校門の前に立つと、新藤の足が小さく震えた。校門から見える校舎の中に、ひときわ目立つ大きな棟がある。そして、今でこそ普通に構内を歩いている生徒たちだが、新藤がここで見た最後の光景は、屋上から近藤が落ちてくる姿だった。
「ねぇ、まだ見つからない?」
新藤が横を見ると、サングラスをかけて門の中を隠れて覗き見る凜の姿があった。
「いや、俺も紙を渡されたのは一瞬だし、服装や髪形も違うかもしれないし……。もう一度見たからといって、分かるかどうか」
「でも、近藤先生がどうして亡くなったのか。指輪に関わるなってメモを誰が書いたのかって、その子しか分からないじゃない」
「凜、それにしたって今のお前、怪しすぎるって」
新藤が注意したのと同時に、校内の向こうから警備員が向かってくるのが視界に入る。新藤も少し予想をしていた。女子大学に、大人の男が一人で動き回ること自体、誰かとのアポがない以上、挙動不審になりそうなほど落ち着かない。凜と一緒に来てみたものの、慣れない本当の探偵業に、凜は最高潮に怪しさを発揮している。誰かが通報するのは、時間の問題だった。
「ほらっ! ちょっとお前、サングラスをとれって」
「いやですって! ここでオジさん二人と大学内を見ているなんて、おかしいじゃないですか」
凜の目元に手をやるものの、なぜか形にこだわり必死で抑えている。
「なんだその言い方! 同世代に、俺と一緒にいることを見られるのが恥ずかしいってことか!」
「新藤さん、そんな怒ることないじゃないですか! そういうところですって」
いつの間にか言い合いに発展してしまい、見る間に警備員の距離が近づいてくる。すると凜も存在に気づいたようで、慌ててサングラスを外す。一瞬警備員が迷った様子だったが、再び近づいてくると声を掛けられる。
「あの、生徒さんが怯えているんですが、何か御用ですか」
女子大らしい警備である。新藤がどう答えようかと考える間もなく、凜が先手を打った。
「私、ここの大学生です。サークルの友達と待ち合わせしているんですけど、彼女が出てこなくて。あ、この人は私の従兄で、友達の彼氏なんです」
「……ふーん、あなたが?」
凜が渡した学生証をチェックした後、警備員は新藤を上から下まで一瞥した。疑っていることは明白だったが、構内に入っているわけでもなく、追い返す理由はないようだった。
「もう少しして会えなかったら、帰るんで……あっ!」
新藤は、近くの校舎から出てくる女の子の顔に見覚えがあった。
「あ……いた」
警備員は凜に学生証を返すと、渋々という様子ではあったものの戻っていった。それを確かめてから、新藤は凜を肘で小突いた。
「なに」
学生証をしまっていた凜が顔を上げるのと、こちらに歩いてきていた目的の女子生徒が新藤に気づくのは同時だった。口が一瞬「あ」という形に開かれた後、即座に踵を返す。
「凜、あの子だ」
「え」
そう言うとすぐに、凜はその場から走り出した。凜が向かってくることに気づいた女子生徒も、慌てて一目散に走り出す。だが、高いピンヒールを履いている女子生徒に凜が追いつくのは一瞬だ。新藤が二人の側まで来た時には、女子生徒は凜を睨みつけていた。
「私、関係ないから!」
開口一番、女子生徒は叫ぶ。周囲の生徒が、何事から視線をよこす。これでは、また警備員に捕まってしまうことになる。新藤は慌てて口元に人差し指を当てると、声を落とすように示す。
「違うんだ。僕たちは、ちょっと事情を知りたくて来ただけで、君を責めるつもりなんてない。話を聞かせてもらえるかな」
新藤の言葉に女子生徒は答えず、凜は信用できないとばかりに鞄の端を掴んでいる。それを迷惑そうに振りほどこうとする女子生徒と、凜の攻防を横目で見ながら、新藤は再び問いかける。
「あの日、メモをくれたのは確かに君だったよね。君は、指輪のことを知っているのかい? それとも」
「は? 指輪ってなんのこと? これは、私が彼氏にもらったものなんですけど」
彼女は左手の薬指にはめているシルバーリングを、新藤の目の前に突きつける。嘘やハッタリとは到底思えない迫力だ。凜も、気がそがれたのかゆっくりと手を離す。鞄を肩にしっかりと駆けなおしながら、女子生徒が言う。
「悪いけど、私はあんたたちが誰かも知らない。あのメモに、何が書いてあったのかも関係ないの。突然、あの後に先生が飛び降りたって聞いて、すごい迷惑」
