左半身に痺れのような痛みを感じて目が覚めた時、理沙は身体が動かないことに恐怖を覚えた。枕もとにあるはずのスマホをとろうとして、手が上がらない。背中を丸めるほどの鈍痛が一瞬左胸に走る。数時間にも感じたそれは、きっと数分だったと思う。だが、理沙が身動きをとれるようになった時には、背中にぐっしょりと汗を掻いていた。
「なんだったの……」
母親も入院してしまっていて、この恐怖を伝えられる人がいない。それがまた、不安を増長する。スマホを手に、仲間との連絡ツールが映し出される。大学で一番身近な存在であるミス研のメンバーを選んで、電話開始ボタンを押そうと指を当てる。一瞬迷って、画面を消して、ベットに身を静めた。
恐らく、電話をすれば新藤はすぐに飛んできてくれるだろう。だが、それは新藤が自分に好意を持っていることを知っていて、気持ちに答えられないのに甘えている気がした。みんなの中心のリーダーである新藤は責任感が強いため、きっと助けを求めれば見捨てることはない。だが、それを利用しているようで気が咎めた。悶々と悩んでいると、いつのまにか部屋に朝日が差し込んでいた。
「藤本さーん、藤本理沙さーん」
母の入院している部屋に着替えを届けた後、理沙は二階下の内科にかかっていた。病院に行くための診察券を探して、家の引出しを漁っていたところ、見つけたのだ。通常、総合病院は救急や紹介でないとかかれないと聞く。記憶にはないが、ここにかかったことがあるのだろう。名前を呼ばれて診察室に入ると、丸メガネをかけて白衣を着た医者が、理沙が診察椅子に座るのを待っていた。
「はい、どうしましたかー?」
軽い調子で聞かれて、理沙は左胸を押さえた。
「昨日の夜、心臓がものすごく痛かったんです。母が上の階に入院していて、ちょうど私の診察券もあったので来てしまいました。……すみません」
申し訳なさそうに首を竦める理沙を、医者は眼鏡の奥から覗き込むように見た。すぐに微笑み、聴診器を胸に当てる。だが、一瞬顔をしかめたことを、理沙は見逃さなかった。
「私、どこか悪いんですか?」
医師は、理沙の質問に答えることなく聴診器を胸元に戻し、パソコンに向き直った。何度かスクロールさせた後、振り返った時には、また笑顔だった。
「いや、少し心臓の音がおかしかったんだけど、大丈夫だと思うよ。新藤さんは、小さい頃にここに通ってきていた記録があるね」
「え?」
「ん? 覚えてない? 確かに小さい頃ではあるけれど」
医師が、今度は不思議そうに理沙を見つめる。心臓に痛みはすでにない。だが、小さい頃に心臓で病院に来ていたなど、母に聞いたことはない。元々、運動神経は良くないし、部活もやっていない。息苦しくなることなどもなかったが、自分が病だったことを覚えていないなど普通だろうか。
「あれ、手術もしているみたいだけど。ちょっと見せてね」
ベッドに理沙を横にすると、医師は服を捲った。手術をした痕がないことなど、自分の体である理沙が一番よく知っている。
「すみません、もう大丈夫です」
ベッドから慌てて起き上がると、服を直す。呆気に取られている医師と看護師を残して、理沙は病室を飛び出した。廊下に出ても、動悸は収まらない。だが、これは病気というより不安で締め付けられているからだ。ぼんやりと待合室に腰を下ろすと、柱の陰に立っている男の姿が目に入る。サングラスをかけていて、いかにも怪しい。
だが、その雰囲気と横顔に見覚えがあった理沙が、近づこうと腰を上げる。すると、男は理沙を避けるように柱の陰に身を隠し、そして去ろうとする。
「……ねぇ、待って」
もはや直感だった。あの男が、自分の後をつけてここにいるだろうということに。そして、その男が自分の父親だろうということに。
「待って、お父さん……」
男は、人でごった返す待合室をするりと抜けると、病院の外へ飛び出した。少しずつ遠くなっていく後姿に、理沙はくらいつくように追いかける。だが、病院を出てすぐ、また胸の痛みがやってきた。左胸を押さえて、うずくまる。通りがかる人が、視線を一度投げてから院内に吸い込まれていく。肩で荒く息をしてから顔を上げると、目の前にがたいのいい男が立っていた。
「理沙、大丈夫か」
背後でうずくまる娘を放っておけずに引き返したのだろう。そんな優しさがあるのなら、どうして母と自分を残して、今までどこにいたのか。問い詰めたい気持ちが溢れてくる。追いかけていたのは自分なのに、いざ話せる距離に来られると、無性に腹立たしかった。
「理沙」
抱き起こそうと肩に手を置かれた瞬間、思わず振り払ってしまう。
