どうしても、この問題を解決したかった。できれば、誰との関係も崩すことなく円満に、そして完全に。でも、そんなことを言っていたら、結局自分の欲しい結果は得られないのだと痛感する。誰かに、手を引けと宥められ。誰かに、関わるなと諭され。平和に新しい人生を生きていくためには、過去から目を背ければいいのかもしれない。それで、大切な人が守ろうとしていたものを知らなくていいのか。そんな自分を許せるのか。新藤は、まだ迷っていた。それでも、自分を奮い立たせる何かがあるのも感じていた。
「落としましたよ」
振り返ると、少女が新藤に一枚の紙を手渡してきた。
「え……?」
確かに、今回は指輪のことを問い詰めようと、資料をリュックに入れてきた。だが、それが落ちたというのだろうか。戸惑いながら受け取り、二つ折りになった紙を開く。飛び込んできた文字に、新藤は息を飲んだ。
【指輪に関わるな。命が危ない】
「これっ……」
慌てて紙から顔を上げて周囲を見回すも、新藤に渡した少女の姿がすでに消えている。ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。誰かに常に見張られているのだろうか。藤本が、突然事務所に訪ねて来たことも不信感が生まれたが、後に叔父や善とも友人関係にあったと分かり、居場所が知られるのは必然と思えた。だが、ここに来ることは今日、凜にも伝えていない。それなのに、誰かが忠告してきている。これは一体、敵なのか。それとも味方なのだろうか。周囲を警戒しながらも、新藤は大学の門をくぐる。
近藤には、以前同様にメールで連絡をしているものの返信がない。アポなしの突撃は失礼かと思ったが、前回の近藤の態度を考えると門前払いをされてもおかしくない。それならば、押しかけてみようと思ったのだが。近藤の研究室は敷地の中で一番新しく、高いビルだ。その入口のエレベーターを入ろうとした時、周囲がざわつき始める。
「あそこ……っ! 見て」
「やだ! 誰?」
近くにいた女子生徒の異常なまでに焦った声。釣られるように見上げると、建物の屋上に人影がる。瞬時に嫌な予感が走ると同時に、隣で漏れる声。
「あれ、近藤先生じゃない……?」
目を細めてその存在を確認しようとした新藤が次に見たのは、屋上にいた人物が宙に身を投げ出す姿だった。まるで道を歩くために足を踏み出すだけのような動作だった。叫ぶことも慌てることもなく自然な姿に、周囲の人間も思わず目を逸らせなかったことだろう。だが、次の瞬間、それは当然のごとく地面に向かって落ちてくる。ほんの数秒で、その場に走った悲鳴は、新藤がそれまでに生きて来た中で聞いたことのないものだった。目の前にあるのは、近藤の倒れた身体。少しずつ地面を濡らしていく赤い液体。その顔は横を向き、何かを探しているようだった。そして、新藤と目が遭った瞬間、近藤は薄っすらと微笑んでいるように見えた。周囲には瞬く間に喧騒が走り、近藤が息絶えたのが分かった生徒たちが再び悲鳴を上げる。抱き合って泣きそうな女子生徒までいる。そんな中、唯一の大人ともいえる新藤は、女子生徒たちの渦から近藤に駆け寄ることさえできなかった。どうして、今なのだ。手のひらの中で、先ほど受け取った紙を握りつぶす。近藤は、誰かに殺されたのか、それとも……。
小刻みに震える両足を押さえるように、新藤は女子生徒の輪から後ずさる。建物から、職員らしき数人が走り寄ってくるのが見えた。
誰かに付けられているのではないかという恐怖感に加えて、今にも警察が出てきて捕まえられるのではないかという不安感から逃げるように、新藤は決して後ろを振り返ることなく探偵事務所まで戻ってきた。原付の運転の荒さに、途中何度か車にクラクションを鳴らされたけれど、新藤は謝る仕草を見せなかった。
事務所への階段を駆け上がると、いいタイミングで凜が自宅から顔を出したところだった。新藤の顔色を見て、何かがあったのだと悟ったらしい。慌てて駆け下りてきて、新藤を支えるように手を添える。二人で事務所に倒れるようにして入ると、同じく異変を察知したベルが大きく吠える。くるくると回りながら、新藤の足元を困ったようにうろついた。
ソファにどっかりと腰を下ろして息をつくと、凜が流しに走ってグラスに水を注ぐ音が聞こえる。
「近藤先生が……死んだよ」
突如、流しからグラスがシンクに落ちる音が響く。驚いて顔を伸ばすと、凜も慌てていた。グラスを手に割れていないことを確かめると、再び水を入れて走ってくる。隣に腰を下ろし、堰を切ったように話し出す。
「どういうこと!? 今、近藤先生と会っていたの? どこで!」
凜は、近藤と面識はない。だが、ハンター仲間として重要な人物だったことは把握している。事の重大さは一瞬で通じたようだ。
