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68 憎しみの代償

「どうだ、そっちの崖には届きそうか」


「うーん、もうちょっとで行けそう。ロープがもう短いから、気を付けないと」


 雪が解けたばかりの山で、男女が山の崖を下っている。足場はほとんど崖になっていて、命綱を頂の木に結わいつけているとはいえ、命がけだ。男が目的とする場まで下りた後、続く妻の足元に注意を払っている。


「よしっ!」


 妻が到着した途端、二人は無事を喜ぶようにハグをした。だが、すでに夫の目は崖の奥に注がれている。


「やっぱり情報は間違いではなかったんだ。あの時、雪崩に巻き込まれたというトレジャーハンターがここに落ちたってことに。見てみろよ」


 夫の言葉に、妻も視線を奥にやる。そこには、一体の白骨死体が地面に置かれていた。寒かったのだろうか。背中を丸めている。


「可愛そうに、雪が冷たかったのね」


「いや、ジェシー。見るんだ。彼が守っているのは自分の体ではない」


 白骨に近づいた夫が手を伸ばし、指先に埋まっている真鍮の指輪を取り出した。もろくなった骨が、一部かけて指輪に付着している。息を吹いてそれを払うと、夫は指輪をはめて妻に見せる。


「ほら、これがジェームスの指輪だ」


 崖に差し込むわずかな光が指輪に反射して妻の顔を照らす。二人は再び抱き合い、頬を寄せて苦労をねぎらった。


「これで、僕たちも幸せになれるんだ。さぁ、家に帰ろう。大金持ちへの第一歩だ」


 妻のジェシーも、そんな夫に満面の笑みを見せながら、指輪に触れる。


「オリバー。本当ね。今まで色んなトレジャーを狙ってきた。危ないこともあったけれど、これですべてが報われるわ。私たちに、もうハントは必要ないのよ」


「そうだね。まぁ、体がうずうずしちゃうかもしれないけどな」


「大丈夫、そうしたら趣味として楽しみましょう。……でも、この崖を上るまでは私にも指輪をはめさせてくれない?」


 ジェシーがそう言って、オリバーから指輪を外そうとする。


「待てっ!」


 咄嗟に振り払った手を、ジェシーは恨めしそうに見つめた。オリバーが慌てて訂正する。


「後で。ここで落としたら、指輪はさらに崖下に真っ逆さま。まずは、上に戻ることを考えよう。な? これからは、いくらでも触れるんだ」


 不満そうな顔をしたジェシーだったが、小さく頷いてロープに手をかける。それを、さらにオリバーが遮った。


「待て、体重は俺の方が重い。先に俺が行った方が安全だ」


「あぁ、そうね。とにかく、私もそれに触りたいの。早く上に行きましょう」


 ジェシーがあっさりと順番を譲ったことに、オリバーは安堵した。ロープは一本しかない。随分下まで降りて来た。こんなところまで人は来ない。もし、先に上った方がロープを切ったら、後から来ていたものは真っ逆さまだ。運よく落ちた時に助かっても、自力で崖は上がれない。指輪を渡してしまえば、ジェシーは先に上ってロープを切るかもしれない。それなら、自分が先に上って指輪を持っているべきだと思った。一方、ジェシーはいかに自分が危険な位置に立たされているのかに気づかないようだ。そんな、少し頭が回らないところが、妻を愛すポイントでもある。ふふ、と笑ってオリバーはロープを上がった。


 もちろん、崖の上に登ってから、ロープを切って妻を落とすなんて邪道なことはしない。オリバーは、恐れただけであって、自分がそうするつもりはなかったのだから。


「ねぇ、いいでしょう。私の指にもはめさせて」


 それでも、山を下り、帰国するための船に乗っても指輪に執着する妻に、いい加減うんざりしてきたオリバーは、夕食を食べた後にデッキに出ると言って一人客室から出た。デッキの椅子に腰かけて、思わずため息を漏らす。船はあまり大きくはなく、船室も少ない。その分、明かりの少ない夜にデッキに出る人間など他にはいないはずだった。


「随分、奥さんがピリピリしているね」


 予定外に話しかけられて、オリバーは飛び上がる程驚いた。顔を上げると、すぐ隣に少年と呼べるくらいの年齢だろうか。男の子が立って笑っている。


「あ……、あぁそうなんだ。疲れが出ているんだろう。君は、どうしたんだ。海は荒れてきている。こんなところで一人では危ない。早く船室に入った方がいい」


 そこまで言ってから、もしかして船乗りなのかと思い始める。それを聞こうとした時、少年が告げた。


「オリバー、君の望みはなんなの?」


 それだけ言うと、少年は気だるそうに背後の樽に寄りかかる。酒でも入っているのだろうか。大きなどっしりとしたそれは、オリバーに少年が何者かを知らせるのには十分だった。


「……このことを、ジェシーは」


「知らないと思うよ。君たちの反吐が出そうなほどくだらないやりとりは、ずっと見させてもらったよ。もう一度しか聞かないよ。気味の望みは?」


「金だ! ……君の後ろにあるその樽が金貨でいっぱいになるほどの金が欲しい」


 言ってから、それだけでは大したものではないと気づく。いつ、だれに聞かれるかを考える前だったので、まるで準備ができていなかった。


「いや、嘘だ! 待ってくれ。もう一度考え直し」


「あー、最悪。俺、嘘つきが一番嫌いなんだよね。君、もう終わりだよ」


 船が揺れるほどの突風が吹く。オリバーは、慌てて少年の側の樽にしがみついた。大きく船が傾く。


「やめてくれ! お前は、一体何者なんだ。この金は、俺のものだ。誰にも渡さない!」


 オリバーは樽にしがみつき、中身が金貨に代わっているのを確かめた。興奮して喜んだ瞬間、再び船が揺れる。そして、その衝撃でオリバーの指から、真鍮の指輪が抜けて樽の中に落ちてしまった。


「ああああああ! どこだ、どこだ」


 樽に上半身を突っ込んだ男は、船の揺れに伴って樽ごと転がった。再び、船が傾く様に揺れた。同時に、男が樽に頭を突っ込んだまま、荒れた海へと転がり落ちていく。もはや、オリバーの叫び声さえ、海の音にかき消されていた。


「だから、俺はジェームス。指輪の守り人だよ。って、自己紹介を聞く前にいなくなっちゃったね。もう、面倒くさいことをしてくれた。これで、次のトレジャーハンターが探すの大変になっちゃったじゃん。次の願いを聞けるのは、いつになるかなー」


 言葉とは裏腹に、ジェームスは楽しそうにデッキに腰を下ろして、海を眺めた。オリバーが沈んだ海は、いつのまにか静かに凪いでいた。


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