「どうして? 近藤先生に何か関係があるの?」
女子生徒は、明らかに「はぁ?」という顔を、新藤に向けた。自分よりもかなり年上と分かっていてできる態度とは思えない。よほどの傍若無人か肝の座った女なのか。
「だって、私にあのメモをあんたに渡せって言ったの、近藤先生なんだけど。あんた、あの時にやっぱり門の前に長くいたでしょう。先生は気づいていたの。私、近藤先生のゼミの生徒で、その時に先生と一緒にいて。頼まれたのよ」
飛び降りる直前まで、この生徒といたということだろうか。
「あんたは知らないかもしれないけど、先生の研究室から校門ってよく見えるんだよ。先生はしつこいって言っていた。足も悪いから、校門まで行きたくないって」
「俺を部屋に入れるつもりはなかったってことか」
確かにあの日、電車で駅を降りてから、大学の前まで来て少し入るのに迷っていた。それを近藤は研究室から見ていたというのか。一度追い返した人間がまた来て、反吐が出る思いだったのかもしれない。それか、どこか逃げきれないと覚悟を決めたのか。しかし、何からだ。それに、死ななければならない理由などあったのだろうか。
「あ、あんたを入れたくないっていうか。別の人が来たからだと思う。私にメモを渡したのも、多分私を部屋から追い出したかったんだと思う」
「そうか。大学の先生だから、忙しいよな」
「うーん、そうでもないと思うよ。それに、私アイツのこと知っている」
新藤の視線が止まった。凜が身を乗り出すようにして尋ねる。
「だれ! そいつが原因じゃないの」
首を傾げて、一瞬言うのを迷った様子の女子生徒だったが、「多分」と前置きした上で相手のことを告げる。
「あの人、近藤先生のこと「お父さん」って呼んでいた。全然似ていないけど、先生の娘だと思う。前、先生と話しているのを聞いちゃったことがあって。先生、足を引きずっていたでしょう? あれも、娘の何かを庇ったとか言っていた気がする……。きっと嫌な女なんだと思うよ」
「そっか……。話してくれて、ありがとう」
恐らく、女子生徒は近藤のことを慕っていたのだろう。最後の方は、少し個人的な感情が見え隠れしていたものの、話すほどに彼女に裏表はないように思えた。
探偵事務所に帰ってきた二人は、ソファで向かい合って無言で座っていた。近藤が最後に会っていたのが瞳なら、屋上へ連れて行ったのも彼女ということだろうか。果たして、屋上から飛び降りたのは、近藤の意思だったのだろうか。それとも、瞳に何かされたということなのだろうか。その答えは、瞳に聞かなければ分からない。
「あのメモ、近藤先生がくれたなんて驚き。……先生は、新藤さんを本当に指輪から遠ざけようとしたんだね」
「……あぁ。それは、研究室で会った時も言われたんだ。俺たち、もうこの謎から手を引くべきなのかもしれないな、本当に」
凜は、それに答えることなく視線を落とした。二人の間に、沈黙が訪れてしばらくすると、事務所の扉が開いて、ベルが勢いよく走り込んできた。一目散に流しまで走ると、床にある水飲みに懸命に舌を突っ込んでいる。
「おい! 幽霊探偵!」
ベルの後を追うように飛び込んできた大吉が、視界に凜が入った途端に、驚いた顔をする。そういえば、大吉は凜の前でしおらしく過ごしていたことを思い出す。ただ、凜はそんな大吉の豹変に驚くことはない。
静かにソファから立つと、ベルの頭を撫でに行く。恐らく、随分前から気づいているのだろう。大吉一人が慌てた様子で、丁寧な口調に変わる。
「さっき、商店街のコロッケ屋のおばちゃんに聞いたんだけど、最近町で聞く幽霊話があるんだと。夜に、塾帰りの子供たちが幽霊に連れて行かれそうになったって叫ぶらしいんだ。解決の力になってもらうことってできるのか?……でしょうか」
一度言いきってから、凜の後姿を一瞥し、大吉も言いなおす。水を飲み終えたベルが事務所の中を興奮して走り、ソファにいる新藤の膝に飛び掛かってきた。尻の周りについている小者を数回叩いて駆除すると、ベルが嬉しそうにひと鳴きした。凜が、興味なさそうに掃除を始める。
「なるほど。興味深いですね。お聞きしましょう」
大吉をソファに進めると、新藤は胸ポケットから小さなメモ帳を取り出した。