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「おかあさーん、今日の夕飯ってクリームシチューが食べたいなぁ」


「えー、朝はハンバーグって言っていたじゃない。材料がないわよー」


「やだやだやだ。だって、幼稚園のミホちゃんがねぇ、昨日の夜は……」


 母子が、楽し気な会話をしながら背後を通り過ぎる。自分には、もうこんな温かい世界はやってこないと分かっている。どうして、こんなことになったのだろうか。ただ、必死で目の前のものを守ろうとしてきただけだ。その必要があったのかは、今でも分からない。だが、一つだけ言えるとしたら、後悔はしていないということだ。まだ、この世界は守れている。そして、それがこれからも続くことを願うだけだ。土手の川べりに座った俊太は、静かに流れる川を眺めながら、決意を固めるように拳を握った。




 大学を卒業後、俊太は念願の警察官になっていた。試験をパスするだけでも大変だったけれど、実際に交番勤務になってからは体力だけでなく精神的にもきつい日が続いていた。配属されたのは、大学時代の行動範囲内で土地勘があったものの、人口密度が高い場所だった。


 おかげで、万引きや喧嘩の通報は絶えず、夜間勤務だと酔っ払いの保護をすることも日常のため、戸惑うことも多かった。それでも先輩の動きを必死で頭に叩き込み、一通りの仕事をこなせるようになった頃には、季節が何度か巡っていた。


 卒業後すぐは、何度かサークルのメンバーで集まったことがあったものの、それぞれの道に進んだ結果は、まざまざとお互いの距離を感じさせた。仕事も落ち着き、久しぶりに新藤に飲みに行こうと連絡をしようと思っていた時のことだ。


「やめてください!」


 通りの向かいから、鋭い悲鳴が微かに聞こえて俊太は振り返った。非番の日で、スーパーへ買い物に行った帰りである。昼まで寝ていたために、町ゆく人々は幾分ゆったりとしたペースで歩いている。欠伸をしていた口を開けたまま、声の方向を見てぎょっとした。


 そこには、久しぶりに見るサークルの同期が、向かい合った女に怒鳴っているようだ。非番だから警官の制服は着ていないものの、見過ごすことはできない。ただ、交通量が多くすぐには反対側に行けず、数十メートル先の陸橋を渡らなければならない。周囲の人間は二人を避けるように歩いていて、仲裁する者はいない。


「理沙! おい! こっち」


 一応声を掛けては見るものの、通りに現れたバスやトラックの音のせいで、彼女たちの耳に届かないようだ。チッと舌打ちをした後、俊太は急いで陸橋に走り出した。途中までは、二人から視線を外さない様にしたが、陸橋を下りて理沙のいる反対側に着いた時には、理沙と言い合っていた女の姿は消えているようだった。座り込む彼女に慌てて駆け寄って、背中に手を当てる。


「おいっ! 大丈夫か!」


 思わず呼びかけると、びくりと肩を大きく震わせて理沙が振り返った。そして、俊太だと気づくと一瞬驚いた後、頬を緩ませてほっとしたのが分かる。


「え……、どうしてこんなところに」


 瞳に涙の膜が張っていく。ごめんね、と言いながら人差し指で目じりを拭くと、理沙はゆっくりと立ち上がる。ゆっくりと笑顔を見せるが、それが無理をしていることくらい、友達という立場でも簡単に分かる。


「なんだよ、今の奴! いちゃもんつけられたなら、被害届を出しても」


 つい、普段の職場で使う言葉が口からついて出たが、理沙は慌てて顔の前で大きく両手を振った。


「やめてっ! なんでもないの。ほら、あの人、覚えていない? 私たちがまだ一年生の頃、鳥島に行ったでしょう。あそこで、城跡の中で日本兵の遺跡を守っていた女の人。今、こっちに戻ってきているんだって」


「え、まじで? あの人が。随分感じが変わったなぁ。あの時はもっとボーイッシュで」


 話の流れで頷いてしまったものの、すぐに違和感を覚え

る。


「……どうして、その人と理沙が言い合いしてんの?」


 理沙は、俊太の言葉には答えることなく、スカートの裾が乱れていないことを確認している。血相を変えた理沙の顔を見てしまうと、今後もっと大きなトラブルになるのではないかという心配が消えなかった。なるべく事情を把握して、事件になることを避けなければならない。幸い、スーパーで買ったものに冷蔵を急ぐものはない。俊太はさっと周囲に目を走らせると、少し先にカフェがあることに気づいた。


「理沙、時間ある? よかったら、久しぶりだしカフェで話していかない?」


「え、でも……」


 自然と理沙の視線が、俊太の手元に移る。


「俺、今日非番なんだ。誰とも喋っていないから、口を動かしたくて」


 冗談のつもりで言ったが、理沙は静かに下唇を噛みしめている。何かに悩んでいるのは明らかだった。彼女のさゆりが、少し前に理沙とランチをしたと言っていたが、問題がありそうな素振りはなかった。新藤の恋人に無駄な詮索をしたくはなかったが、このまま別れることも憚られた。それは、大学の同期というだけでなく、もはや警官の血も騒いだといっても過言ではないだろう。カフェの席について開口一番、理沙は驚くことを言った。


