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69 不確実な命

 小刻みに揺れる車内の隅に座り、理沙はリュックを祈る様に抱きしめていた。日焼けした肌は赤くなっていて、周囲から見れば、青春を謳歌している学生にしか見えないことだろう。だが、鞄の中にあるもののことを考えるだけで、この中の誰よりも悩んでいる自信があった。


 鳥島から本土へ到着した船を降りると、当然のように打ち上げといって居酒屋に流れ込んだサークルのメンバー。そうなると居心地がよくなるのは常で、結局ほぼ夜中の帰宅となっている。車内にはほとんど人影がなく、疎らに仕事帰りだろうOLやサラリーマンの姿がある程度だ。鞄の中から、近藤にもらった指輪を取り出して指にはめてみる。真鍮のそれは少しの重みと汚れがあるが、一見玩具のようでもある。


 失踪前の父が、近藤に託したというが、なぜそれを今、娘である自分に渡すのか戸惑っていた。さらに、昨夜の瞳である。近藤の娘で、二人で島の城跡を守っているという彼女は、指輪が理沙に渡ったと聞きつけ、血相を変えてコテージにやってきた。その上、まるで理沙を泥棒だとでもいうように非難した後、掴みかかってきたのだ。運よくコテージに逃げ帰れたものの、船に乗るまでドキドキしたことは、今でも鮮明に脳裏に蘇る。金色に光るこれが、間違いない怪しげなものだということはハッキリしていた。


「あれ、素敵な指輪ですね」


 ふいに声を掛けられて顔を上げると、目の前に白いあごひげを生やした老人が立っている。


「あ……、はい。いただきもので」


「そうですか」


 そういうと、老人は自然と理沙の隣に腰を下ろした。やはり、誰からでも目を引くものなのだろうか。指先でそっとそれを撫でながら、理沙は小さく息を漏らした。そして、気づく。こんな深夜には、こんな礼儀正しい小ぎれいな老人が不釣り合いだということに。さらに、隣に座った老人が、今もなお理沙の手元を凝視していることに。それは、見ているという次元を超えていた。身を乗り出して、今にもかぶりつこうとするくらい顔を近づけてくる。


「わたし……行かないと」


 思わずそう呟いた理沙に、老人も笑いながら答えた。


「いいや、……逃がさん」


 隣を見ると、老人の顔は暑さで表面が溶けてしまったのではないかと思うほど、形が崩れていた。きゃあっと声にならない悲鳴を上げて立ち上がる。酔っ払いに絡まれていると思ったのだろうか。車内にいる乗客たちも、関わりたくないのか誰も助けには来てくれない。老人に右手を掴まれた感触があった。それを思い切り振り払うと、思わず理沙は電車を飛び降りた。瞬時に、電車のドアが寸でのところで閉まる。はぁ、はぁと荒い息が漏れる。


 鳥島で見た日本兵のように、あれもきっと人間ではない何かだ。老人に掴まれた右手が、恐怖で小刻みに震えている。


「なに? これを狙っていたの?」


 瞳も今の老人も、指輪に取りつかれたように襲ってくる。そっとポケットに入れると、ホームに貼られている時刻表に目をやった。最寄りの駅までは、あとひとつだった。十五分後、最終電車がやってくる。だが、また同じように誰かに襲われると思うと怖かった。理沙は、何度も背後を振り返りながら、駅の改札口を出た。


「もう、まだ寝ているの?」


 ベッドで寝ていると、布団の上から優しい手に揺さぶられる。母の声を遮る様に、全身を深く布団に埋める。遮光カーテンが開けられ、部屋に日の光が差し込むのを感じた。


「昨日、遅かったんだから。バイトはお昼からだし、もう少し寝かせてよ」


「もう……、朝ごはん、テーブルにあるから、きちんと食べるのよ。お母さんは仕事に行くから」


 結局、電車に乗ることなく徒歩で帰宅した理沙が、眠りについたのは数時間前だった。家の中まで誰かが襲ってくるのではないかという恐怖と、指輪を目にした時の彼らの表情が頭から離れなかったのだ。今日は、指輪についても調べようと考えていたところだった。なかなか部屋を出てかない母の様子に、理沙が布団から顔を出す。


「もー、分かったってば。自分で起きるから、お母さんは……」


 そこで初めて、母が机の上に置いたままの指輪を手にしていることに気づいた。慌ててベッドから飛び出すと、母の手の中にある指輪を奪った。目を開き驚いている母に、距離をとって理沙が言う。


「これ、友達にもらったの! ほら、私この間が誕生日だったでしょう?」


 母は無言のまま、理沙の顔を見つめている。


「昔からの……、なんだっけ、アンティークっていうの? ほら、友達がそういうの好きで」


 どうしてこんなに慌てて弁解しているのだと、自分でも不思議に思う。でも、理沙の口は止まらない。その後もしばらく、しどろもどろに嘘の解説をする。ついに、鳥島で起きた穴への落下事件を話そうとしたところで、母の冷たい一言が響いた。


「捨てなさい」


 え、と理沙の口が固まった。もしかしたら、母も指輪を見てしまったら、血相を変えて襲ってくるのかと思った。それなのに、逆に冷静な声が怖い。確かに、この指輪からは異常な気配を感じる。だが、近藤がくれた唯一の父の手がかりともいえる。今、これを捨てることはできない。


