「別れたいんだ。これ以上、俺がさゆりの人生の邪魔をしちゃいけないって思うんだよね」
空からは、ちらほらと小さな雪が舞っている。暖冬だと散々騒がれても、それなりに底冷えの日は巡ってくるようだ。街に煌めくイルミネーションとは対照的に、目の前の女性の顔色は暗くなる。
「ねぇ、どうしてそうやって昔から空気が読めないの? 今、私たち一緒に同窓会に行こうとしているんだよね。この話、帰りじゃダメだった?」
自分の胸のつかえばかりを考えて、思いもつかなかった。さゆりは、そんな様子の俊太に呆れたように大きくため息をついた後、少しだけ睨む。
「理由は? 私、もう三十超えているんだよ。これでも、俊太と付き合っているから浮気なんてしていないし。これから、どうしろっていうの」
「それは……、ごめん。でも、これは俺の問題で」
「だから嫌なの! 昔は俊太、何でも相談してくれた。いつから……、刑事になってからだよ。私に秘密ばっかり作って。理沙のことだって、そう」
「なんだよ」
俊太の声音が変わったことに気づき、一瞬さゆりの表情も強張る。しかし、普段から我慢していたのだろうか。思いが止まらない。腕を組んで歩く、道行くカップルが何事かと二人を振り返っては耳打ちしているのが見える。
「理沙と、おかしかったよ。何でもないって何度言われても。私は信じていなかったよ。二人で出かけていることも、こそこそ電話をしていたのも知っている。本当は、あの子供だってあんたの」
「さゆり!!」
さゆりの暴言に、俊太は堪らず叫ぶように言い返していた。それ以上は、理沙に対しても、さゆりに対しても侮辱となる言葉を吐きそうで、荒い息をつきながら押しとどめる。そこまで自分が疑われていたのかと思うと、もはやこれ以上一緒になどいれるはずがない。言い訳をする気力も湧かず、振り切るようにして歩き始める。
「……俊太!」
待ち合わせの店までは、歩いて五分とかからない。お互いに場所も知っている。背後から呼ぶさゆりの声に反応することなく、数メートル歩いて振り返る。さゆりは一歩も動かず、子供のように佇んでいる。このままでは、帰ると言いかねない。それも面倒くさくて、さゆりに手を伸ばす。重そうなブーツで小走りで近づいてくると、俊太の手に飛びつくさゆり。クールで高飛車な印象だったさゆりが、意外と面倒な種類だと気づいたのは、付き合ってからすぐのことだった。こんなやりとりを何度も重ねて、ずるずると大人になっても付き合ってきた。でも、もう限界だ。俊太は、飲み会が終わったらもう連絡をとるのはやめようと心に誓うのだった。
「遅いぞー」
店に入ると、居酒屋の入口近くにはすでに新藤と高石がいる。不自然にならないように自然とさゆりと並んで座ると、店員がすぐに注文を聞きに来た。全員のビールが揃って乾杯をした後、それぞれの近況を話す。新藤が視えるらしい、というのはサークルのメンバーには周知の事実だ。おかげで、猫の幽霊や看板犬になりたがっているベルの話で、テーブルには会っていない時間を感じさせないほど賑やかになる。いつもは減らず口ばかり叩く高石でさえ、学生の悪口がほとんどだが饒舌だ。
サラダに焼き鳥、つまみの煮物などを平らげて、それぞれが頬も赤くなるほど十分に飲み進めた頃、小百合が口火を切った。
「ここに、理沙がいたらもっと良かったのにね」
先ほどの別れ話の嫌味だろうか。突然の話題に新藤の顔が強張る。「おい!」と小声で嗜める俊太に、さゆりは知らぬふりだ。高石だけが、今や楽しそうに日本酒を煽っている。
「懐かしいよね。鳥島。みんなで行ったじゃない? あれをきっかけに、私たち結構仲良くなったよね。まだ私と俊太も、新藤君と理沙も付き合う前でさ……」
「さゆり、馬鹿なの? それとも僕のことを忘れているの?」
高石の無駄な絡みも、さゆりには関係ない陽だ。テーブルのとっくりから、手元のお猪口に酒を注ぐと、舌で触れるように口に含んだ後、しんみりとこぼす。
「あの時、ほら、いたじゃない。私たちよりちょっと上くらいの女の子。ボーイッシュで活発な感じの。私、あの時に実は見ちゃったんだよね。夜中に、理沙とあの子が言い合っているところ」
「……え?」
俊太も、さゆりから初めて聞くことだった。しかし、それ以上に新藤は驚いたようだ。それまでは、平静を装うようにまだビールを煽っていたが、一瞬で目に力が戻る。そして、低い声で詰めるように言った。
「どういうこと?」
「新藤、落ち着け。さゆりの勘違いで、ただ話していただけかもしれないだろう」
「勘違いじゃないわよ。しつこいあんたを振り切って、私がコテージを出たら二人が取っ組み合っていたんだから」
「しつこいって……」
敏感に反応する俊太に目もくれず、新藤が食いついた。
「取っ組み合い? 理沙が? 信じられないな。喧嘩していたってこと?」
高石は面倒に関わりたくないのか、話に興味がないのか定かではないが、カウンターの方へ歩いて行ってしまう。他の客たちの喧騒で、このテーブルの空気が一触即発であることなど誰も気づかないだろう。新藤に気おされたように、さゆりも必死で思い出そうとしているようだ。指先をこめかみに当てて目をつぶる。艶のあるストレートの黒髪に白い頬。小さな赤い唇を吸い寄せられるように俊太は見つめながら、やはりさゆりは美人だと噛みしめる。だが、それは一般的な意見であって、昔のように心臓が速く打つようなことはなくなっている。
「そうそう。確か、あの女の子が理沙に怒っていたの。何かを返せって。でも、理沙は知らないって突っぱねていた。あれ、何だったんだろうね」
……指輪だ。
新藤と俊太は、目くばせして確かめ合う。
「あとさ、驚いたのはその後。もみ合っていたから、理沙がその子のTシャツをめくっちゃったんだよね。そうしたら、見えたの。その子の腰に大きな傷跡が」
「傷跡?」
鳥島で彼女と城跡の中を走った新藤から、詳細は聞いている。しかし、もちろん背中など見る機会などなかった。俊太が新藤を見ると、当然ながら記憶にないようで首を小さく振っている。
「そうよ。しかも、縦に太くて大きいのが一本。あれ、事故とかじゃないと思うよ。女の子なのに大変だよね。ま、私たちより年上だったし、もうオバサンか」
そう言って、今度は豪快に笑う。すでに、さゆりは出来上がっているようだ。大声でカウンターに座ってマスターと話している高石を呼び戻すと、熱燗を二本注文している。さすがに帰りは送っていく必要があるかもしれないと思いながら、俊太は最期に見た理沙の顔を思い出していた。俊太へ向かって、運命を受け入れるように、でも少しだけ悲しそうに、太陽の下で微笑んだ顔を。