「久しぶりだね。私と新藤君、一緒に住み始めたんだ。聞いている?」


「え! 結婚するってこと?」


 俊太が驚くと、理沙は初めて嬉しそうに微笑んだ。しかし、静かに首を振る。


「ほら、新藤のおうちって……ある意味特殊でしょう。私のことは認めてくれていないみたいで。ご両親に認めてもらうまでは、まず同棲をすることにしたの。といっても、まずは私の実家に、新藤君が住んでいるだけなんだけど」


「なんだ、それなら大学の終わりと変わらないじゃん」


 軽く突っ込んだところで、店員が注文を聞きにやってきた。コーヒーを二つ注文したころには、理沙の表情も幾分柔らかくなっている。


「それなら、今日の夜は理沙ちゃんの家で、三人で鍋をしようよ。ほら、材料は買っておいたから」


「えー、もう。相変わらず強引なんだから。大丈夫だけど、それなら新藤君にもメールしておくね。それに……、材料もそれだけじゃ足りないでしょ」


 すぐにスマホを取り出した理沙に、舌を出して笑って見せる。店員がコーヒーを、それぞれの前に置いて去っていく。理沙がスマホを鞄にしまったところで、俊太は切り出した。


「今日のこと、新藤にも話すよね?」


 鞄に視線を落としていた理沙の肩が、再び大きく揺れた。この話題には、相当触れたくないのだろう。だが、聞くなら今しかない。


「別に、無理して話して欲しいんじゃないんだ。でも、偶然会ったの? それとも、今までずっと何か付きまとわれたの? 理沙ちゃんも知っているように、俺は今、警官だよ。友達の俊太じゃなくて、警官の俺にだったら話してみない?」


 理沙は迷うように何度か視線を上げ下げしていた。それ以上、俊太も追い打ちをかけることなく、ミルクや砂糖を入れてみたり、一口飲んでうまそうに息を吐いたりする。すると、やっと顔を上げた理沙の瞳には、決意が込められているようだった。問いかけた俊太の方が、尻がもぞもぞとするほどだ。


「絶対に、新藤君には知られたくないの」


 理沙が話すのは、警官の自分だ。これから聞くことになるだろう話が、誰にも言えないかもしれないという覚悟を決めながら、俊太は頷く。


「大丈夫。約束は、守るよ」


 そういうと、理沙は今までの堰が壊れたように話し始めた。


「私の父が、失踪していることはみんなも知っているでしょう? 実は、母が亡くなった直後に、父とは再会しているの。でも、今もまた行方知れず。父はサラリーマンで研究者をしていたけれど、仕事も辞めて、借金があったの……。その原因は、私だったの」


 理沙が話した内容は衝撃で、かつ現実に起きることとは思い難かった。父親がトレジャーハンターで手にした魔法の指輪で、願いを叶えたことで母親が呪われて死んだこと。その願いというのが、幼少から心臓の弱かった理沙が死に、生き返らせることだったという内容なのだ。ただ、何度も手術した痕は、今、理沙の体にはないし健康、そして一切の病気に関する記憶は無くなっているということだった。


 理沙は、今まで誰にも話せなかったからだろう。口を付けることもないコーヒーが、二人の前で冷めていく。しばらく言葉を失った俊太に、最後は理沙が小さく笑った。


「信じられないでしょう? いいの、忘れて。これは、ただの物語。……作り話だから」


 俊太は眉間に皺を寄せた後、真偽を問うことはなかった。


「どうして、新藤に知られたくないの? これから一緒にいるつもりなら、むしろ」


「やめて! 新藤君は、ずっと私の側にいてくれたの。……私は、きっと呪われている。だって、一度死んで生き返った人間なんて怖いじゃない。……でも、もう新藤君を失うことはもっと怖いの……」


 その理沙のすがるような切ない瞳に、俊太は拳の中にあるスーパーの袋の取手をぎゅっと握り締めた。もう近しい肉親もいない若い女の子が、愛情を向けてくれる優しい男を手放すなど、大きな勇気が必要だろう。それに、理沙は悪いことをしたわけではない。どうして、黙っているという彼女を責められるだろう。


「彼女……、近藤瞳は、父が使った指輪を昔から狙っているの。今は、私が持っているといって、何度もこうして待ち伏せをされるんだけど。事情も事情だから、特に対処はできなくて」


 確かに、呪われた指輪だ、生き返りだと警察で話したところで失笑されるのは当然だ。それでも、万が一襲われないとも限らない中、放ってはおけない。俊太には、もうこの答えしかなかった。


「俺、夜勤も結構ある。体力があるのは知っているだろう。とにかく、危険や嫌な目にあったら、すぐに俺に電話して。夜でもいい。すぐに助けに行くから。解決できないと思った時は、新藤に必ず一緒に話そう」


 俊太は、迷うことなく理沙に告げた。その言葉に、理沙は迷ったように目を逸らした。そして、俊太もイエスが欲しいわけではなかった。伝えたかっただけだ。コーヒーを一気に喉に流し込むと、俊太は立ち上がる。


「よし、それじゃあお宅拝見といこうか。俺、キムチ鍋がいいなぁ」


 その言葉に、理沙はやっと顔を上げると小さく微笑んで頷くのだった。


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