スーパーで食材を買うと、両手に袋をぶらさげて理沙は自宅へ向かった。これまで、親子三人で食事をしてきていたが、数年の空白ののちに、父親と二人で食卓を囲むことになるなど考えてもいなかった。確かに、父親を捜してはいた。だが、ここまで距離が近づくと、何から話していいのか分からない。とりあえず、食事とテレビがあれば、間はごまかせる気がした。
「ただいまー、お父さん?」
サークルに顔を出した後だからか、幾分気持ちが楽になったのは確かだった。リビングでテレビでも見ていたかと思ったが、なんの音も聞こえない。慌てて玄関に袋を放り出し、リビングへ走る。誰もいないがらんとしたそこを見て、愕然とする。
「理沙か?」
だが次の瞬間、廊下から現れた父の姿を見て、理沙はほっと胸を撫でおろした。
「あぁ、そっちにいたんだ」
「なんだ、いないと思ったのか?」
すぐに玄関に置いてある袋に気づき、父が引き返す。
「だって、一回やられているからね」
嫌味ともとれる言葉で、二人の間の空気が冷えてしまったのを感じる。無意識に責めてしまったことで、理沙が「しまった」と思った時には遅かった。
「……ごめん」
理沙が小さく謝ったが、父は何も言わずに台所へ袋を持っていく。その態度に、なぜ、自分が謝ったのかと疑問に思うと同時に、あることに気づく。
「ねぇ、お父さん。さっきまで何をしていたの?」
「おぉ、鍋か」
まるで、答える気がない。野菜をシンクに出しながら、包丁を洗っている。そのまま廊下を走って、理沙は自分の部屋のドアを開けた。明らかに動いたものはないものの、どこか違和感がある。リビングに引き返すと、すでに野菜を切り始めている父に問う。
「お父さん! 私の部屋に入っていたでしょう。何をしていたの!」
「部屋に? 勘違いだろう」
「そんなわけないよ。分かるんだから! ……ねぇ、これを探していたんでしょ」
理沙が、父親の前に例の指輪を差し出した。
「これ、なんなの? お母さんもこれを見た瞬間、すごく怒っていた。私に関係のあることなの?」
父親は、一瞬だけ指輪に目をやったが、すぐに手元に視線を落とした。鍋に水をはって、野菜を並べていく。火をつけて、冷蔵庫から肉を取り出したところで、痺れを切らしたのは理沙だった。
「いい加減にして! そんなにこれが欲しいなら、あげるわよ。そうして、また私を捨てて出ていけばいいじゃない!」
理沙の投げた指輪が、壁にあたって床に落ちてくるくると回る。父親は一切顔色を変えることもなく、鍋を持ってテーブルへ移動する。器と箸を揃えて、席に着いた父親が冷静に言う。
「理沙、指輪を拾って椅子に座りなさい。どうして、お父さんが身を隠していたのか説明するから」
それが事実か分からない。でも、聞いてから正しいかを決めればいい。理沙は、指輪を拾って父親の前の席に座った。濛々と上がる湯気と、食欲をそそる匂い。父親が取り皿に分けながら、ぽつりと話し始めた。
「お父さんが、トレジャーハンターをしていたことは知っているだろう。姿を隠した理由は、そのハンター仲間で事故が起きたからなんだ」
「事故?」
目を伏せたまま、「ほら、食べよう」と父親が促す。
「あの日、お父さんの仲間たち六人で、ある山にある寺の彫刻を見に行っていたんだ」
「彫刻? なにか価値のあるものだったの?」
「アンティークや世界の名宝というものの価値は、簡単に決められないんだよ」
「とにかく、どうやって事故が起きたの」
話が進まないことに苛立ち、理沙が先を促す。わざと、父親が核心を避けているように感じたのだ。
「僕たちは、もうお決まりの仲間で、あちこちの名宝を見ては酒を飲むのが関の山だった。近藤先生は史跡に詳しくて、彼の情報で私たちが意見を言ったりしてね。あんなことになるなんて、誰も想像していなかった。事故なんだ。夕食を出した住職の間違いがあって」
