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72 不確実な命

「ねぇ、理沙。話があるんだけどさ」


 さゆりが、テーブルの向こうで立ち膝をしながら、ヘアアイロンをかけている。キッチンで目玉焼きを作りながら、理沙は振り向いた。


「今夜なんだけど、友達が遊びに来たいって言っているんだ。一日でいいの。実家に帰れる?」


「え、分かった。大丈夫。むしろ、ごめんね。私もう一年くらいここに居座っちゃって。そろそろ、ちゃんとしないとって思っていて」


「ばーか。何言っているの。迷惑だって言っているわけじゃないから、誤解すんな。むしろ、家事は全部理沙がやってくれて、私大助かり」


 さゆりはそういうと、今度は上まつげに一生懸命マスカラを塗っている。父親と言い合いになって鍋も食べずに飛び出した夜。あれから、すでに一年以上が経っていた。時々、荷物をとりに家に戻るときはあるけれど、父と顔を合したことはない。だが、家で生活している形跡は少なからず残っている。


 そして、母の生きていた形跡が残ったそこに、理沙が今一人で住むことは、心が萎れてしまいそうで難しかった。頼れる身近な女友達が思いつかず、とりあえず電話をしてみたら、意外にもさゆりは喜んで家に入れてくれた。責めることも、理由を深く尋ねることもなく、着かづ離れずの距離で家だけ与えてくれている。


「そういえば、昨日。新藤君が探していたよ。会った?」


「うーん……、連絡してみるよ。ほら、食べよう」


 マスカラを塗る手を止めて、さゆりがちらと視線を投げる。あえてそれを無視して、箸を手に取る。


「私、新藤君っていいと思うんだけどなぁ。どうして、そんなに断るのか分からない。五階だっけ? 告白されたの」


「三回」


「もう、そこまでされたら何回でも一緒だって! 私なんて、あいつ一回もちゃんと」


 と、突然さゆりの言葉が消える。急に大人しくなって、箸を持って目玉焼きをつつく。どうやら化粧は中断らしい。


「……私も、俊太くんのこと、素敵だと思うよ」


 食卓にしばらく無言が流れたあと、さゆりが呟くように「知っているよ」と答えた。


 自宅には、何度も帰っている。父親が、家にいる時など、ほとんどない。だが、確実に出入りしていることは分かっているし、それが理沙のことを心配しているのではなく、指輪を探しているのだと分かっている。まだ三人で生活していた頃、誰かが帰ってきている時は玄関の外に鉢植えを出していた。それが習慣になっていたので考えもしなかったが、今ではそれが役立っている。鉢植えを外に出しておけば、相手が帰ってこないということだ。


 マンションのエレベーターに乗り込み、階数のボタンを押した。父と会う可能性など限りなく低い。それでも、この数秒はいつも緊張する。誰にも会わないよう祈る様に目を閉じた後、エレベーター止まった感覚があり目を開ける。そして、エレベーターの正面のガラスに映る一人の男に気づき、飛びずさった。一階で乗った時に、理沙以外の人間はいなかったはずだ。


「おー、すっごい飛んだ」


 突然現れたのは、理沙と同じ年ごろに見える男の子だ。だが、日本人離れした顔立ちに、流行とは思えない独特の服装。マントのような布をまとっていて、体型も定かではない。金色の髪の毛と青い瞳。マンションの住人だったら、一躍有名となっていることだろう。


「あ、あなた」


 壁に張り付きそうに立ち、なるべく男から距離をとる。理沙は、そこで初めて、エレベーターの階数が1から13まで見たこともない速さで、表示が変わっていくことに気づいた。


「……なにこれ」


「気にしなくていいよ。ちょっと、邪魔が入らない様にしただけ」


「邪魔って」


「君が今、指輪の保持者だよね」


 男性と密室に置かれる恐怖を心配していた理沙は、どうやら問題はそれだけではないことに気づき、身を縮めた。最初に指輪を手にした夜、指輪を見て襲ってきた老人を思い出す。それからは、外に持ち出さない様に決めていた。それなのに、この男はどうして知っているのだ。しかも、保持者、という言葉が耳に残る。それにこの男、どこかで会った気がする。大学の同級生ではない。記憶を探っている間に、男が話始める。