「……どうして、ここにいるの」
口から出た言葉が、自分で思ったよりもずっと冷たい声だったことに驚く。父は、それも覚悟していたのだろう。決して怯むことなく、再び理沙の体を支えようと手を伸ばした。
「……お母さんが倒れて。五階に入院しているんだよ。ねぇ、私、どうしたらいいのか、ずっと分からなかったのに! どうして今まで、側にいてくれなかったの! 何をしにきたの」
誰かに投げたかった言葉が、溢れるように口をついた。小さい頃にずっと一緒に遊んでくれた父。母と口喧嘩をしながらも、いつも笑い合っていた父。母と自分を置いて家を出ていく素振りなんて、まるでなかった。中学生の自分が気づけることなど限界はある。だが、父が自分たちを愛していないとは考えられないし、受け入れられそうもない。
「知っている。母さんに、連絡をもらったんだ。本当は、会いに来てはだめなんだが……。耐えられなくて来たら、理沙を見かけて。体がつらいのか? 大丈夫か?」
「会いに来たらダメって、どういうこと? お父さんは、私たちを捨ててどこかへ行ったんじゃないの? お母さんは、何を知っているの? これがいけないの?」
指輪を見た時の、血相を変えた母の顔を思い出す。凜は、ポケットからその真鍮の指輪を取り出した。
「え、それは……。どうして、お前がそれを持っている!」
思わず出た父の大声に、周囲の人間が何人も振り返る。そして、両手で理沙の手の中から指輪を取ろうとする父から、逃げるように理沙は再びうずくまった。
「これは、一体なんなの! 鳥島で、近藤先生にもらったのよ! お父さんが無駄に活動していたトレジャーハンター仲間でしょう?」
理沙の答えで、父親の動きが止まった。
「近藤に? 嘘だろう。会ったのか?」
「そうよ! お父さん、私に色々なことを隠しているんでしょう! もう全部教えてよ。どうして、お母さんが具合悪くなっているのよ」
「待て、待て待て。お前に、あいつがそれを渡したのか。一体なんのために! それは」
勢いづいていた父親だが、そこまで言ってからハッと口を噤んだ。理沙が責めるように睨むも、理沙から体を離す。二人の間に沈黙が流れた時、病院の入口から看護師が駆けだしてきた。
「理沙ちゃん! ここにいた! 早く来て、お母さんが」
仲の良い看護師の慌てぶりから、何か良くないことが起きているのは明らかだった。座り込んでいた理沙と父親が、駆けだすのは同時だった。病院に飛び込み、母のいる病室に向かう。だが、途中で緊急カートに乗せられて運ばれていく母とすれ違う。そのまま、手術室へ吸い込まれていった。細かい説明もなく、手術室のランプが点灯した。前の椅子に力なく腰を落とすと、隣に父親も並んだ。震える理沙の肩を抱いてきて、それを跳ねのける力はもうない。それから数時間、母が生きてそこから出てくることはなかった。
「理沙。大丈夫?」
久しぶりに顔を出したサークルで、やはり最初に声を掛けてきたのは新藤だった。周りがどう声を掛けようか迷って距離を置いている中、すぐに近づいてきてくれたことは嬉しかった。意地を張らずに、つい本音が漏れる。
「うーん、全然ダメ。元気がでない」
初めて弱音を吐いた自分に、思わず笑いが漏れる。母が亡くなって、休む暇もなく葬儀などの手続きに追われた。やっと落ち着いたら、今度は父親と家に二人でいることが急に息苦しくなってきた。ずっと学校を休んでいるわけにもいかないし、家にいるのも窮屈で出てきたが、やはり学生の楽しそうな笑い声は耳障りだった。
「無理するなよ。いつでも帰っていいし、やばかったら送っていくから」
「うん、ありがとう」
側にいてくれるとホッとする。どんなに伝えられたら簡単だろう。だが、新藤に寄りかかるだけでは迷惑になる。頬を無理やり上げて微笑んだ顔を作ると、新藤が優しく背中を叩いてくれる。
「うそ、なんか憑いている?」
霊の視える新藤への、精一杯のギャグだったけれど、彼は少しも笑わなかった。小さく首を振ると、ただ側にいるとでもいうように隣の席に腰を下ろす。教室の前では、最近出たミステリーの新刊について、俊太が批評を高らかに述べている。それに冷たく指摘する高石。側で興味もなさそうにスマホをいじる、さゆりがいる。みんな、言葉にはしないけれど、理沙の辛さを受け止めてくれているような気がした。少し前まで痛かった心臓が、お湯につかったように、ほんのりと温まっていくような気がした。
「新藤君、私、この場所がすごく好きだな」
呟くように言った理沙に、新藤が「え」と聞き返す。だが、恥ずかしくて二度目は言えなかった。