「やっぱり関係性とか指輪のこととか聞きたかったんだ。そもそも、鳥島で理沙に指輪を渡したのは近藤先生だ。何か、意図があったのかもしれないだろう」
「確かにそうね。何かを伝えたかったのかも」
「それに気づいた理沙が、父親を捜したり、何かに葛藤したりしていた」
「つまり、近藤先生も鍵を握っていたということね。でも……、どうして死んだの? 新藤さんは、何かを見たの?」
凜からもらったグラスの水を一気に飲み干すと、口の中が一瞬だけ潤い、また乾いていく。静かに首を横に振ると、新藤は自分に言い聞かすように呟いた。
「大学に着いたら、すぐに騒ぎになった。建物に入ろうとしたら、屋上から先生が……。誰かに突き落とされたのか、自殺だったのか。それも分からない。とにかく動揺して、俺はその場を離れたんだ。あ……」
その前に、女子生徒らしき人物に手渡され、ポケットにしまっていた紙を取り出して広げる。
「……なにそれ。命が危ない? それって……」
「大学に入る前に渡されたんだ。でも、今思うと生徒とは限らないな。凜も、大丈夫だと思うけど十分気を付けて。あとは……」
新藤の頭の中で、関連すると思われる人物の顔が浮かんでは消えていく。
「もしかして、善さんか叔父さんのところに行こうと思っている? それなら、私も連れて行って」
「いや、今の話聞いていた? ここからは本当に危ないと思う。なるべく学校と家以外の場所に行かないで、休みの日も家にいるんだ」
「そんなの無理だよ! ここまで関わってきて。それに、私だって能力者の端くれなんだから役に立てるよ! じっとしているなんて出来ない! 何かあったら、私一生後悔すると思う」
凜のまっすぐで強気な口調に、新藤もたじろぐ。幾分迷った挙句、遂に頷いた。ベルが心配そうに二人を見上げている。
「ちょっと待ってね。バイト先にいる彼氏に電話しておくから」
そう言って、新藤の言葉を持たずに凜がスマホを手に事務所の外へ走り出ていく。目の前で見た近藤の視線を思い出し、大きく息を吐く。とてつもなく大きな恐怖に飲まれそうになりながら、新藤もソファから立ち上がる。原付のカギを握り占めると、外にいる凜の後を追った。
善の骨董屋に急ぐ道中、新藤は細心の注意を払った。ただでさえ命を狙われている可能性があるのに、背中には凜を乗せている。もし襲われることがあったとしても、凜だけは助けなければならない。お互いの持つ緊張感で、二人の口数はほとんどなかった。
「善さん! 善さん!」
店の前に原付を止めると、新藤はガラス戸を拳で叩く。カーテンの奥の灯りは消えていて、一瞬留守なのかと迷った時だった。カーテンが揺れて覗かせたのは、紛れもなく善だった。新藤と凜の顔を見て、幾分驚いた様子である。カギを回してガラス戸を開くと、中から旨そうなラーメンの匂いがする。恐らく、まだ近藤のことを知らないのだろう。
「なんだ、お前たち。今日も変な品物を押し付けに来たんじゃないだろうな」
ふざけた調子で話すのは、凜がいるからだろうか。だが、二人が無言なのと、ただ事ではない様子が伝わったのか、すぐに表情を変える。
「……何かあったのか?」
新藤が答えようとした、その時だった。店の奥に置かれた黒電話が突如、大きな音を立ててなり始める。スマートフォンが普及して久しいというのに、善は持っているものの一向に持ち運びをしない。それを知っている人間は、折り返しが見込めなくても、まずは黒電話にかけるようになっている。
「すぐ戻るから、商品でも見ていろ」
善に促されて、凜と二人で店の中をぐるりと見回した。自然と、何か事件に関連するものがないかを探してしまう。
「なんだって!」
大きな声が上がったので、新藤が善を横目で見ると、彼も同様だった。ちらりと新藤たちを一瞥した後、口元を隠すようにして小声で話す。ふと凜を見ると、なにやら引き出しの中まで探っているようだ。受話器を置いた音がすると同時に、善が駆け足でやってくる。大きな咳払いと共に、凜にそれを知らせる。顔を見せた善は、新藤と凜の立ち位置を確認するような視線を投げたが、問うこともなく告げた。
「悪いな。用事ができた。話は今度聞くから帰ってくれ」
「……叔父さんか」
今、藤本に情報がすぐ入るとは考えられない。藤本が近藤を殺害した本人でもない限り、電話をしてきたのは叔父だろうと踏む。善にも、その問いは聞こえていたはずだ。しかし、もちろん答えることもない。
「あ、彼氏だ」
凜のスマホが確かに光っている。それを合図に、新藤と凜は店を追い出されるように出た。すぐに、戸締りを済ませた善が、車で出かけていくのを建物の陰から見守る。
「くそ……収穫なしか」
ブロック塀を拳で叩く新藤の背中で、凜が咳ばらいする。
「侮ってもらっては困りますね。これは、何でしょう」
凜の手の中にあるのは、薄い茶封筒である。そして裏には、差出人として近藤の名前が書かれていた。