「君はすでに指輪の力に関わっているし、カウントするのやめようか迷ったんだけどさぁ。でも、やっぱり不公平じゃない。僕、そういうの一番嫌いなんだよね」


「指輪の力? カウント?」


「あらら。そこから? 力を使いたくて、指輪を持っているんじゃないの? 君のお父さんみたいに」


 確かに、父親は指輪を使いたくて、近藤の罪をかぶったと告白していた。そうなると、父親も力を使ったということになる。それが、自分に関係しているというのか。


「うーん、もう面倒くさいな。今日は帰るよ。もし願いがあるなら、次に会った時に教えて。普段はこんなことしないし、君はただでさえ保持者として資格があるか微妙なんだ。僕が来たのは、あくまで好意だよ。覚えておいて」


 それだけ言うと、男は理沙にキスができそうなほど顔を寄せた。思わず瞬きをした瞬間に、再び男は消えている。エレベーターは今の空白の時間が嘘のように、目的の階に到着した。小さな子供を連れた母親が待っていて、軽く会釈だけしてすれ違った。夢だったと言われても、信じてしまうほど現実味がない。男が背後に乗っていたことも、話の内容も。


 理沙は玄関の鉢植えが出ていないことを確認して、家に入る。母親の寝室に行き、クローゼットを開ける。父親が失踪している時、母親は結婚指輪を無くしたと騒いでいる時があった。自分たちを捨てて消えた父親との指輪を、大切にしている母親が当時は許せなくて、理沙は探すことを手伝わなかった。実際、指輪は見つからなかった。その過去の時間を、父親は知らない。


 自分の部屋は、再び父親に捜索されるはずだ。理沙が、指輪の隠し場所として考えたのは、元々父との結婚指輪を入れていたケースだった。実家に戻るたびにケースを確認するが、それはいつでも気づかれないまま置かれていた。そして、今回も。


「お母さん、私、これをどうしたらいいの」


 クローゼットの中は、まだ母の匂いがした。着ていたパジャマも、使っていたタオルもそのままだ。少しだけ、さゆりの家に持っていこうかと思い、理沙は服を取り出し始めた。そこで、服の下にある冊子に気づく。


 首を傾げて、服の下に隠すように置かれているそれを取り出す。どうやら、アルバムのようだ。だが、家族のアルバムはリビングの本棚に置かれているはずだ。もしかして、父と結婚する前に付き合っていた彼氏でも写っているのではないかと、興味本位で開く。思ったよりも綺麗な画像に、理沙の胸のざわつきが大きくなる。ベビーベッドの上で寝る子供。そこは、間違いなくこの家だ。


「これ、私?」


 写真の枚数が多くて、ここに母用のアルバムがあるのだと思い込もうともした。しかし、次のページを捲った理沙は、息を飲んだ。いや、予感があったといっても過言ではない。むしろ、これを探していたのかもしれない。


「私は、病気だったの?」


 痛む、左胸の心臓。医者も首を傾げる、手術の痕もないのにカルテの記録。そこには、病院のベッドで入院着を着て、生活をする理沙の姿があった。誕生日のケーキも、勉強の本も、おもちゃも。いつも、ベッドの上にある。自分の記憶にない過去が恐ろしくて、足が震える。その場で立っていることも、家のことをする冷静さもない。理沙は指輪をクローゼットに戻すと、再び家を出てエレベーターに乗り込んだ。






