想像はしていた。目の前から、あの男が消えた瞬間。そして、『指輪の保持者の資格がなくなった』と聞いた時から。自宅の母の部屋でクローゼットを開けると、指輪のケースが無くなっていた。さらに、今まで自宅に帰ってくると感じていた、父の生活の痕跡のような匂いも感じない。
「それさえ手に入れば、用なしってことね」
言葉とは裏腹に、理沙は父親を責める気持ちは無くなっていた。父の目的が指輪である以上、どうしても目的を遂げるだろう、ということは想定内だ。つまり、理沙が帰ってきた時の行動を見張るだろうと考えられた。恐らく、あちこちの部屋にカメラが仕掛けられているのだろう。なぜ、自分でもそうしたのか分からない。父が持ち去ってほっとした気持ちと、想像通りの結末にショックを受けた思いが入り混じる。本当にあれ以来、指輪の守りびとが現れることはない。
「さっさと世界の終末でも願っておくべきだったか」
自虐的に笑うと、理沙は母親のベッドに寝転んだ。父親はもう、ここには来ないだろう。さゆりと俊太も付き合い始めた今、自分は邪魔な存在である。そろそろ、ここに返ってくるべきなのだ。
自分の通い慣れた学校ではないと、たとえ同世代が溢れているロビーだとしても居心地が悪く緊張する。理沙は、入口のガラス扉を抜けて近づいてくる男性を見て、ソファから立ち上がった。一年半前、あの島で会った時と何も変わらない。顎髭を生やし、スーツを着ている。数冊の本を抱えて顔を上げた彼が、理沙を見つけたのはすぐのこと。まるで、なぜここにいるのかを分かっているかというように、男性は微笑んだ。
「久しぶりですね」
理沙の前まで来ると、頬を緩ませて言う。
「近藤先生、鳥島はいいんですか。この大学に勤務始めたってネットで見ました」
「あなたがここに来たということは、気づいたということですね」
それが指輪の使い方に、ということか。それとも、理沙の父親が指輪で何をしたか、のどちらを指すのかは分からない。今度は打ち合わせの相手にするように丁寧に、そして淀みなく理沙をエレベーターへ導いた後、自分の研究室に招き入れた。
本に囲まれた小さな研究室だが、テーブルの上に紅茶のティーポットが可愛らしく置かれている。缶から茶葉を入れ、お湯を注ぎながら、今度は理沙に座るよう促した。だが、理沙はドアの前で佇み、すぐに本題を切り出した。
「私は、一度死んでいるのですね」
理沙の震えるような声にも、近藤は動きを止めることはない。動揺も、混乱も、何を考えているのか一切悟らせないとでもいうように。
「母の部屋で、私はアルバムを見つけました。どれも入院中の写真でした。私は、心臓が弱かった。でも、今は傷跡も痛みもない。初めは、父が病気を治しただけかと思いました。でも……」
ちらりと横目で視線を投げた近藤は、ティーカップに紅茶を注ぐ。フルーティな香りが鼻をくすぐる。話題と不釣り合いな高貴な匂いに、理沙の苛立ちだけが募る。
「指輪の守りびとという男が、私のところへ来ました。指輪を持っているからでしょう。私に資格があるか迷ったって。最初は、何を言っているのか分からなかった。でも、時を戻ること、生死に関わる願いは……呪われるって言っていました」
近藤はティーカップのひとつを理沙の方へ置くと、椅子に腰かける。そして、もうひとつを口元へ運ぶと、眼を瞑って大きく鼻で香りを吸い込んだ。
「それで、気づいたんです。きっと父は禁忌をおかして、今もその呪いに苦しんで「いるんじゃないかって。それに、母は生贄の犠牲となって……」
そこで、近藤が大きな声を上げて笑った。乾いた音だったが、部屋の静寂を破るには十分だった。まさかの反応に、理沙は驚き言葉が止まる。
「私があなたに指輪をあげたのは、本当にお父さんに頼まれて一時的に持っていたからです。あなたに返そうと」
「近藤先生が、丸井さんを以前、山寺で転落死させたこと。私は知っています」
近藤先生の顔を少しでも自分に向けたかっただけなのに、それは想像以上の力があったようだ。
「……違う!」
ティーカップをソーサーに置く音が響いた。理沙の肩が驚きで跳ねる。だが、引き下がる気もなかった。
「あなたはもう答えを出している。それを私が認めることに、意味があると思うのかな。それを求めているなら、随分子供だと思わないかな。誰しも守りたい家族がいる。そんなの、正しいに決まっているじゃないか」
静かだが、これ以上踏み込むなという拒絶がはっきりと表れていた。そして、やはり自分の考えは間違いではないのだと足が震えた。
「……私は、死ぬべきだったのね。あの時。私のせいで」
「いいですか。せっかく再びもらった命なんだから、もっと楽しむことを考えるのが、ご両親のためじゃないかな」
もはや近藤の言葉など、理沙のなんの支えにもならなかった。小さく会釈だけすると、部屋を飛び出した。指輪の力は本物だ。一度死んだ自分を、父親は生き返らせたのだ。そのために、近藤の犯した罪を背負い、母を犠牲にもした。理沙は叫びだしそうな気持を抑えて、何も考えられないまま電車に飛び乗った。
「理沙?」
家に帰ることも、サークルに顔を出す気にもなれず、理沙が呼び出したのは新藤だった。寒空の下、公園のベンチに座る肩を落とした理沙の隣に座り、新藤は戸惑っているようだ。当然だろう。今日はサークルの活動日だ。顔を出すどころか、大学の裏にある公園に呼び出せば、何事かと思うはずだ。だが、新藤は連絡に気づけば、きっと来てくれるという甘えがあった。もう、自分を甘やかしてくれる人は側にいない。だから、今日だけは。理沙は、誰かにそっと側にいて欲しかった。
「新藤君、今までごめんね」
「え、なに。なにが? 理沙、大丈夫? てか、雪降りそうなほど寒いし、大学が嫌ならどこか店に入らない? 風邪ひいちゃうって」
「告白してくれた時、私、言ったでしょう。調べものしているって。それ、片付いたんだ」
理沙を店に連れ出そうと、ベンチから立ち上がっていた新藤の動きがとまる。理沙の正面に立ち、まっすぐに見下ろす。
「それって……」
理沙も、立ち上がる。新藤が数歩下がって、表情に戸惑いが浮かんでいる。嬉しさと不安。笑いたいのに、泣きたいような顔をしている。理沙は、自分がどんな顔をしているのか見られるのが怖かった。誰かに側にいて欲しい。そんな理由で、ただ縋っている気がした。それをすべて隠すように、新藤の胸元に顔をうずめた。
「もう、終わったの。だから今夜、新藤君の側にいてもいい?」
新藤は答えるように、無言で、しかし理沙のことをきつく抱きしめた。その腕の中で、理沙の頬を静かに涙がこぼれ落ちるのだった。