「待って。聞いていたでしょう? これ、友達がくれて」


「言ったでしょう。捨てなさい。次にその指輪を見たら、お母さん、許さないから」


 そこまで言うと、母は小さく咳をし始めた。その言い方に腹が立ち、初めは無視をしていたが、だんだんと咳は大きく、そして止まらないものになっていく。不安になった理沙が母の方を見ると、机に両手で突っ伏した状態の母がせき込んでいる。そして、手元に飛んでいるのは鮮血だ。


「お母さんっ!」


 慌てた理沙が、母の背中に飛びついた。一生懸命に背中を撫でると、いつのまにかその背中がやせ細っていることに気づく。最近では、一緒にご飯を食べることもほとんどなくなっていた。母はいつでも元気だと決めつけていたが、まるで皮一枚になってしまったような体に愕然とする。足元から湧き上がる恐怖に震えながら、スマホを手で手繰り寄せる。


「……救急車、きゅうきゅうしゃ……」


 呟くようにダイアルを押す。母は、すでに机の側にうずくまり、何度呼びかけても返事をしなくなっていた。





「理沙!」


 夏休みはあっという間に終わり、後期の授業が気だるい雰囲気でスタートしたのは先週のこと。単位を落とすわけにはいかず、理沙はできるだけ出欠が不可欠な授業には出るようにしていた。出欠さえしておけば、レポートを年度末に出すだけで単位はとれる。


「新藤君」


 学年で必修単位となっている授業は、大きな講堂に生徒が密集する。おかげで、最初から約束しておかないと友達と一緒に座ることはできないことも多い。鳥島の旅行以降、サークルにもほとんど顔を出せなかった理沙は、授業に出る時も、友達に連絡することを億劫に感じるようになっていた。


「どうしたんだよ。今日も、サークル出ないの? みんなで映画の批評会する予定だけど」


 サークルのメンバーの目的は様々だ。単に恐怖体験がしてみたいという俊太。後々は、ミステリー小説家になりたいと願う高石。目的が不明のさゆり。父の失踪の行方を掴みたくて、ミステリーや奇怪な情報が欲しかった自分。そして、この新藤である。新藤が幽霊を視られるということに気づいたのは、実は鳥島に旅行にいく、ずっと前のことだった。


 俊太の背中を時々強く叩いたり、高石の頭上を睨むように見つめたりしている新藤を、理沙はずっと変人の行動だと思っていた。しかし、学校の怪談ならぬ肝試しをした時に、新藤がひとり、壁に向かって話しているのを聞いてしまったことがある。


「いいか。あとで、うまい生霊をご褒美にやる。これから、俺たちは肝試しをするんだ。でも、背の小さいショートカットの女の子だけには、絶対に、絶対に! 悪さをするんじゃないって仲間たちにも伝えてくれ」


 理沙は、正直驚いた。新藤が誰もいない空間に語り掛けているだけではなく、恐らくそれが自分を守るために言っている言葉だと分かったからだ。気恥ずかしくて、嬉しくて。思わずその場から逃げてしまったことを、新藤は知らないだろう。


「ごめんね。母が夏に倒れて、入院しているの。しばらくは出られないかも」


「え、本当? 大丈夫?」


 心底心配そうな顔で、新藤が理沙の顔を覗き込んでくる。だが、それだけではないようだ。


「あのさ、もし俺とのことが気まずいんだったら、謝るよ。それでミス研に来にくくなっているなら、俺本当に」


 一瞬、何のことを言っているのか分からなかった。だが、新藤の言っていることが、鳥島からの帰りのフェリーで告白したことだったとつながる。そして、理沙がそれを断ったことを気にしていると言いたいのだろう。


「え! ち、違うよ! 私こそ誤解させていたらごめん。本当に違うの。今、私調べ物をしていて、余裕がなくて。お母さんもこんな感じで」


 必死で話す理沙を見て、新藤は安心したように肩の力を抜いて笑った。


「あー、良かった! 少しだけ心配していたんだ。じゃ、ご飯に誘うくらいはいいってことかな。ほら、そこまで荷物もつよ」


 リュックを持ち上げた新藤が、途端に顔をしかめた。理沙は、それを隠すように慌ててリュックを背負う。


「すっごい重いでしょう、これ。辞書がたくさん入っているの。あと、ごめんね。これからお母さんのところに行くから、今日は難しいかな。また、日にちを見つけてサークルは行くから。本当、ごめんね」


 寂し気な顔をする新藤を講堂に残し、理沙は一人駆け足で廊下へ出た。ランチに向かう学生たちで廊下は賑わっている。きっと、新藤を傷つけたはずだ。だが、今はこれ以上、新藤を巻き込むことはできなかった。そっとリュックを開けると、中には分厚い本が入っている。父の残した研究ノート兼日記である。外国語混じりで、かつとても細かいそれは読むのも簡単ではない。だが、ここに何かが残されていると確信している理沙は、最近は毎日図書館に入り浸っているのだ。


「まずは、ここからだよね」


 そして、今日も理沙は図書館のゲートをくぐった。


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