「夕食?」
「毒キノコだよ。理沙も、キノコは嫌いだろう。お父さんもなんだ。それが、いけなかった」
「みんな、食中毒になったの?」
「今思うと、それだけではなったと思う。その指輪が、何か悪さしたのかもしれない。とにかく、夕食の時に近藤先生が指輪を出して、仲間に見せびらかせたんだ」
「指輪のことは、知っていたの?」
父親は、その時だけ目を輝かせたように見えた。
「長くハンターをしていると、世界中で探索される名宝とは、みんなの憧れだし、常に話題となる。理沙、お前にとって価値のあるものとはなんだ? どういうものを人は奪い合うと思う?」
「……もちろん、高く売れるものじゃない?」
「そうだよな。人は、金で物事の真価を決めがちだ。でも、もしもっと大切なものがあって、それを守ろうとすることができるなら?」
理沙は、父親が何を伝えようとしているのか、まるで分からなかった。だが、金ではない大切なものがあるのだと諭されているようで、イラつきを抑えられない。
「つまり、俺たちハンター仲間にとって、それは誰もが欲しがるものだったんだ」
「どうして、そんなにこの指輪が欲しいの?」
「それは、その指輪が願いを叶えてくれるからだよ」
テーブルの上に置かれた真鍮の指輪を見つめて、今までの真剣な空気はどこへやら。理沙は吹き出しそうになる。アラジンの魔法のランプのように、指輪を撫でると夢がかなうとでもいうのか。父親は、そんな理沙の態度を当然のように頷いて受け止めた。
「そうなるのも当然だよな。でも、本当だ。ただ、願いを叶えるということには、代償が伴う。それもきっと、人生をかけたような、わが身を犠牲にするような覚悟がいる」
「なにそれ……、そんなことあるはず」
「とにかく、夕食の時に指輪を見せられた俺たちは、みんなの目が獲物を狙うように光ったよ。それぞれ、望みはあったからね。でも、近藤さんは目が回って歩けなくなっていたし、優作はトイレに籠っていた。お父さんは体調に問題はなかったけれど、みんなの介抱をしていて。初めは、何が起こったのか分からなかった。でも、気づいたら寺井がいなくなっていて」
回想している父親は、いつの間にか箸を置いていた。両手を組み、眼を瞑る。
「寺井さんが、死んだのね。指輪をもって逃げたってこと?」
「そうだ。それを追いかけて……。お父さんが気づいた時には、寺井は崖の下に」
「なにそれ。じゃあ、お父さんは何も悪いことをしていないじゃない」
「そうじゃないんだ! 近藤さんが」
「あの人が何! あの人が崖の下に落としたの!?」
父親は、静かに首を横に振った。だが、それ以上を話そうともしなかった。
「近藤さんが、私に指輪を預けてくれると言ったんだ。私には小さな、しかし大切な願いがあった。指輪を使うかは、自分が決めるのではない。もし、私にその資格があれば、指輪の守りびとが現れると言われたんだ」
父親の話が、すべて嘘だとは言い切れない。電車の中でも、指輪を見て目の色を変える人は見て来た。だが、あまりに現実離れしていて、すぐには信じられるわけがない。はっきりと言わないだけで、寺井を殺した罪を被る代わりに、父親は指輪を手に入れたということだろう。さらに、そのために家族を捨てたのだ。母と一緒に苦しんだ時間が脳裏に蘇る理沙にとって、今、父親を許すことなどできるわけがない。
「お父さんが悪いんだ。お母さんがこんなことになったのも……」
「そうよ! お父さんがいなくなって、お母さんは働きどおしだったんだから。体を壊すのも当然よ。私だってっ!」
そうだ。やはり、どんな理由を聞いても悪いのは父親だ。理沙は箸を置くと、テーブルの上の指輪をポケットに入れた。父親が、鍋の向こうからまっすぐに見つめてくる。いたたまれなくなった理沙は、何ももたずに家を飛び出した。