 ぼんやりと大学の構内をうろついていると、背後から肩を叩かれた。新藤だと期待して振り向いたことが顔に出たのだろう。相手がびっくりした顔で、手を止めた。


「ごめん、俺」


 そこに立っていたのは、ミス研仲間の俊太だった。恐らく、さゆりの家に来るのは俊太なのだろう。


「え?」


「いや、誰かと間違えた感じだったから」


 鋭く突かれて、言葉に詰まる。それが分かっているのか、俊太が軽く頭を撫でてくる。


「大丈夫、俺、口は堅いから」


 冗談を投げてくる俊太に、理沙はその手を払いながら冷たく言い放つ。


「何が大丈夫なの。好きな子に告白もできないくせに」


 理沙の言葉に、俊太の顔色が変わる。急に不安そうに眉を下げると、理沙の顔を覗き込んでくる。


「え、さゆりがなんか言っていた? 俺、今日無理そう? 振られる感じ?」


「知らない」


 次の授業に向けて、教室の前を移動する。俊太は同じ授業にはいないはずだが、後をついてくる。


「えー、なんだよ。相談に乗ってよ。だって、さゆりって何を考えているか分からないんだよ。絶対、俺がったら、笑って遊びだっていうよ」


「俊太君って、案外弱虫だよね」


「いやいや、俺って人はいいのよ。でも、押しが弱いの。意外と押しが強いのは新藤ね」


 そこには、理沙も無言を通す。


「でも、理沙ちゃんがいうなら、今日こそ告ってみるかー。ねぇ、ケーキかな。酒かな」


「それに、チキンかな」


「クリスマスかよ!!」


 俊太の的確な突っ込みに、理沙が噴き出した。声を上げて笑っていると、俊太が側で静かに微笑んでいる。なぜか急に居心地の悪さを覚え、気まずそうに上目遣いで様子を見る。


「ありがとう、相談に乗ってくれて。本当、勇気が出た。理沙ちゃんは大丈夫? 俺も相談のるよ」


「相談……」


「あ、いや! 別に新藤から何を聞いたわけでもないし。恋愛ってことではなくて。なんか、その……、思いつめた顔をしていたから」


 そう、こういうところだ。俊太はお調子者だし、みんなを引っ張る力もない。だが、周囲の人間をよく見ている。きっと隠し事ができない。それに、心を許してしまう不思議な包容力もある。


「いいな、さゆりは」


「え?」


 思わずつぶやいてしまったことに、自分で驚いた。慌てて口を噤み、微笑む。


「ありがとう。確かに、最近家のことで悩んでいて。ほら、母が亡くなってまだ一年でしょう? 色々片付けることもあって。でも、大丈夫なの。そろそろ片付きそうだから」


 そう? と相槌をうつ俊太は、きっとそれが嘘だと分かっているはずだ。だが、深堀をすることもなく、今度は笑顔で頷いた。


「なんかあったらいつでも言ってよ。それでは、俺の今夜を祈っていてください! グッドラック!」


 そう言い残して、理沙の元から走り去る俊太は、大きく手を振っていた。周囲の知り合いの人間に、からかわれるように肩や頭を叩かれている。みんなに愛されている俊太の人望を見つめながら、理沙は教室のドアを開いた。


「で、決まった? 君の願い」


 気づくと、教室の中に生徒は誰もいない。代わりに電気は消え、窓が開いてもいないのに、カーテンが大きく揺らめいている。教卓に座っている男に、理沙はまっすぐ向き合った。この男が、すぐに現れるだろうことは分かっていた。指輪の守りびとを名乗る、欧風な姿の男。


「私の願いは」


「あ、待って。形式的なことなんだけど、説明だけさせて。あのさ、願いもすべてを叶えられるわけじゃないんだ。時間を遡ったり、人の生死に関わったりすることは受けられない」


「不可能ってことね」


 理沙の鋭い指摘に、男の頬が一瞬ゆがむ。口元を片方引き上げると、眼を細めた。


「いや、正確にはできるよ。でも、そういう時空をゆがめるような大きなことを、ただ願っただけでできるって図々しいと思わない?」


 別に、頼んだわけではない。指輪を持っているというだけで、勝手に『願い』を求めてきているのは男の方だ。だが、理沙はそれを言わずに、肩を竦めた。


「だからね、もしそれを望んだら、大きな代償を伴うよ。それこそ、ずっと苦しむことになるかもね。しかも、生贄も必要だよ」


 まるで喧嘩でもしているように、理沙と男がにらみ合う。次にこの男が目の前に現れたら、願いをどう伝えようか考えていたのに、いざとなったら頭の中は真っ白だ。数分考えていると、男が今度は素っ頓狂な声を上げた。理沙が不審げに見つめると、男は笑い、あっさりと告げる。


「ゲームオーバー。君は、指輪の保持者の資格を失ったよ。そう、文字通りね」


 そう言って、今度はくるりと体を一回転させる。だが、理沙にはもう一つ気になることがあった。


「ねぇ、あなた私にあったことない? もしかして、鳥島で」


再び、理沙が瞬きをしたと同時に、目の前から男の姿が消えた。そして、教室のドアが開いたかと思うと、次々と生徒たちが席を奪い合うように流れ込んできた。


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