてくれたでしょう。もしかして、家も開けておいてくれたのかな。無事、これを見つけられた。お母さんの部屋から、お父さんが昔盗んだものよ」
「まさか、これを使って」
隣の席を見ると、理沙がはっきりと頷いた。そして、いつの間にだろう。今まで、誰もいなかったはずの理沙の右隣に、大学生くらいに見える男の子が足を組んで座っている。マナティーが輪っかをくぐると興奮したように拍手をしている。俊太が戸惑っていると、男が二人の方を向いた。笑顔から一気に真顔になり、どこか冷たい雰囲気がある。
「話、終わった? また君か。昔に会ったことあるよね。やっと指輪を使おうとするんだ。で、願いは何?」
「私は」
「あ、待って。知っていると思うけど儀式だから、念のため。指輪の効力を使うということは、少なくとも代償を伴うってことをお忘れなく。そして、時を戻すこと、人の生死をいじることはわが身を亡ぼすような呪いを受け入れることになるから気を付けて」
「ちょ、ちょっと待て、お前。誰だ! 突然現れて、何を」
俊太は、どこかこの少年に見覚えがある気がしたが、誰だか分からなかった。少年課で保護した少年にしては大きいし、日本人離れした顔立ちだ。親戚にいるはずはないし……、そんな風に悩んでいると、理沙が言う。
「私の妊娠している子は、確実に夫である新藤君の子供にしてください」
「理沙ちゃん!」
確かに、もし本当に指輪で願いが叶い、理沙が生き返ったのだとしたら、それほど効力のあることはないだろう。だが、突然現れたこの男に告げたところで、本当にそんなことが起こり得るのか。そもそも、もし本当に新藤の子供なら、こんなことをする必要はないのだ。
「え……、君、妊娠したの?」
混乱してどうするか言葉もでない俊太の代わりに、沈黙を破ったのは同じくらい動揺したような男の声だった。
「それは、やばいんじゃないかな。だって、君ってあの時の……。これは初めてだな。相談しないと。あのさ、……おっけー、君の願いは引き受けた」
そう言い残すと、次に瞬きをした時には男の姿は消えていた。信じられない光景に、再び俊太が混乱する。
「いまの、何! ねぇ、あいつが」
「大丈夫。これで、無かったことになるから。でも、知っていて欲しいから連絡したの。身勝手でごめん。でも、もしできるならこのまま、同じようにいて欲しいの」
「……そんなの、無理だよ……」
二人が話している間に、マナティーのショーは終わったようだった。観客が立ち去り、目の前の大きな水槽からマナティーの姿もなくなった。がらんとした会場に残された俊太は、首を垂れ、両手で頭を抱えるのだった。